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若い人がフェミニズムを嫌うという電通の調査に寄せて、 YOKO ONO ’I want my man to rest tonight’ [弁護士会 民主主義 人権]



先日、尊敬している若手女性弁護士の方が
フェイスブックで電通調査の記事を紹介されていました。
私は常々、この先生の着眼点の鋭さというか
紹介の気負いのなさというか
自分にはないものをお持ちだということで注目していたのですが、
いつものようにシェアしていたら、
先生の記事まで引用されていたことに何日か経って気づき
見ようによっては先生を批判しているようにも見えてしまいそうなので
慌てて削除した次第です。

という言い訳から今日は入るわけです。

その記事というのが電通の調査の記事で
若い人ほど「フェミニズム」が嫌いで
女性活躍政策も支持しない
という傾向があるということを紹介したものでした。

ちなみに、私がシェアしたときのコメントが
フェミニズムが嫌いなことと女性活躍を応援することは矛盾しない
というようなことだったと思います。

「フェミニズム」が好きか嫌いかという質問も
漠然としているためにどうかと思うわけです。

フェミニズムは時期によって
その主張内容や、活動方法が
全く別だからです。

ウィキペディアによると
女性参政権運動や社会主義に基づく女性の権利・地位向上、男女同権を求める運動を中心とした第一波フェミニズムに対して、文化・社会に深く根を張る意識や習慣による性差別と闘い、主に性別役割分業の廃絶、性と生殖における自己決定権などを主張した運動が第二波フェミニズムである[1]。
としています。
もっともこのウィキの記事は、どうやら第三波の考えによって第2次フェミニズムを解説している傾向が強く、第三波との共通点を強調しているように私は感じます。
もっとも第二波フェミニズムは、様々な思想的背景などから様々な主張がなされています。第二波とひとくくりにすることにも無理があるかもしれません。

現代のフェミニズムは第三波というそうです。

年配の人がフェミニズムに対する嫌悪感が少ないというのも
これはよくわかる。
私より上の世代は第二次フェミニズム運動と呼ばれる時代の
その時のフェミニストたちの主張や活動が念頭にあり
必ずしもすべてに賛同はしないとしても
共感できる部分が多くあったからだと思います。

私は、フェミニズムという言葉と最初に出会ったのは
オノヨーコさんです。
現代の三波の皆さんが彼女をどう評価しているのかわからないのですが、
彼女の主張するフェミニズムは、私はすんなり共感できるものでした。

そのヨーコとの最初の出会いは、敢えて邦題で紹介しますが、
「無限の大宇宙」というアルバムでした。
その中の、 ’I want my man to rest tonight’ という曲です。

是非、曲名と歌詞 で検索していただき
グーグル翻訳などで訳していただきたいのです。

実はこの時期ヨーコはジョンと別れて、失意の中にあり
新たな展開として豪華ミュージシャンが参加して
無限の大宇宙をレコーディングしたようです。

山口百恵がデビューしたころに、日本でリリースされました。
ジャケットはヨーコの横顔が大写しになっていて
今見ると何でもないのですが、
当時はひどく怖かった思い出があります。

女性上位という言葉もあった時代ですから
無限の大宇宙のジャケットは、何か怖いものの象徴でした。

その当時はさすがに小学生だったもので
ヨーコの曲を聴く機会もなかったのですが
少しして中学生になってませてきて、
何かの機会でこの歌詞を目にした時、
「ああ、救われる」という形で強く強く共感しました。
よく聞いた記憶があるのですが、海賊版にでも入っているのでしょうか。

歌詞の内容を少しだけ紹介すると

ヨーコが女性に向かって歌う歌なのですが、

あまり男性を厳しく責めないでよ
彼らも頑張っているんだから
彼らは男だからって言われて無理させられている
だから、私は、彼に今夜はゆっくりしてほしいと願っているの

みたいなところで間違いではないでしょう。

つまり、女性が女性らしさを強制されているということは
男性も男性らしさを強制されているということで
お互いが性的決めつけから解放されることで
世界は平和になる
といわれたような気になったということです。

