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DV法の保護拡大の報道に接しての危機感を表明する。家族制度解体に向かう亡国の法律となる危険があるということ。国家としてあるべき政策とは。 [家事]




配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(DV法)が拡大の方向で改正される動きがあるらしい。

私は、この法律実務に関与した経験のある弁護士として、この改正によってこれまであったDV法の危険がより深刻化するのではないかという懸念があります。その懸念をここに記しておきます。

<現行法のおさらいと改正の動き>

今改正の動きがあるのは
保護命令(DV法10条)と呼ばれる制度の拡大です。
保護命令は、
A:すでに夫婦等が別居している場合は、6か月間、被害者(DV相談をした相談者という意味)の住居、勤務先などに近づくこと、付近を徘徊することの禁止命令
B:申し立て時夫婦等が同居している場合は、加害者(被害者の配偶者等という意味)を、2か月間自宅に立ち寄らせないという命令
を命じることです。

罰則として1年以下の懲役または100万円以下の罰金があります(DV法29条)。

但し、すべてのDVではなく、
① 身体に対する暴力又は生命等に対する脅迫のある場合で、かつ、
② さらなる身体的暴力によって、
③ その生命又は身体に重大な危害を受けるおそれが大きいとき
という条件のすべてが認められなければなりません。

今回の報道では、上の①,②,③のどの部分が改正されるのかはっきりしませんが、①が改正されることは間違いないことになります。

問題は、②,③も改正されてしまうかというところにあると思います。ここが不明です。ただ、読売新聞の報道(司法関係の報道では安定して正確だと感じているため)では、「内閣府によると、2020年度に政府のDV相談窓口に寄せられた内容のうち、身体的暴力は約3割にとどまり、精神的暴力が6割近くを占めた。精神的暴力によって心的外傷後ストレス障害(PTSD)など深刻な被害を受ける恐れもあることから、政府は保護命令の対象に加える必要があると判断した。」
とされており、生命または身体に重大な危害ということの中に、PTSDの発症の危険が含まれることになるということも想定しなければならないと思います。
そうすると、②の条件も、PTSDは、必ずしも身体的暴力によって起きるのではありませんから、PTSDを発症させる外傷体験があれば足り、身体的暴力を要件とする必要がなくってしまう可能性も出てきてしまいます。逆に身体的暴力の要件は温存するという考え方もないわけではないでしょう。身体的暴力がある時に限って、PTSDの発症の危険も考慮することにしてバランスを保つということです。

<現行法の特徴 バランスのとり方>

この通り、現行法は、被害者保護のために
保護命令を発令して、加害者とされた者に対して、
・行動の自由を制限する(憲法13条)
・居住の決定権を制限する、(憲法22条、29条)
・個別の裁判所の決定で刑罰の対象となる行為が定まる(憲法31条、13条)
という強い効果を与えていることがわかります。

これとのバランスをとり、人権を保護の観点から
・そもそも身体的暴力、生命に関する脅迫の場合に限定して、保護の必要性が明白であり、かつ、国家という第三者が介入する基準を明確にする。
・さらに保護命令が強い制限効果を有するため、加害の内容を身体的な暴力であり、かつそれが生命や身体への重大な危害の場合という明らかに不道徳な場合に限定しているのです。

このようにおよそ法律は、
一方を保護すると他方の権利侵害が起きることになることを踏まえて
バランスを取りながら、保護を図るものです。
理性的な議論が必要になります。

確かに人権侵害のような配偶者加害行為から、被害者は解放されなければなりません。しかし、本当に配偶者加害行為があったのか、簡単にはわかりません。
例えば妻が浮気相手と結婚するため今の夫と離婚したい、離婚原因が特にないから、暴力があったことにして、保護命令を出してもらい、離婚調停や裁判を円滑に進めて、首尾よく不倫を成就したい
というような欲望のために、夫の財産や行動を制限しないようにしなければならないのです。こういう事件は結構な割合であると実感しています。

