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大新聞のあおり記事は、戦前に戦争遂行の下地作りで行ってきたことを、性懲りもなく繰り返している。煽情的な記事に無邪気に反応してしまわしないために。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



「戦争反対」というスローガンは最近あまり聞かれなくなっているように感じます。私がぼーっと生きているからでしょうか。戦争の技術が高度になりすぎて、戦争が起こる、あるいは戦争に巻き込まれるという実感が持てないからかもしれません。しかし、戦争であったり、戦争と同じ不道徳な行動は、鉄砲担いで飛行機乗ってと言うだけではないと思います。戦争あるいは戦争と同様の不道徳な行動の加害者にも被害者にもならないで、平和に生きていくという準備をすることは当面は必要なことのような気がします。

この準備をしないで無防備に戦争に突入していったのが、戦前の日本の歴史だと思います。私自身、ふと気が付くことがあるんです。戦争を行った当時の日本人は、あたかもものを考えずに、右向け右で一斉に疑いもしないで戦争に突入した無邪気な人たちが圧倒的多数だったような錯覚を抱いてしまう自分に気づくことがあるわけです。しかし、戦前の具体的な文化人(法律学者をだいぶ含む)や、自分の祖父母などの話を聞くにつけて、むしろ今よりは高度な知能、高度な文明、高度な人間関係を営んでいたと言っても良いのではないかということです。無駄に他人を攻撃しないという観点からは現代人はほとほと情けないように思っています。特に公的な場面で人情が無いというか。まあ、それは極端な議論、偏った議論だとしても、戦前と現代と、人間の能力はほとんど変わらないわけです。それにもかかわらず、戦争を描いたドラマや映画で少数派の主人公の敵役のように強調されて描かれるものだから、戦争を行ったと人間たちがそういう敵役のような人たちばかりというバイアスがかかった見方をしてしまうのかもしれません。戦争に反対しなかった世代の人間という目で、ひとくくりに見てしまう自分に戦慄を覚えるのです。

要するに戦争遂行勢力が、戦前と同じように十分な準備をすれば、現代でも鉄砲担いで飛行機乗っての原始的な戦争も可能なのだということなんです。

ここでいう戦争の準備については、多くの人たちは昭和に入ってからの思想統制だったり、特高警察や軍部の締め付け、五人組制度等の相互監視というものを念頭に置くと思うんです。しかし、特高警察にしろ、軍部の台頭にしろ、大日本愛国婦人部にしろ、先にこれがあったわけではなく、むしろ結果なのだと考えた方が良いと思うんです。ここに来るまでが大変だったんだと、当時の日本の支配層は言うでしょうね。日本人なのか、外国人なのかわかりませんが。

要するに戦争は善だ、百歩譲って仕方がないものだ、やらなくてはならないものだ、日本人を、自分の家族を守らなければならないという意識があって初めて特高警察や、軍部、五人組は国民の支持を受けたのだと思うのです。

本当に国民の思想づくりをしていたのは、明治から大正にかけてのことだと思います。このことは前に詳しく述べました。
「現在に残存する戦争遂行イデオロギーとしての作られたジェンダー 」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-06-14

そこで一役買っていたのが、間違いなく大新聞なわけです。
それまで先行的に、戦争準備をしていたのを知っていながら
戦う思想づくりを推進していたわけです。

そして、昭和に入りアカラサマな戦争遂行イデオロギーを露わにすると同時に
マスコミも同調したわけです。

分かりやすくすれば
「何にもまして正義は大切であり、
正義に反することがあれば怒りをもって制裁しなければならない。
反正義に怒りを持って戦うことは国民の義務である。」
こういうことですね。

高度成長期は「正義」が「生産性」に代わっただけですから
日本人の価値観にぴったり合ったのでしょうね。

こういうと、
このような感情は人間の本能であるから
人間の本能にマスコミが迎合したのだ
という人が出てくると思いますが、
それはサルと人間とを区別できない人のセリフです。

サルと人間は次々と進化の過程で枝分かれしていきました。
最後に分かれたのがチンパンジーで
600万年まえまでは人間とチンパンジーは同じ祖先をもっていました。
それぞれ進化を遂げていますから
人間がチンパンジーだったわけではありません。

人間とチンパンジーはこのため遺伝子的にはたいして違いませんが
大きな違いがいくつかあります。
1つは犬歯、糸切り歯が人間は極端に小さいということです。

この犬歯は、オスがメスを取り合って戦う時に使うものだとされています。
人間の糸切り歯が小さくなったということは
人間はメスをめぐってオス同士が物理的な戦いをしなくなったということです。

