SSブログ

【まるっきりネタバレ御免】映画版「ソロモンの偽証」勝手にレビュー。藤野涼子さんをはじめとする俳優陣の好演と対照的に残念な自死の描き方 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日、長時間留守番をしなくてはならない日があって、
留守番はカギに任せて出かけて、楽器の練習をしに行くのが常ですが、
腰痛のために出かけられず家にいることになりました。
本を読むのもしんどくて、
仕事の関係で知らないうちに入っていたビデオサービスがあったと思いだし
日本映画で、何を見ようかなと選んでいたら
年齢制限のかかる映画ばかりで、ちょっと見れないなと
あとで私がそういう映画を一人で見ていたと思われるのが嫌というか。

それで、宮部みゆき原作の「ソロモンの偽証」
前編後編を見ようということになったのです。
制作当時、書店でずいぶんビデオが流れたりポスターが貼られていたのを見て
興味があったということではあります。

宮部みゆきさんはずいぶん読みました。
仕事がら「火車」から入って、テレビドラマもみて
現代ものから時代物までずいぶん読みました。
多少つじつまが合わないかなと思っても
面白ければいいやというたちなので、
あまり気にせず読んでいたのですが
ちょっと調べてみたら21世紀にはいっては読まなくなっていました。

面白ければよいのですが(夢中になって読めるということですね)
少年事件を題材にした作品がどうしても気になったというのがきっかけです。
なぜ事件をその少年が起こしたのかという掘り下げが弱く
被害者の被害はよく描かれているのですが、
どうも話が薄っぺらくなっているところが気になって、
読めなくなってしまったようです。

「ソロモンの偽証」も、中学生たちが主人公で、
そのような心配が正直ありました。

ここから先はあくまでも映画を観ての感想です。
映画と原作とは違うのだろうとは思います。

先ず、いじめなどの事件を起こす大出ですが、
この人物は比較的丁寧に家族構成などが描かれていて
感じは良かったです。
その原因となった両親の描き方まで言うときりがないから
これはこれで良かったのだと思います。
簡単に更生しないけれどそれなりに上を向く
というラストはほのかに明るさを感じさせて印象的でした。
俳優さんもよく理解して演じていて好印象でした。
この人の描き方が良かったので、後編まで観られました。

主人公の女優さんは、気迫すら感じました。
大きな画面にアップされた時の一つ一つの絵がビシッと決まっていて
この人でなければ成立しなかったかもなと思わせる
圧巻の演技でした。
役名と同じ藤野涼子さんという名前は憶えておきましょう。

生徒役の皆さんはおしなべて、
自分が求められる役割をきちんと果たしていて素晴らしかったです。
富田さん、前田さん、良かったと思います。
裁判で唯一偽証をする石井さん、難しかったと思います。
行動原理が理屈っぽくなってしまったのはあくまでも演出上の問題であり、
女優さんの女優根性は立派でした。
お年頃なのに、よくもまあ、自分を醜く見せられるものだと感心しました。
実物は個性的な押しも押されもしない美人です。

大人の俳優さんも良かったです。
イライラさせるべきところで、きちんとイライラさせる演技は
あとで、あああれでよかったんだなと納得させられました。
松子のご両親役は、光っていたと思います。
演出の腕の見せ所でしたね。この映画の救いの部分担当というか。

中学生たちの模擬裁判が現実の日本の裁判実務と違う
ということは全く気になりませんでした。
気にならないように、複線を貼っていただいていたので
話に没頭できました。

概ね感動をしながら映画を観ていたのですが
そういう話をするためにこのブログで書こうとするわけはなく、
残念なというか、言っておかなければいけないところがあるために
ブログを書いているわけです。

最大の問題は自死の描き方でした。
この点は、大いに批判されるべきです。
このことを言うための記事です。
ここから一気に話は暗転します。
映画の良いところだけ読めばいいやと言う人は
どうかここまでにしてください。




おそらく原作は映画よりももっと
自死の実態についての理解抜きに
俗物的な解釈で自死を描いていたのではないかと想像しています。
文字通り、自殺は自分を殺すことだとでもいうような感じで。

おそらく映画の方はできるだけリアリティーを持たせようと
苦労して、いろいろなことを省略をしていたように感じられました。

なぜ柏木は自死をしたのか。

映画の方は、観ている方があまり気にならないように
ごまかしている。
のだろうなと感じました。
これは悪いことではなく、良心的な意図だと思います。

それでもあえてそのごまかしたところを分析してみます。

自死した柏木は、中学校2年生頃から抑うつ状態になっていて
不登校引きこもりになります。
世界が虚無で満ちており、生きるに値しないと感じるようになっていったようです。
病前性格か病後の症状なのかははっきりしませんが
きれいごとと感じる言動をする他者に対して
猛烈に人格否定となる言動をするようになります。

