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マスコミの報道があまりにも被害者に配慮を欠きすぎるのではないか。被害者にもそれ相応の原因があるかのように聞こえる表現は改められないか。 大阪ビル火災事件の報道と中学生刺殺事件の報道に共通する問題 [弁護士会 民主主義 人権]


大阪のクリニック火災事件で、お医者さんがお亡くなりになった
という報道に接しました。
その中で、警察は、放火事件であるとみていることが報道され
放火犯人とクリニックの間でトラブルがなかったか調べている
との報道がテレビなどで繰り返しなされました。

どうなんでしょうか。
私は、こういう表現を聞くと
亡くなったお医者さんという被害者にも何らかの原因があって
今回の事件になった、ということが示唆されているように
聞えてきてしまいます。

(もしかしたらそう聞えてしまうのは、私が特殊なのかもしれません。
その場合は謝りますし、以下は私の言いがかりということになるでしょう。)

多くの人が亡くなった事件ですから
警察があらゆる可能性を捜査することは当然です。
問題は、どうしてクリニックと加害者のトラブルの捜査
だけを報道するのかというところにあります。

このような被害者の落ち度報道は現在(事件後の月曜日)ではなされていない様子で
そのような報道が前になされたということも
インターネットでは調べにくいようになっているようです。
おそらく該当記事の全部ないしその部分が削除されているようです。

代わって、お医者さんのお人柄や業績が
丁寧に報道されるようになっています。

しかし、このトラブル報道にはもう一段階の問題点があるようです。

このお医者さんのお父さんが、
「お医者さんがトラブルを抱えていたということを言っていた。
それは警察にすべて言っている。」
という報道があり、これはまだ修正されていません。

しかし、NHKの詳細な報道によると
先ずマスコミの記者が、お医者さんのお父さんに
「何か犯人との間にトラブルがあったのではないか」
と尋ね、お父さんは
「相談は受けていたが、詳しい内容はわからない。」
というような回答をしたということが真実らしいのです。
その相談されたトラブルというのが、本件の犯人とのトラブルなのかどうかも
わからないとおっしゃっているようです。

つまり、お父さんが
自分の子どもであるお医者さんが「放火犯人とトラブルを抱えていた」
と言ったわけではないのです。

それにもかかわらず、マスコミは未だに
「父親によればトラブルがあった」と報道し続けているわけです。
あたかも父親によれば、「院長と犯人の間にトラブルがあった。」
と言っているように印象付けられる表現となってしまっています。

私がなぜここにこだわるかということなのです。

トラブルという言葉には様々な人間関係の不具合が含まれてしまいます。
どうしても人間関係の相互作用によって生じた不具合であり、
双方に何らかの問題があったように感じてしまうのです。

例えば、一方的な悪意がある犯罪の場合等は
トラブルという言い方はしないのではないでしょうか。
確かに元夫婦の間のストーカー事件などの場合は
トラブルがあったという報道のされ方はするかもしれませんが、
一方的に町で目をつけられてストーカー被害にあった
などという場合はトラブルがあったとは言わないと思います。

本件は確かに真相がまだ明らかになっていないのですが、
そうであれば、なおのこと
被害者の一人であるお医者さんに原因が無くて
一方的に事件に巻き込まれた可能性もある
ということなのだと思うのです。

そうだとすれば、一方的に被害にあってお亡くなりになった可能性があるのに
多くの方々がお亡くなりになった事件について
何らかの被害者の原因があるかのように示唆する報道をすることは
とても納得できないのです。

何もわからない段階で被害者に落ち度がある可能ような報道表現は慎むべきだろうと
そう思うのです。

これは11月に起こった中学生が腹を刺した事件の報道でも見られました。
未成年者の重大事件であるにもかかわらず
警察の断片的な捜査情報を意味ありげに報道し
あたかも加害生徒が、被害生徒からいじめを受けていたかのような
印象を与える報道表現がありました。

これ、子細に報道を読むと、
いじめと言っても深刻ないじめがあったわけではなく
広すぎる文科省の定義に照らしても
「いじめ」と言ってよいかわからないような出来事を言っているだけだ
ということがわかるのですが、