現行法の具体的なバランス感覚が、身体的な暴力、生命を脅かす脅迫があった場合に限定するということでした。

<現行法の問題点>
実務家の体験や保護命令手続きの現状からすると、現行のDV法の保護命令の手続きはとても大きな問題があります。

第1の問題 本来バランスをとるために必要である、上記①,②、③が極めて曖昧であっても保護命令が出されているという現実です。
 実際に保護命令が出された問題でも
申立人(妻)の主張が「激昂」、「暴力をふるうふり」、「近づく」、「周囲のものを叩く」、「蹴るしぐさをする」、「激怒し口論」、「はだしのまま体を引きずって突き飛ばす」、「乱暴な言動」で、これのどこが身体的暴力、命の危険のある暴力になるか訴訟行為としては全くわからないというべきです。
具体的な内容はほとんどなく、その場面を体験していない申立代理人の評価がだいぶ混じった内容となっています。別の事案でも、帰宅時に玄関に立っていた妻を夫が強引につかんで廊下に上げたなどと主張されたことがありますが、午前零時を過ぎて酔っぱらって帰ってきた妻を介抱するために家に上げたことが暴力とされていたりします。ハサミをもって追い回したという主張がありましたが、犬の毛のスキばさみをもって犬を探したことをもって命にかかわる重大な危険があると認定されてしまっていたりしています。また、何年か前のもみ合いをもって身体的暴力があり、今後の暴力によって生命身体に重大な危害があるという決定もよく目にするところです。
現在でも身体的暴力という要件は曖昧なまま運用されていることが散見します。
この結果、抗告審や再度の保護命令の際に、保護命令決定が否定されることがかなり多くあります。保護命令を出した当の裁判官が全く同じ申立書に対して、取り下げを説得したという事案さえあります。前の保護命令では相手方の夫は弁護士を依頼していなかったのです。代理人が付かないと法律を無視して保護命令を出すぞと言っているようにしか聞こえませんでした。
こんな曖昧な暴力認定によって、主に夫は、自分の家に2か月も帰れないという状態となり、帰ってしまうと1年以下の懲役や100万円以下の罰金が科せられるという犯罪者となってしまうのです。

第2の問題 防御の手続きが奪われる運用がなされている。
  これは前に述べました。
やっぱり保護命令手続の現状の運用はおかしい
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-03-12
   から続く一連の記事

  簡単に言うと、相手方には、木曜日に裁判の呼び出しが普通郵便で送られてきます。届くのは金曜日の午後か土曜日。働いている人は金曜日の夜以降に封筒を受け取ります。驚いても土曜日、日曜日に弁護士に連絡が取れません。月曜日に事情をよく分かっている弁護士にたどり着くことも至難の業です。そして、火曜日の何時に裁判所にきて申し開きをせよと命じられている内容を読んで、そのまま行ってもちんぷんかんぷんで何を言ってよいのかわかりません。必要な反論もできないまま保護命令が出されてしまうのです。だまし討ちのような例はたくさんあります。
  これまで真面目に生きてきた人間が裁判所に出頭を命じられるだけでもパニックになるでしょう。裁判所で自分を守るなんてことは普通の人では無理な離れ業なのです。

第3の問題 男性の申し立てが受け付けられない男女差別
  保護命令は事実上、女性だけが申立権利者になり、男性が申し立てようとしても受理されないということがあります。受付で笑われて相手にされなかったそうです。
  これはおそらく、「女性がひ弱な力で暴力をしてきても、男子たる者は、体力で制圧して自らをかばい、女性の暴力をやめさせるべきだ。お上にお願いするなんて筋違いだ。」という意識があるのだと思います。この意識は極めてジェンダーバイアスがかかった問題のある考え方であり、そもそも配偶者加害の被害について何も理解していないことを示しています。
  妻のヒステリックな言動や暴力に対して、逃げ場を見つけられず心理的に追い込まれている男性はたくさんいます。彼らは様々な理由から心理的に暴力を行使できないのです。心理的に暴言や暴力を受け入れてしまうのです。また、妻の暴力によって夫が死亡するという例はよく報道されているとおりです。妻は暴力や共犯者を使って夫を殺しているようです。夫婦間殺人で実際に男女差がそれほどあるという統計は無いように思われます。
  要するに、DVを担当する公的実務の担当者は、未だに「男性は体力で女性を圧倒するべきだ。」と考えている問題があるということになります。