これはかなり病的な行動として描かれていて、俳優は好演

藤野を偽善者呼ばわりするときも、
一切の許しを拒否する姿勢はある意味圧巻で
相手の感情にいささかも共感できない様子を描き切っています。

いじめの現場を見てもいじめられている被害者がいることには
何も心を動かすことはなく
いじめを見過ごそうとする人間だけを罰しようとする
そのくせ自分も何もしない。
つまり、攻撃のためだけに生きている、
生きる原理が他者を罰することのような人格が描かれています。

柏木は神原に対しても
神原の父親が酒乱で母親を殴り殺し、勾留場所で自死した
というエピソードがあり
実の両親のことを忘れようと神原がしていることを知って、
神原に命じてクリスマスイブの雪の夜に
神原の両親との思い出の場所を歩いて回らせ
感想を言わせるというゲームをやらせる。

これに、神原が応じる(けっこう自然に映画では描いていました)。
実際やってみると、神原は、忘れようと目をそらせていたけれど
実際に訪れると、楽しい思い出もあったことに気が付き
それを柏木に告げる。

柏木はその神原の言動を否定する。
殺人者の父親と殺された母親との記憶に温かいものがあるはずがない
お前も血塗られた血の持ち主だと罵る。
そして深夜の学校の屋上に神原を呼び出し
一緒にいろと命じるが
神原が拒否して屋上を立ち去った直後
屋上から身を投げる。
(だいぶ省略していますが)

だいたいこういう流れだったと思います。

この自死を遂行する場面の描き方が
あまりにもリアリティーの無いところで、大変残念なところです。

これでは、自死が誰かへの当てつけで行われることがあるように印象付けされるし
自死が自分の意思で意図的に行われうるかのような
誤解を観る者に与えてしまいます。

これでは、
ネット記事を見て事情を知らない人が憶測しているような自死の構造です。
あるいは高齢になって、自分の知らないことは無いという傲慢な感覚で
解決策を思いつかないで苦しんでいる人たちを馬鹿にする小説家Sの感覚です。
さらには、自死をした人に非難が向かうような描き方にもなっています。

確かに、自死が起きた場合は
周囲は、自責の念を感じます。
これは自死者との距離や対人関係の質によっては
壮絶な苦しみを抱く場合があります。

そして、物理的距離が近くて
心理的な距離が近くない場合は、
自責の念が歪んでしまって、
自死が自分に対する当てつけであり
死んだことによって反論のできない暴力的な主張だ
と感じる場合もあるでしょう。

確かに自死した人たちの遺書を読むと、
多くの人たちに対する配慮が記載されているのに
特定の人に対してだけ
皮肉のような内容の文言が書かれていることがあります。

しかし、後追いでなぜ死んだのかということを調査すると
誰かに当てつけをするために自死をするということはない
ということがリアルな実感です。

遺書がある場合は、死ぬ前に不思議な静寂の時があり、
様々な配慮をするような思考が可能となることも確かにあります。
ただ、それでも残された者を思いやっても
自死を決行することが揺るぐことがなく、
残された者に詫びながら亡くなっていくということが
私が後追いで関わったすべての自死のケースで言えることです。

遺書がない場合も多いです。
何かにとりつかれたように
自死の行動に向かっていくのです。
自分は死ななくてはならないと思っているかのように
最大限の努力をして死ぬ行動をします。

これに対して、
残された方とすれば
何か心当たりがある場合は
自分が死に追いやったのではないか
と感じる人たちがいることも間違いありません。

実際にそういう場合もあるでしょうが、
それは、実際に自死の行動に入り始める前の事情であり、
自死リスクを高めた事情という評価になるでしょう。
死ぬ瞬間、あるいは直前の心理ではないと思われます。

自死リスクを高めた事情としては誰かの言動が
理由となる場合があることは事実です。

しかし、今から自死するという時に
誰かの言動で自死を決意して実行する
例え、そのうち死のうと思っていても
その言動をきっかけにということはありません。

そんなに簡単に人は死にません。

この映画の一番残念なところは
(私の個人的な意見ということですが)
自死が、自分の自由意思で行われているという前提にたって
自死を描いているということです。

何をもって自由意思というのか難しいところですが、
自死者の意思を想像すると
「自死を途中でやめる」という選択肢を持てないところで
自死が行われていると感じられます。
「自分は死ぬしかない。死ななければいけない。」
という病的なまでに強固な想念とでもいうものに支配されているようです。
自死のメカニズムの研究の張賢徳(ちょうよしのり)先生は
解離状態が起きているとの説を説かれています。

