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人を呪わば穴二つの本当の意味 情動型虚血性疼痛 被害感情は自分自身をさらに傷つけるという不合理な事実 PTG(ポストトラウマティックグロース) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

人を呪わば穴二つの本当の意味 情動型虚血性疼痛 被害感情は自分自身をさらに傷つけるという不合理な事実 PTG(ポストトラウマティックグロース)

人を呪わば穴二つ
ということわざというか格言というかありますね。
受験解答的意味としては、他人を害することを望んだ場合は、めぐりめぐって自分も害されることになる。呪い殺そうとする場合は、相手の墓穴と自分の入る墓穴と二つ必要になることになる。
という感じでしょうか。

どうやら正式な意味のような因果応報的な回りくどい間接的な被害ではなく、他人に対して攻撃的感情を持つと、その攻撃的感情によって自分自身が直接傷つくということになるかもしれないというお話です。私は、このことわざを作った人たちは、今からお話しすることを良く理解した上で、わかりやすくこういう言葉を選んだのではないかと感じています。

最近二人のうつ病患者さんとお話をしました。お二人とも職場の人間関係がきっかけとなり10年ほど前にうつ病を発症させて、現在も通院中という共通点があります。

最初の患者さんは、うつ病とともに体のあちこちが痛いという症状がある方で、痛みの権威のあるお医者さんに診てもらったら、うつ病から痛みを感じることは多いと言われたそうです。その場にいた何人かで早速調べてみたところ、ある文献が出てきました。
そうしたら、怒りなどの情動が亢進すると、血流の変化が起き、一時的に虚血状態になる体の部分が出てきて、痛みが発生するのだと説明がありました。そこにいた仲間の中では、この見解がどのくらい信用できる知見なのかということを判断することはできませんでした。虚血性疼痛というメカニズムも分かったような、わからないようなというところでした。しかし、うつ病患者さんは思い当たるというのです。自分がうつ病になった原因を作った人たち、された理不尽な出来事を思い出して怒りに震えたときに痛みが出現するかもしれないとのことでした。

これに対して次の患者さんは、体の痛みは無いとおっしゃいます。この方は、怒りを高まらせるというタイプではなくて、理不尽な扱いを受けると自分が傷ついていくというタイプの人です。相手に対して恨みとか、怒りという感情が弱いところがむしろ心配なところでもあります。恐れという情動が優位になる性格なのかもしれません。

どうやら「疼痛を抑える」ということだけを目標とした場合は、怒りを感じない方が良いということになりそうです。

でも、最初の患者さんが職場で受けた仕打ちはそれは不条理なものでしたから、怒るのは当然だと私も感じるのです。そのことが無ければ、病気にもならないで、それまで通りに働いていたことでしょう。色々な計画もあったと思います。しかし、現実には、うつ病になり、働けなくなり、家族はうつ病患者を抱えてしまいました。かなり重症な発作が続く時期もあるようです。本人やご家族にとって、人生を台無しにされたという思いが生まれて当然だと思います。しかし、その当然の怒りが、患者さんをさらに疼痛によって苦しめるというのですから、何とも不条理なことです。

また、怒りを持てないという人は、なかなかうつから脱却できないという状況もこれまでよく目にしてきました。「自分は悪くない、悪いのは相手だ」と思えた方が回復するのかなと漠然と感じていました。怒りだけでようやく自分を支えていた人もいらっしゃいました。しかし、怒りによって、疼痛も生じ、うつ病も軽快しないということならば違うのかなとも思えてきました。

当事者である患者さんが、痛みに苦しんでも怒りを捨てたくないというのであれば、周囲がどうのこうのということはできないのかもしれません。ただ、怒りがご自分を直接苦しめている可能性があるということは言うべきではないかとも考えています。だから「怒ってはいけない」というアプローチではないのでしょうね。怒るなと言ってしまえば、信頼関係が傷つくことになるでしょうね。自分をわかってくれない。きれいごとばかりを言う。そんな感じになるでしょうね。