<現行法の問題点を増悪する可能性のある改正>

曖昧なまま、居住権、財産権、行動の自由を制限され、名誉を棄損されるという問題点は、「身体的暴力」や、「生命身体の重大が危害」の解釈が曖昧な点に理由がありました。印象として、「申立人が言えば、明確な反論がない限り、そのままその存在が認められた」言い得ということが少なくありませんでした。そのまま自宅に立ち寄れず、子どもの安否も確認する手段がなく、DV加害者のレッテルを貼られるわけです。
おそらく、今回の改正を後押しした関係者とは、こういう無理な主張をしなくても保護命令を出すために、モラルハラスメント、精神的虐待という概念を導入するということが必要だと感じていたのでしょう。現在でもほとんどの保護命令の事案がこれですから、そういう主張は目に見えるようです。
身体(人間の体)に対する暴力(不法な有形力の行使)という明快な意味を持った概念でさえ、曖昧なまま手続きは勧められます。そうであれば、モラルハラスメント、精神的虐待というような曖昧な概念はますます曖昧に手続きが運用されるようになるでしょう。
本当にそれがモラルハラスメントや精神的虐待にあたるのか不明なことが多くあります。確かに、大声で罵倒して土下座を強要したり、正座を崩したことを理由として怒鳴りだしたりする場面を録音録画しているならば明確ですが、身体的暴力ですらそのような証拠は求められていません。具体的な例を出せば、妻が夜間長時間連絡をしないまま、どこかにいなくなってしまった。帰ってきても、何ら謝罪もない。夫婦はリビングのテーブルに座って、夫から連絡が無いと心配するのだ、連絡が欲しいと言っても妻は口も開かない。事情だけでも説明してほしい等と言うやり取りを1時間近くしていたとします。場合によっては小さい子どもを連れたままいなくなっていたとします。場合によっては子どもをほったらかして、夫のいない家に留守番させていたとします。子どもにとっても良くないということを説明をしていたら、それは精神的虐待になるのでしょうか。ある程度子どものことを想って攻撃的な表現を使った場合はやはり保護命令の対象となり、家から出ていかなくてはならず、子ども安否を確認するために家に戻ったら懲役や罰金となるでしょうか。実際にこういう例はありふれています。実際に起きている保護命令の事案というのは、こういう事案が大多数だということが実務家としての実感です。

PTSDの概念の曖昧さ

PTSDが裁判所においても乱発されていて、司法が混乱しているという問題はつい最近述べました。
簡単に言えば、PTSDという精神障害が発生するためには国際病類分類上、外傷体験という誰でも強い心理的圧迫となるような体験が必要で、それは戦争体験や人質、強姦などの強烈な被害だとされています。しかし、現代の裁判所に出てくる診断書のPTSDは、被害者が体をかがめたところに加害者の膝があったという出来事を理由にPTSDの診断をするような状態です。本来要件が厳格になるはずの外傷体験は裁判の場においても曖昧に運用されていることが実情です。PTSDでも保護命令が出るというならば、まずます運用は曖昧になっていくことは間違いありません。

男女差別の問題

法律相談や離婚事件を担当した実感としては、モラルハラスメントや精神的虐待を行うのは、男女差はなく、むしろ女性の方が行為件数としては多いと思います。
本当にこの改正を進めていくのであれば、男女平等(憲法14条)の観点からは、男性からの申し立てについてもきちんと受理するように実務を改めなければなりません。裁判所だけでなく、警察もそうです。形式的申立要件がそろっているのに受理をしない場合は、罰則を設けるべきだと思います。また、女性によるモラルハラスメントや被害例についての研修も義務付けるべきだと思われます。
 私は、裁判所がこれまでの保護命令手続きのような緩い手続きを継続していくならば、改正の中身によっては、女性に対する保護命令が男性に対する保護命令よりも増える可能性があるとさえ感じています。

<改正の目的に関する疑問>

もし報道のとおり、DV被害の相談の大半が身体的暴力以外だったとするならば、それは法律の効果が表れたのであって、喜ぶべきことであり、法律を強化するべきことではありません。
それなのに、保護命令を広く緩くするということならば、相談機関の仕事のために法律を改正しようとしているように感じてしまいます。
また、PTSDになることを防ぐ必要があるということも法律の目的として説明されているようです。この点については、反対できないことなのです。しかし、いつも思うのですが、どうして配偶者などの関係に限定しているのか、そこに疑問の目を向けるべきだと思うのです。例えば、どうして、職場のパワハラやセクハラににこのような視点が導入されて、保護命令や刑事罰が設けられないのでしょうか。なぜ、刑法自体においても議論がなされるべきではないのでしょうか。
 夫婦問題だけ特別に取り上げて保護=行動制限を増加させる政策を行うということはヒステリックな対応のように感じています。

<自殺統計から見れば夫婦は自殺を食い止める>

自殺白書を見ると
以下のような夫婦と自死の関連が掲載されています。
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男女の別なく、どの年代でも、配偶者がいる方が、配偶者のいない場合よりも自死者は少なくなっています。離別による独身者と配偶者のいる人を比べると、さらにその差は広がり、離別者の自殺率は高くなっています。特に男性の自死者の中では既婚者と離別者を比較すると10倍を超える年代もあるくらいです。

統計上は、夫婦でいることによって自死を予防する保護因子となっているということが言えるようです。

1つの原因として、夫婦以外の希薄な人間関係においても、例えば地域、例えば職場、例えば友人関係などにおいても、どうしても人間は仲間であるという実感を持ちたいようです。それがかなえられず、職場のパワハラを受けたり、近所づきあいや子どもの保護者としての付き合いなど人間関係に不具合を生じて苦しんでも、夫婦という安定した仲間が存在することで、仲間の一人であるという実感を持ち、精神的に追い込まれていくことを緩和する作用があるということが言えるのではないかと考えています。
ところが、今回の改正では、保護命令が認められやすくなる危険があるため、離婚が増えていく、配偶者と離別する夫婦が著しく増加する危険があるということが最大の心配なのです。

