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いじめかどうかの議論よりも子どもの命の心配をするべきではないのか。教育現場において、子どもを心配する「システム?」を作る必要性がある [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめ防止対策推進法が平成25年に施行されています。
この法律では「いじめ」を幅広くとらえて、
いじめに対しては懲戒を行い、
重大事態(生命被害、心身被害、不登校)が起きたならば
いじめとの因果関係を調査し
教育委員会に報告する等の義務を学校に課しています。

いじめの定義だけここにも記録しておきます。
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒との一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」

様々な問題点については1年前に書いていますので、
よろしければ以下をご覧ください。一部重複します。

いじめの定義を科学的なものにするか、いじめと認定した効果に教育的観点からの働きかけを入れるかしてほしい。いじめの定義は広すぎて改めるべき理由 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-11-26

この法律というか、現在の日本の子どもを守るシステムについては
子どもが「児童生徒からいじめられていた」といいう条件が
必要だということになっているという問題があると言えると思います。

いじめが無ければ、自死があっても、深刻な自傷行為があっても
何年間も学校に来なくても
調査も報告もしない
ということになってしまっています。

もしかしたら、
教職員の逸脱した指導があったかもしれない
登下校中に犯罪などの被害に合っているのかもしれない
それなのに
児童生徒からいじめられた子どもだけが
調査の対象となっているということはそれでよいのでしょうか。

こういう政策を原因として
児童生徒に何らかの被害が生じた場合、
無理やりにでもいじめがあったと主張しなくてはならない
ということになるような気がします。

但し、いじめは簡単に見つかってしまいます。
なぜならばいじめの定義が
子どもどうしの心理的影響を与える行為であって
それで子どもが心理的苦痛を与えられればそれでいじめですから。

未成年者が集団生活をしているのですから
当然、心理的影響を与え合っているわけですし、
未熟さゆえに心理的苦痛を受けていることも
日常茶飯事であるからです。

今大人になっている者たちの中で
学校で嫌な思いをしたことがない
苦しい思いをしたことが無いという人間が果たしているのでしょうか。

子どもに限らず対人関係上の心理的苦痛は
ちょっと加減をしないでやり過ぎてしまったなどの先行行為があり、
それに対して攻撃されたと思って、反撃をして
反撃をされたことによって、心理的苦痛を受ける
ということが日常無数にあるわけです。

この苦痛によって、自分の行動が失敗だったことに気が付き、学習し
行動を修正して人間関係に復帰していくわけです。

成長のために有益な苦痛となることが多くあります。
これも全部いじめになってしまいます。

(但し、一方的な八つ当たりのようないじめも確かにあります。
これは何が何でも大人がやめさせなければなりません。)

そして、反撃した人間が児童生徒であり
反撃された側の子どもが心理的苦痛を抱えていたら
懲戒の対象としなければならない
これがいじめ防止対策推進法の建前なのです。
法律の「加害者」に対するアプローチは懲戒だけです。

もちろん学校は「良識」をもって反論するのです。
いろいろと自己流の理屈をつけていじめには該当しない
と無理なことを言い出すわけです。

このように自己流のいじめ除外理由が横行してしまうと
どれもこれもいじめではなくなってしまい
誰しもいじめだと感じる残虐ないじめだけがいじめになってしまい
気が付いたときには子どもの自死も防ぐことができない
つまり自死があったときだけいじめを認める
ということになってしまいかねません。

いじめの定義の問題が学校関係者においても
十分理解されていないのですから
世の中で理解がなされていないのは当然のことです。

これを読んでいる多くの方々も
いじめの定義の意味の問題点をどの程度の方が
ご理解されているでしょうか。
私は以前たまたま自治体のいじめに関する仕事をしていた時期があり
いじめの定義について資料に目を通す機会があったため
ここでこのお話ができるわけです。

「DV」という言葉で再三お話ししているとおり、
「いじめ」という言葉も独り歩きをしてしまいます。
「いじめ」があったというだけで、
誰しもいじめだと感じる残虐ないじめがあったと
そう感じる方も多いのではないでしょうか。