ただ、患者さん自身の怒りがご自身を苦しめる可能性があるとすれば、支援者は無責任に当事者の怒りをあおることはするべきではないということになると思います。患者さんが、穏やかに生活しようという価値観で、家族とともに回復の道を歩んでいるのに、「もっと怒るべきだ。」という自分の価値観で怒りをあおるということは、疼痛を招く可能性もあるし、もしかしたら回復を妨げるということがあるかもしれません。

疼痛に限らず、怒りやその前提となる被害感情によって、精神的な意味で害がもたらされている可能性があると感じています。仕事がら、人間関係の紛争の当事者の方々とお付き合いするわけですが、やはり怒りをもって当然だと思える不条理な思いをしている人たちはたくさんいます。人間関係の中でも、家族関係を筆頭に、職場関係や、学校関係など、継続して付き合わなければならない人間関係において紛争がある場合は、うつ状態になりやすいように感じています。怒りながら、精神活動が低下していくという、一見矛盾するようなご様子になる方も少なくありません。支援者等安心感を持てる人間の中では怒りを持てるのだけれど、その外の世界や一人の時間になると精神活動が低下してしまうという感じでしょうか。しかも、1人で住んでいる家、部屋から、メールを送信するときにその怒りが果てしなく膨らみ、収拾がつかなくなってしまうという様子もよく見られます。
第三者としてそういうメールを読んで感じてしまうことは、怒りで収拾が付かなくなり、冷静な判断ができず、合理的な反撃ができなくなる、むしろ、自分に不利なことを自ら行ってしまいそうになっているということが一つです。もう一つは、相手に対する呪いのような怒りによって、ご自分をさらに苦しめているなあと感じることです。相手を攻撃しているはずなのに、相手を攻撃する言葉の中に自虐的な要素もずいぶん感じてしまうのです。第三者としては、そのような呪いの言葉は、あまり効きたくはありません。ひどい仕打ちをされたのだから、それに見合うような呪いの言葉で攻撃しないと、自分を保てないということも理解はできるのです。しかし、プロとしては、その感情にまでついて行ってしまうと仕事が冷静にできなくなりますので、「理解はするけれど、同調はしない」ということが原則だと考えています。

依頼された事件を首尾よく成し遂げるという目的の範囲では、その呪いのような怒りを自分たち以外に表明することはどうしても避けるべきだというアドバイスをするべきだと思います。

しかし、恨みを抱く気持ちはよくわかる。呪いのような攻撃の言葉を発しないと自分という精神存在を保つことができないということも理解できる。しかし攻撃的感情を持つと体の痛みが生じ、精神的にもダメージを受けてしまう。どうしたらよいかわからなくなります。

こういう場合に、患者さん方は、ご自分で解決の方向を見つけられることが多いようです。最初の患者さんは、「うつ病になってこれまでの仕事、生き方が断絶させられてしまったけれど、労災を申請したり裁判をしたりする経過の中で、色々な人と出会え、色々な人が自分の味方になってくれて、色々ことを考えることができた。仕事が中断しなかったらこういうことを知らないで生きていったと思うと、悪かったことだけではないと感じている。」と言ってくださいました。
弁護士なんて言う職業は、うつ病の患者さんから励まさられる職業なのだなあと嬉しいやら恐縮するやら、そういう思いで聞かせていただきました。

2番目の患者さんからも色々なことを教わりました。このブログのいくつかの重要な記事(もっとも重要な記事を含む)は、この方と共同作業で作成したようなものです。

心理学では、悲惨な体験をして精神的にひどく傷ついてしまった場合、なかなかそれが治癒しない時に、治癒だけを優先するということをしないで、精神的外傷も承認した上で新たな人間としての成長を図るという方向での解決方法が提案されているようです。ポストトラウマティックグロース、PTGという理論のようです。治癒することを放棄するというのではなく、治癒を待たないでも幸せを実感していくという考え方なのだろうと、最初の患者さんの言葉を聞いてしみじみと実感することができました。
幸せは人それぞれかもしれません。しかし、その人なりの幸せの追求をすることも、怒りとともにでも良いから、選択肢として提起するということを目指すということになるのかもしれません。紛争解決の方向を定めるにあたっても有効な働きかけになるような気もしています。

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