<本来の、あるべき国家政策>

精神的虐待やDVがあれば、夫婦は自死の防波堤にはなりません。また、一方が他方から毎日毎日暴言を受け、義務無き事を強制され続けていたら、その人は一体何のためにこの世に人間として生まれてきたのかわからなくなります。そのような姿を見て育つ子どもたちの成長にも深刻な影響を与えることになるでしょう。夫婦が安心して過ごせる関係になることは求められていることであることは間違いないと思います。

それでは国はどこまで夫婦の問題に介入するべきなのか、介入できるのかということを考えなければなりません。ここを考えないのであれば法律論とは言えません。

先ず犯罪が行われている場合に警察が介入し、犯罪者に対して刑事手続きを適用するということは、法治国家である以上当然のことです。これは当然今も行われていることです。
DV法は、犯罪が行われていなくても国家が介入するという法律です。このために、介入要件を厳格にしなくてはならないわけです。

私は、第一に予防を考えるべきだと思うのです。予防ですから、刑事罰や命令といった強制の契機はありません。それでもうまくいかない場合に、命令の発動要件をもっと厳格にした上で強制の契機を含んだ対策を考えるのが順番だと思っています。

予防の政策を行わないで、強制の政策を行う背景としては、予防には効果が無いという一部の考え方が働いていると思われます。例えば、男性は女性を支配したがるものだというジェンダーバイアスとかですね。家族は女性を縛るものだから、できるだけ離婚をさせることが女性の解放だというような考えでしょうかね。いずれにしても、加害をする男性は生まれつきなもので改善不能だという考え方があるようです。実はもう一つの考えとしては、被害を受ける女性は男性に依存するダメな女性だから、矯正をしなくてはならないという考えを持つ人もいるようです。女性の保護施設、保護制度は、元売春婦の保護施設、保護制度を踏襲しているという驚くべき実態がありますが、役所感覚というだけではなく、そのような女性蔑視の思想があるように私は感じています。

しかし、私の実務家としての感覚としては、
夫婦の仲良く仕方がわからないということの方が実態によく合っているように感じています。お互い仲良くしたいのに、余計なことを必要な配慮もなくしてしまうというようなことですね。これが日常、両親と同居していた時代では、両親から注意されて是正してきたのだと思います。現代の両親は、逆に自分の実子の方の肩をもって、実子の配偶者を一緒になって非難しているという嘆かわしい事態が日本では横行しているように感じています。

いま必要なことは
夫婦はどうあるべきかという啓発活動なのだと思っています。
そして、その根本として、人間の幸せを真正面から考えていくという問題提起が必ず必要だと思っています。
その信念で、これまでこのブログの記事を書き続けているわけです。

家族といると安心できることのすばらしさ、その必要性、人間として生まれてきたということはどういうことか、助け合うことのすばらしさ、本来人間はそうするように生まれついているのだけれど、それができず逆に傷つけてしまう理由等々です。

被害者、加害者という言葉もこれまで何年にもわたってこのブログで述べてきましたが、あくまでもDV相談をした人が被害者、その相手が加害者ということだそうです。総務省自身が日本語として不適当であることを認めているのだから、こういうバイアスがかかった行政運用を先ず中断するべきです。
そうではないと、議論がヒステリックになるだけなのです。

DVというのは、
配慮ができない配偶者と、暴力、暴言を受け入れてしまう配偶者の共同作業の側面があります。DVに限らず夫婦のいさかいの大部分がこれです。そして受け入れてしまう方は、それをやめてほしいという提案が苦手のようです。だから、離婚訴訟などになると、あの時こうだったという主張のオンパレードになってしまい、あたかも元配偶者の同居中の行為の通信簿をつけているような感じです。自分がそのような行為が不快であるということすらいえないのです。これには様々な理由があります。
結局心理的圧迫を加える側も、加えられる側も、ちょっとした生活のヒントを知らないし、人間についての考察が足りないということがあります。そのちょっとしたところレクチャーし、みんなで幸せな家族を作っていくということ画啓発の意味です。そして心理的圧迫を受ける方も、どうして自分の行為の修正を求められると不安になり、イライラしたりするのかを知るとその後の人生がだいぶ楽になるはずなのです。これが対人関係学です。

こういう人間を幸せにしていくことが国家政策でなければ私はだめだと思います。国民を馬鹿にして、回復不可能などうしようもない人たちだという政策をしていれば、国民はやがて見限るでしょう。そうでなければ国が亡びるだけだと思います。

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