分かりやすく言うと自分の日常の人格とは別に
病的な別の人格となって自死を決行するという感じでしょうか。

なぜこれを問題にするかというと、
自死はもっと追い詰められて行うもので
死ぬ他に選択肢が無くなって死に至るということが実態なのに、

色々考えた結果自由意思で死を選び
自分の命を誰かに当てつけにする目的で死ぬなんて言う
余裕のある自死なんてあるはずがない。
それにもかかわらず、そういう死が少なくないように
人々に誤解と謝った先入観を与える危険性があるからです。

この映画では自死者が人格的に問題のある行動をしてきたことは
明るみにだされましたが、
判決の結論部分は、さらっとしていて
大出が柏木を殺したのではないということだけが強調されていました。
ここは今考えるととても良い演出だったと思います。

ここは原作とは違うところかもしれません。

ところで自死を途中でやめた人から話を聞いたのですが
止めるきっかけとなったことは
ある人に対する強烈な憎しみでした。
「自分が死んであいつが生き残るということは許せない」
という思いが死を思いとどまらせたようです。

憎しみや怒りは、最後の最後では
生きるために必要な感情になるということです。

柏木にとって神原が、両親との楽しい思い出があったということを語り
そのことに偽善者である、あるいは嘘をついていると
激しく非難したのであれば、そのような人格であれば
神原が立ち去ろうとしたのであれば、

神原の言動によって、むしろ自死を思いとどまり、
神原への攻撃を生きる喜びとして
立ち去る神原を追いかけて行っても攻撃するということがリアルでしょう。

神原が立ち去ったことが自死のきっかけになることは
私にとっては許しがたい矛盾だったのです。

なぜ、そのことで、ここまで激しく書いているかという
その部分を最後にお話しします。

この映画は、とても大きなテーマをもって作られています。
それは、印象でもって決めつけをしてはならない
特に確かな根拠もなく、他者を非難してはならない
理由なく人格否定された人間が著しく傷つくということです。

そもそも、裁判自体が
大出の冤罪を晴らして無罪にするために行われたものでした。

映画中印象的なシーンでは
告発状を受け取ったはずの担任が受け取っていないと言ったのに対して
受け取っているはずなのに卑怯だと言われて
担任が追い込まれるのですが、
実際は隣の住人が盗んだということでした。

それらの思い込みによって生じた他者への攻撃を解消するためにも
その時苦しんだ学級の全体で真実を共有する必要があり
どうしても裁判が必要だったということだったはずです。

ところが、この映画は、肝心の、つまりミステリーの起点になったはずの
自死については
「自死者の性格が悪いために勝手に自死したものであり、
そのために周囲がとても迷惑をしている」という型を
最後まで外すことができませんでした。

聞きかじりの思い込みで自死が描かれているということです。
フィクションとしても一気に面白みが失せたポイントです。

このような聞きかじりの論調はマスコミでも肯定的に取り上げられています。
自死は他者に迷惑をかけるもので、非難されるべきだというのです。
容赦なく死者とその家族に鞭打つわけです。

少年事件を取り上げたときもそうでしたが
この作家はどうしてもそういう非科学的な論調に乗って
事件を起こす少年というものは
人間らしい思いを持たない特殊な人格を
生まれながらに持っていると理解しているかのような
印象を私は個人的に受けていました。
この人の小説が面白くなくなった一因は確かにここにありました。

それを象徴するように「描かれなかったシーン」があります。
自死をした柏木の両親も裁判に傍聴に来ていたのですが、
柏木の病的な話が出てくるとき一度だけ
父親を演じた宮川一郎太が困惑している様子が写されていました。

しかし、裁判が終わった後に
柏木の両親の姿だけは映されませんでした。
話の流れから行って不自然だと思います。

どう演出をつけて良いか分からなかったから
ごまかしたのだと思います。

そうだとすればそれはもっともな話です。
まだ救いがあります。

そうだとすれば、根本的に何がおかしいのかについて考えて
せめて演出上の工夫があっても良かったかなとは思います。

問題のある映画であることは確かですが、
原作以外はとても良くできていて
夢中になって観ていました。

しかし、自死について
あまりにもリアリティーの無い取り上げられ方をすると
無駄に傷ついてしまう多くの人がいること
それは社会的差別を受けたように苦しむこと
苦しんでいる人たちは反論ができないことにも苦しむということ
それを分かってほしいと思い記事を書きました。





nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。