ああ、そりゃあそうだよなあ。
と、もろ手を挙げて賛同したわけです。

その頃から、ふつふつと男らしさなんてやせ我慢みたいなものだ
というハードボイルドの哀れさを理解するようになったというか
紅白歌合戦では紅組を応援してよいんだという意識になっていったわけです。

でも、「男らしさ」を捨てることは繁殖期を過ぎるまでは難しいものです。

平和の問題も第二次フェミニズム運動は当たり前のように取り上げていました。
女性らしさとは、男性らしさと根が一つだということを見抜いていたからこそ
男性らしさが、戦争遂行など、他人と物理的に戦うための
思想統制的な道具だったのだということを主張していました。

そのときは理解できなかったのですが
男も髪を伸ばしてふらふらしているという
私の一つ前の時代のヒッピーの思想って
そういう主張もあったのかなと今では想像しています。

(それを理解できない当時の若者たちが
既存の価値観にやみくもに反発して
麻薬などに手を出していたのではないかと。

いずれにしても、大ざっぱとか極端というのはろくなことにならない。
反対勢力からのツッコミの提供になってしまう。)

前も真面目に言いましたが
男らしさ(ジェンダー)と「闘い」ということは
切り離せない問題だと思っています。

本来であれば、200万年前には人類は
この男らしさを、少なくとも人間相手には捨てていました。
人間はチンパンジーと別れて犬歯が極端に小さくなるころには
闘いを好まない動物種になっていたはずなのです。
せいぜい食料として動物を狩ることと
肉食動物から仲間を守ること
という意味合いでだけ戦う動物種だったということです。

また、心が成立したと言われる200万年前は
一生をかけて出会う人間はおそらく99パーセント仲間だったわけで、
戦う必要性もなかったようです。

ところが、農耕が始まり人間の個体識別能力を超えて
多くの人間と利害関係を有するようになって
自分達を守るために、自分たち以外の人間を攻撃できるようになってしまった。

しかし、道徳や宗教によって、それも地域の秩序が形成され始めれば
徐々に闘いも減るはずだったのですが、
さらに移動距離が長くなってしまったために、
本来利害対立しないはずの遠方の民と
無理やり利害対立の場面を作り出して戦いが始まってしまった。

帝国主義的侵略や帝国主義国家相互間の戦争
というように言うらしいですよ。

だから、日本でも
遠すぎて見たこともないような外国をさして
日本の生命線だとか、絶対死守だと言っても
戦おうって気には自然にはならないはずでした。

しかし、明治以降の勧善懲悪という男らしさの教育が起き
義を見てなさざるは勇なきなりなんてことで
チンパンジーと共通祖先の頃の男性の本能を無理やり呼び起こされて
なんだかわからない怒りを持たせられて死地に追いやられたのでしょう。

私は戦争遂行のイデオロギーで一番重要なことは
この怒りに火をつけるシステムだと思います。
過剰な正義感、無謀な責任感がその油になっているわけです。
単純な、戦いたくなる感情、怒りやすい感情を
戦前の政府はコツコツと培養していったわけです。

(でも現代も、この傾向は、やはり戦前と同じようにマスコミによって
 細々とかもしれませんが、脈々と栽培されていると私は思います。
 過剰な正義感、無謀な責任感、そして二項対立、怒りをあおる報道
 には最大限の警戒が必要だと思います。)

かまやつひろしの「我がよき友よ」(作詞吉田拓郎)で
「男らしいは優しいことだと言ってくれ」
と歌ったのはこういう思想的背景が何となくあったのでしょうね。
男らしさとは、戦うことではないということでしょうね。
そして、戦争のイデオロギーが残存し、行動成長に使われたという
男性労働者たちの意識的あるいは無意識の実感から、多くの強い共感を
なんとなく得たのだと思います。

第2次フェミニズムが男性からも支持を受けたのは
無駄に男女間の対立をあおらなかったからではないでしょうか。

フェミニスト達も、男性をジェンダーバイアス越しに見るのではなく、
男性も本性は同じ人間であり、
作られた男性像を押し付けられているだけだと
少し余裕をもって、堂々と上から男性を見ていた
ということが言えるのではないでしょうか。

案外それは、男性にとっても自然で心地よいものだったのかもしれません。

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