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【批判】自死はコップに水がたまるようにリスクが高まっていくという例えはやめた方が良い たとえ話を修正してはみる。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




自死の説明をする場合、誰が考えたのかわかりませんが
けっこう多くの人がするたとえ話があります。

それは、コップのようなものがあって、
何が嫌なことがあると一滴一滴、水みたいに溜まっていき
ある時あふれると自死に至る

という説明方法です。

多くは、
相手に対して普通に話していたとしても
本当は悪意も何も無いとしても
コップの水がこぼれる寸前の場合は
相手はひどく傷つき、それだけで自死をしてしまう危険がある
だから、乱暴な言葉は使わない方が良い
という指導の際の話なのだと思います。

こういう誤解を生むたとえ話はやめた方が良いと思います。

もちろん現実にはそのようなコップや水はなく
例えばそういうことだということもわかります。

しかし、第1に
日常のストレスというものは
コップに注がれる水のように
コップにたまって減ることがない
ということはありません。

実際は、色々な出来事が人間にとっては刺激になり
ストレスになっているのですが
ストレスがあったこと自体を自覚すらしないうちに
睡眠や他人のアドバイス等の働きかけ、
過去の経験との照合(睡眠)などで解消していきます。

そのときはストレスだったものが
視点を変えるとストレスではなくなるということもあり
それは成長・発達によってよりよく見られることでしょう。

英語の勉強をすることがストレスだったけれど
勉強の方法を覚えて楽しみになったとか
暗記に苦労していたけれど、実を結んだために
今では苦労したことが楽しい思い出になったとか

いつも嫌なことばかり言う人で
叱責ばかりされていると思っていたけれど
本当は悪気はなく、色々教えたいから言っていたことを知って
叱責とは感じなくなり、こちらから意見を求めて
むしろ頼れる人間として安心の材料になる
今まで言われていたことがありがたく感じる
とかですね。

本来は、たいていのことは、
地面に水がしみわたるようにしみこんでいくわけです。

狭い容器の中に一方的にたまっていくというのは誤解です。
ろうそくの炎が消えたら命が消えるみたいな現象はありません。

そして色々な方の色々な条件が影響するわけです。

敢えて器の例えを使うとすると
初めから器が無くて地面にしみこむだけの人
水をため込まないではじき返す人
そうかと思うと、器のようなものがあり
どんどん溜め込む人
あるいは器の小さい人
どんどん溜め込むけれど、器は大きい人

またどちらかと言うと
器は生まれたときから同じ大きさというよりは、

理由のあるなしにかかわらず
器が突然できてしまったり、
これまであった器が極端に小さくなってしまったり
ということが起きているようです。

この器のたとえ話の弊害は
以下のように起きています。

弊害1
「すべてのストレスが、自死の原因の一つである
だからストレスを掛けた人間は全て自死の原因である。」

人間が生きていくにあたってストレスは必ずしも有害ではないのに
例えば成長を促すきっかけになったりするのに
すべてをネガティブに評価しなくてはならなくなります。

その人の人生を否定評価の出来事だけが存在した
というようなまとめ方をしなければならなくなります。
しかし、そうでしょうか。
自死した人の人生は、すべてみじめな人生だったのでしょうか。
実際の自死事件を後追い的に見ているとどうもそうは思えないのです。

楽しいこともあったし、生きる喜びを感じていたこともあった
それもまた、真実だと誰も言わないことは
たいそう恐ろしいことだと私は感じます。

弊害2
「器の水がこぼれんばかりにあふれそうになっているときに
通常なら気にしない一言で人が死ぬことがある
言った自分はある人の自死の直接の原因を作った人物だ」

人を非難したり、貶めたり、嘲笑したりしない
ということは尊いことです。そうありたいと思います。

しかし、自死事件を後追い的に見ると
善意のストレッサーという存在が目につきます。

仕事上のミスを指摘して修正をお願いしたり、
攻撃されたと感じた人が反撃をしたり
ちょっとしたからかいがあったり、
なお、単なる事務連絡が引き金になったようなこともありました。

これらの行為が、自死の引き金になったと
評価してよいのでしょうか
私は良いとは思えません。

先ほども言いましたけれど
ある時、突然に容器ができてしまう
そして、多くは既に容器にはあふれんばかりに水が溜まっている。

私は、自死の原因はあくまでも
容器ができたこと、既にあふれんばかりの状態になったこと
に求めるべきだと考えています。

もっともこれは遺族ではない第三者としての意見で
自死予防に重点を置いた考えです。

既にリスクが高まった後で
言葉に気を付けましょうと言ったところで自死は防げません。
リスクを作らないことが一番だと思うからです。

道徳的にはあるいは正しいことを言っているように見えても
自死予防の観点からはむしろ弊害があると思うのです。

それから、語られない恐ろしい前提があります。

今自分が話している人たちは
この先の人生において身の回りに自死者を出さないだろうという
そういう前提です。

もし、自分の同級生や身の回りの者が自死して
その直前に自分が何か言ったり、言わなかったり
あるいは視線を動かしたりというくらいのことで
コップの水があふれれば、自死は自分の責任だという
罪悪感を持ち続けなければならないことになる
ということに全く考慮されていないと
私は思います。

弊害3
これが最も深刻な弊害かもしれませんが
自死は、誰か他人の行為だけが主たる原因である
だから自死をした場合には、自死をさせた犯人を探し出さなければならない
という誤解を招くということです。

コップに水が溜まっていくという几帳面な自死リスクの高まりというものは
私にはイメージが付きません。

ある日突然、容器ができていて
その容器には水が溜まっている
容器ができた原因は
確かに誰かが意図的にストレスを掛けたということもありますが、
病気など、だれの責任でもない場合も多くあります。

また、一度できた容器が極端に狭く小さくなり
その結果水が満杯になるという場合もあります。

絶望を抱いてしまう、通常あり得ないことが重なって起きてしまう
というようなタイミングの悪さということもありました。

それを誰かの責任にしてその人だけを責めると
新たな自死リスクが生まれることになります。

必ず誰か犯人がいるはずだ
という誤解をまぬくということが
最大の弊害かもしれません。






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