特に知識がない人が何か別の用事をしながらテレビなどを聞いていると
いじめられた報復に腹を刺した
というような印象を受けてしまっても仕方がないような報道だったと思います。
いじめという言葉を効果的に使っているように感じました。

この報道は亡くなった生徒さんのご遺族を深く傷つけたようです。
それは当然のことだし、報復報道をする段階で
ご遺族の心情を考えなければならなかったことだったと思います。

私は二つの報道表現には
共通する報道姿勢を感じるのです。

1つは、事件は、常に、一方的に起きるものではなく
被害者にも誘因があるはずだという姿勢、
1つは、被害者という絶対的善の裏の顔を「暴く」ことが
報道の仕事だという姿勢
1つは、面白ければ、その報道表現によって人が傷つくことに
配慮を示さない姿勢

もう1つが、警察との関係についてです。

どちらも警察発表を垂れ流していて
自分では何ら裏をとらない報道になっています。

マスコミの話では事件報道は
警察が正式に発表したからには報道しなくてはならない
という不文律があるとのことですが、
そうであれば、日本マスコミの伝統である
大本営発表が脈々と生きながらえているということになります。

そして、事件報道にすぐに興味がなくなってくる消費者に対して
誰かが傷つこうが、真実はどうであれ
警察発表の使える部分を使って
消費者が飛びつくような報道をしようとしているのではないか
という心配があります。

それは「一見正義のように見えて、実は不正の者を糾弾すること」が
消費者の飛びつくスタイルだとでも考えているようです。

中学生の事件ではそれが大成功で、
インターネットのコメント欄の閉鎖がなされるほどだったようです。

二番煎じが失敗しそうなのが
今回の放火事件です。

マスコミの初期報道は、
中学生事件と同じ構造をたどる姿勢が垣間見えました。
何も反省せず、同じ被害者攻撃を繰り返そうとしたように見えました。

しかし、インターネットでも、これに対する反応は鈍く、
むしろ警察や報道姿勢を激しく批判する真っ当な意見が
多く見られました。

そういう国民の反応を敏感に察したか
初期報道に対するマスコミ内部の自浄作用があったのかわかりませんが、
露骨なトラブルの存在の報道は影を潜めていますが
父親の発言は、マスコミが誘導した結果の要約にもかかわらず
父親の話のような報道が訂正されないまま掲載され続けています。

事情を分からないままの印象付け報道や
(トラブルがあるかどうかわからないのに、警察がトラブルがないか調べているという報道の類)
事情を分かっているにもかかわらず、印象的な部分の切り取り報道
(父親がトラブルがあったと言っていないのに、そういう風に言ったと要約する報道)
は、なにもこの二つの事件だけでなく、
私がかかわった案件の報道でも見られるところです。

そんなこと報道していない。
そういう印象受けるのところまでは感知しない。
誤解や悪意の読み方であり、マスコミには落ち度がない
と言っているかのような表現になっています。

「マスコミなんてこんなもんだ。」
というところを暴露することが
一番消費者が喜び、
マスコミを健全化するという意味では社会的意義のある
報道になるのではないでしょうか。

なぜ、中学生事件は、
警察の捜査情報を無批判に垂れ流したのか
報道をしなかったマスコミはあったのか。
その報道によって深く傷つく人たちがでるということを
考慮したのか、考慮しなかったのか
考慮したとすれば、どうして報道に踏み切ったのか。
加害者の一方的な話が、真実ではないかもしれないということは
報道を抑制するきっかけにはならなかったのか。

なぜ、トラブルという表現を使ったのか
父親の発言としてトラブルという言葉を使ったことに
問題があったとは思わなかったのか
そのような報道をしなかったマスコミはあったのか。

警察の情報としてトラブルを調べているという報道について
その派生効果を考えたマスコミはあったのか
どうしてその報道をやめることができなかったのか

その原因は
警察の情報を必ず報道しなければならないということなのか
その方がインパクトがあるということなのか

そういうことを検討して、
あるべき報道表現ということを
マスコミ自身が国民と一緒に考えていかなければ
いつか来た道に戻ることを国民は心配するべきでしょう。


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