ドーキンス先生に言わせれば
遺伝子は自分のコピーを永続させるために
オス同士が戦うことをやめ
群れを作って生き残る戦略をとった
みたいに言うのだと思います。

ハミルトン先生を引用して
その群れとは血縁を基盤とするなんて余計なことを言ったかもしれません。

しかしリアルな言い方をすれば

人間の祖先の中には、
メスをめぐって血で血を洗う者たちもたくさんいたはずです。
しかし、殺し合い寸前のようなことを繰り返していたために
群れを作ることができず
せいぜい夫婦と子どもが何世代かにわたってグループを作ることしかできない。
そうすると、群れの中に暴力装置として有効なオスが少ない、
頭数も10人未満の群れしか作れず
肉食獣に襲われるとひとたまりもない弱い状態となり
食料もろくに獲得できないために飢えも深刻となり
あっという間に絶滅してしまったのだと思います。

しかし、たまたまメスをめぐって争わない地方があり
その地方では、オス同士も同じ群れの仲間として強力できて、
血縁に縛られない30人程度の群れを形成することができて
小動物を狩るチームと
食べられる植物を採取して子育てをするチームと別れて
効率よく餌をとることもできるし、
頭数も充実しているので
肉食獣も襲いにくく、
襲ってきたらみんなで反撃することから
強い群れが作られた。

その強い群れは子孫を残すことができ、
今の人間が生まれてきた
とまあこういう言い方になるのだと思います。

つまりチンパンジーは群れを作らなくとも生きていく能力があったものだから
オス同士が戦って遺恨が生じても種としては絶滅せず
生きていく能力に乏しい人間は
オス同士が戦ったら生きていけないので
オス同士が戦わない傾向のある者たちだけが生き残った
とこういうことなのだと思います。

この人間のこころが完成したのが今から200万年前くらいだとされています。

家族は女性を縛り付けるツールだなんていう人もいましたが、
家族が夫婦を基本として構成されるのは、最近の話であり、
女性が嫁に行くようになったのは、日本でも鎌倉時代からで
そんな古い話ではありません。
200万年前は、母系という傾向はあったかもしれませんが
夫婦という単位はそれほど重要ではなかったのではないかと考えています。

このような平和な時代は約200万年つづきます。

その後、農耕が始まり、労働時間が長くなるともに
定住が多くなり、関わる人数も増えていきます。
人間の能力を超える人数が常に自分の近くにいて
群れ同士の利害対立も起こるようになるわけです。
典型なものは水争いでしょうね。

それまで、人間と言えば仲間しかいなかったわけですから
人間が人間に怒りを向けるということは極端に少なかった
ほとんどなかったと思います。

しかし、仲間ではない人間が身近に存在し
自分達の利益を奪うという段になって
仲間ではない人間に対しては怒りを持つようになっていった
物理的な争いが起きるようになった。
ということなのだと思います。
差別の起源です。

しかし、しかし、200万年続いた人間のこころが残っているということは
仲間ではない人間だとしても人間の形をしている以上
攻撃することには抵抗があったり、後味が悪いものですから
攻撃や怒りを正当化して自分を慰めなければならない
それが「正義」であったわけです。

正義は怒りを解放する口実として生まれたと私は思っています。

正義とは必要悪か、必要のない悪かどちらかだと思います。
当時は自然を相手に生きていくためには必要だった可能性があります。

人間はこのように200万年の記憶があり、
理由もなく他の人間に対して怒りをもつことができない
という特性があります。

この例外が「自分を守る場合」と「正義感を発する場合」ということになります。

だから海の向こうの見たこともない人たちとの戦争というものは
なかなかできることではない。

本来であれば、同じ国の人でも
自分とかかわりのない人がかかわりのない場所で悪さをしたところで
怒りの感情が自然と湧きあがるということは
なかなかないわけです。

この普通なら起きない怒りを無理やり起こしているのが
マスコミです。

児童虐待に対する怒り、いじめに対する怒り、パワハラに関する怒りも
マスコミが媒介して私たちが怒るわけでして、
私たちが怒るようにマスコミが媒介するという言い方もあると思います。

東京の目黒区で、実母と実母の夫によって、
女の子が死んだという事件がありました。
この子は何歳くらいというご記憶でしょうか。
当時亡くなった女の子の写真として広く報道された写真は
亡くなる何年か前のものでした。
亡くなる直前の写真もあったのに
おそらく今でも事件に関連して出される写真は
亡くなる数年前の写真なので
3歳くらいの子が亡くなったと記憶されている方もあると思います。
亡くなった子は6歳の誕生日を目前とした5歳の子でした。

私たち人間は弱い者を守ろうとする意識を持つようにできています。
これも進化の適応の中で身につけたというか
そういう意識を持つ者だけが群れの頭数を確保して生き残ったわけです。
だから、弱い小さい者がいじめられることに
本能的に不快、嫌悪を感じます。