子どもどうしのたわいもないやりとりも
法律上の「いじめ」に該当してしまうので、
子どもどうしのたわいのないやりとりをしただけなのに
残虐ないじめがあった
残虐ないじめの加害者だという受け止め方をされてしまいます。

なぜかマスコミも、
いじめがあったと認定すると
実体とは別に
残虐ないじめだったかのような報道をするようです。
しかも相手方のコメントも取らず、
第三者が存在している場合も第三者のコメントも取らず
一方の言い分だけを報道してしまいます。

さらにおよそいじめがあれば、
それがたわいのないものである可能性もあるのに
自死や不登校などの重大事態と結び付けようとする報道も
最近よく目にするとおりです。
根拠は、ただ、いじめと認定されたそれだけです。

それもこれも、いじめがなければ
調査活動を行わないという法律に問題があると私は思います。

自死という最悪の事態を考えてみると
ご賛同いただけるのではないかと思うのですが
いじめによる自死
教師の逸脱指導による自死
登下校の犯罪などによる自死
原因不明の心理的圧迫を受けての自死
私は全て防止する必要があって
そのために大人は全力をあげなければならないと思うのです。

さらに自死ではなく不登校だって同じだと思います。
子どもが長期間休校してしまうと
なかなか再登校することは難しくなります。

長期休み明けの心理が強大になり
否定的な記憶が優位になってしまいます。
また、自分がいない期間の中で
人間関係が変わってしまい、自分の居場所がなくなってしまっている
という不安も付きまといますし、
いざ登校してみると
知らないやり方が定着しているなど
お客さん気分、つまり自分はこの仲間ではないという意識を
拭い去るには相当の時間がかかるでしょう。

ずっと不登校が継続してしまい
学校どころか、社会に復帰することが困難になる事例もあります。

原因不明の不登校が起きたら
大人たちが団結して対応する必要がどうしてもあると思います。

自死に話を戻しますと
何らかの心理的葛藤があり
自死リスクが高まった場合、
不登校になって
重大事態の目安になる1か月休校を待って調査を行う
というのでは、
自死は起きてしまいます。

立ち止まって考えるとつくづく不思議なのです。
いつも登校していた生徒が突然不登校になったというのであれば、
心配にならないのでしょうか、
そうでなくても10代の若者が
突如家に引きこもった状態になったというのであれば
一体どうしたのだろうと心配になるのではないでしょうか。

人格の向上を最上位の目的として学校教育がなされているのだから
学校に来ないまま大人にすることはできないと
焦ってしまうことが普通ではないかと感じるのです。

このままでこの子の人生はどうなってしまうのだろう
と心配になることが、普通ではないかと思います。

いじめがあったかどうか
不登校と評価できる日数の休校があるかどうか
なんてそんなことはどうでも良いのではないかと思えるのです。

いじめの有無や休校日数は
こうやって考えると
学校が調査をしない言い訳に思えてきます。

自死が起きたら
学校としても、自分達に何らかの問題がなかったか
調査をしたくなるということが
あるべき人間の姿ではないかと思うのですが
違うのでしょうか。
また、そういう発想を持つ立派な教育委員会も現存します。

これからの日本は
今の子どもたちに大きな経済的な負担をかけることが予想されています。
子どもたちの一人当たりの負担を減らすという
私たち大人の自分勝手な利益のためにも
もっと学校に予算を投入して
子どもたちの健全な成長を確保する政策を実施するべきだと思います。

いじめに限らず
不登校や
不健康な状態
自死リスクへの対応をし
何が何でも健全に成長する子どもを増やすために、
予算を抜本的に増やし
当たり前に心配のできる教職員を
必要人数配置するべきだと思います。

ただ、お金をかけるだけでなく、
子どもの異変を心配する大人たちが教育に関わる仕組みを
作る必要性があると感じています。

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