亡くなる直前のお母さんにそっくりな写真を使わず
いたいけな3歳くらいの写真を使って報道したというのも
私は国民の怒りをあおる意図があったと考えています。
これは印象操作です。

いじめの報道にしてもそうです。
当然記者は、いじめの内容について取材をしています。
どういういじめがあったか知っているわけです。

それが凄惨ないじめであれば
具体的ないじめの内容を報道します。
しかし、記者の目から見てそれほど重大ないじめではない時は、
いじめの内容は具体的に報道せずに
「いじめ」があったという報道スタイルになります。

敢えて読者の想像力を掻き立てて
怒りをあおっていると
いくつかの報道から感じ取ってしまいます。

いじめ調査の第三者委員会や遺族の発言も
その本来の趣旨を敢えて切り落として
怒り、いじめ、制裁の対象となるところだけを選んで
記事にされてしまいます。

名の通った新聞でもそれなのです。

怒りとは、危機感の表現です。
逃げる場合も怒って反撃する場合も
脳の扁桃体が危険が存在すると判断し、
次の逃げる、戦うという行動のための
生理的変化を体内に起こす仕組みです。

そうだとすれば怒りをあおられるということは
無駄に危機意識を感じさせられているということです。

読者に迎合して挑発的な記事、煽情的な記事にする
という解説をよく聞くのですが、
読み切りのタブロイド紙や週刊誌ならともかく
定期購読する一般新聞の記事が
煽情的で、刺激的なので購読を続けよう
という人がいるでしょうか。

いませんよ。

朝日新聞を定期購読していた人が
産経新聞の記事の方が血が沸き肉が躍るから産経に変える
なんてことは、無いとは言わないけれど
一般的には考えにくいわけです。

だいたい競合新聞数紙の中から
三面記事を読み比べて購読する新聞を決めるなんて言う人はいません。
いつもとっているからとか、勧誘が来たから
その新聞を読んでいるだけでしょう。
地方紙なんかは、それしか地元の情報を取り上げる新聞がないから
選択の余地がなくそれを読んでいるわけです。

そうだとすると結論としては、
新聞は読者を見て煽情的な記事を書いているのではないと思います。
読者とは別の人間の顔色を見て書いているわけです。

あおる新聞の文章表現こそ戦前の勧善懲悪の特徴が実に色濃く出ています。
戦前のマスコミの二番煎じです。
つまり、怒りの対象としてふさわしい悪人がいて
その悪人が罪もない正義の人を苦しめている。
さあ、悪人に石をぶつけろというものです。

いじめの被害者は絶対的な善人になり
加害者は絶対的に悪人になります。

DVの被害を訴える女性は、無条件に手を差し伸べるべき人であり、
その相手の男性は、人間とは思われな残虐な性格を持っていると
知らず知らずのうちに私たちは思い込まされ
全く必要のない怒りの感情を高ぶらされているわけです。

目黒事件でも
その母親は、わが子が亡くなったばかりで化粧っ気のない顔を
何カ月もたった時まで使われて
ことさら極悪人のように報道されていたのですが、
裁判が始まると夫のDVの被害者だということで
評価が逆転された報道がなされました。
写真もおそらく実物に近いだろうものが使われました。
手を差し伸べるか叩くか
どちらでなければならないという不文律があるようです。

しかし、人間の世の中、そうめったらやたらに
二項対立の人間関係はないでしょう。
結局国民に冷静になって考えさえることを妨害しているだけです。
冷静になって考えないで怒りをもって批判しろと言うように見えてしまします。

こうやって引き起こされた
無駄な危険意識は、やがて
自分も同じような目を受けるのではないかという
漠然な不安を抱かせるようです。

先ずます些細な刺激に過敏に反応するようになってしまいます。

他人の行動に目を光らせて
些細な落ち度を見つけては批判する
そういう風潮が生まれているように感じます。

要するに慢性的にイライラするようになるわけです。
怒りっぽくなってしまう危険もあります。
不安になりやすくなる危険もあります。

その風潮形成に貢献しているのは
間違いなく大新聞と有力地方紙です。

私たちが大事にしなければならないことは
冷静な目で世の中を観察し
静かに考える思考を確保することではないでしょうか。

新聞を見ない方が良いとは考えてはいませんし
テレビを見てはだめだと言うつもりもありません。

ただ、自分の精神状態を健康に保ち
家族や友人たちにイライラをぶつける等悪影響を避けるためには
あまり自分と関係のない事件については
「色々あったのかもしれない」
とクールな態度でいることが最善であろうと思う次第です。



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