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埼玉医師殺人事件報道「母親の治療に不満」という見出しに対する疑問 2 原因はマスコミが考えているそのはるか先にある。結果があるから原因があるということがどういう意味で間違いなのか。犯罪など社会病理の予防とは何か。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

令和4年1月27日の医師殺人事件についての報道で、被害者にも落ち度があるかのような報道だと私は感じたので、前回その内容を記事にしました。今回は、なぜこのような報道がなされたかについて、別の視点で考えてみました。
その視点とは、令和3年11月の中学生の事件、12月の大阪クリニック事件、そして今回の事件の報道に共通していることとして、「加害者は合理的な理由をもって加害行為をしている。」という考えが背景にあるのではないかということです。つまり、「犯罪を実行するのはよくよくのことで、犯罪の相手つまり被害者に加害者が恨みなどを抱く強い原因があって、初めて犯罪を行う」という考えです。
しかし、犯罪というのは、
「それほど合理性のある単純明確な動機があるわけではない」
と私は感じています。
犯罪をする人に限らず、およそ人間は、自分を害する人に対して怒りを向けるわけではありません。そうではなくて、怒りを向けやすい人に対して、その人以外の人対する負の感情のエネルギーも合わせ足して、怒りを向けるということがむしろ通常です。加害者の怒りの原因と被害者の行為があまり関連しないことは実に多くあります。
例えば、会社の上司から一日中行動を監視されて心理的に追い込まれた人が性犯罪を起こすとか、暴力団員の知り合いに自分の名前や住所を使われて違法取引をされている人が放火をするとか、原因は別にあるけれど、加害しやすい相手に加害行為を行うという不条理があることがむしろ犯罪の大勢だと思います。そういう場合の警察の調書では「むしゃくしゃしてやった」と記載されます。被害者からしてみると、とばっちりの被害ということが多いわけです。
一見関係のないことが、心理的圧迫という通路を伝わって、原因のない人に被害を与えているわけです。万引きなんかが典型的ですよね。通常は店に原因はないわけです。心理的な圧迫からの解放を求めすぎて、それが一番の行動原理になってしまい、些細なきっかけで犯罪を実行するということになります。この些細なきっかけで犯罪を起こしうる状態、生活環境を私は「犯罪環境」という言葉で説明しています。これはまた別の機会に。
これは犯罪だけに限らず、夫婦問題でもあることはわかりやすいと思います。職場で上司からコテンパンに叱責されるとか、クレーム処理をしていたらこちらに怒りが向けられるとか、職場で負の感情が蓄積されている場合、家族の些細な言動が、自分を否定しているかのように深刻に聞こえてしまって、驚くほど感情的な発言をしてしま足りということもあると思います。虐待や自死をはじめ、社会病理一般には共通の側面があります。
もちろん、犯罪環境にあったから犯罪が許されるわけではありません。犯罪環境にあっても犯罪を行わない人が圧倒的多数でもあります。それでも、予防の観点からは、被害者を出さないということを第一に考えた場合はこの犯罪環境を改善していくことがどうして行われなければならないと思うのです。
しかし、3件の報道では、いじめにあっていたために刺した、トラブルがあって放火した、治療に不満があって射殺したという単純な図式で報道されているわけです。あたかも、犯人は被害者に対する怒りから犯罪を実行したかのような報道です。しかし、本当は、もしかすると3件とも、「むしゃくしゃしてやった」というパターンの犯罪だったかもしれないです。被害者はたまたまそこに居合わせただけというパターンです。それなのに、事件の全貌が明らかになっていない段階で、拙速に、被害者や家族の人権に配慮しないで、原因が被害者にもあった可能性があるという報道表現になるのか不思議でなりません。
おそらく、警察が被害者の行為に原因があるかのような発表をするということは、一つには、国民感情として、「理不尽な行き当たりばったりに人が殺されるということを認めたくない」という無意識のニーズがあるのかもしれません。「理由があったから被害にあったのだ。理由を作っていない自分たちは被害にあわないだろう」という感覚を持ちたい、少しでも安心したいというニーズです。
悲惨な事件であればあるほど、自分は同じような被害にあいたくないという気持ちを強く持ちたいものです。被害者に原因があったというならば、「原因がない私には関係がない。被害にあわないだろう。」と感じやすいわけです。しかし、それで国民が安心したとしても、原因がある可能性があると言われた被害者とその家族は傷ついているのです。通常反論の機会も与えられません。
よく言われることは、性犯罪には女性に原因があるかのような説明です。服装に乱れがあったからではないか、加害者を誘うような行為があったのではないか、などと何も知らない人たちが、その可能性としてあるいは決めつけでインターネットなどで語っています。しかし、実際は、被害者が女性であるだけの原因で被害にあっているということが実態です。だから、予防のためには、言動を慎むとか、服装に気を付けていただけで性犯罪の被害にあいにくくなるわけではありません。真夜中に、一人で外を歩かないことが一番効果があるわけです。このように、「自分が安心したいために事件を勝手に色塗りする」という論法は効果的な予防をさせなくするというミスリードにつながります。これをマスコミが行うことがいかに危険なのか想像がつくことと思われます。

怒りが原因に向かうのではなく向かいやすいところに向かうという私の考えが正しいならば、真実は、被害者の方たちが良い人だったから被害にあったということになります。つまり、包容力があって、優しい人で、自分を差別しない、自分に反撃してこないだろうという感覚を人に抱かせる人を分け隔てしない立派な人物であったために、怒りを向けられやすかった可能性があります。実際の世の中では、安心できる人、良い人、優しい人に怒りが向かうようにできているように思います。今回の事件も、犯人がどう語ろうと、治療に不満があったから殺人行為をしたわけではないと思うのです。
犯罪を実行する人は、社会との関係で、あるいは自分の絶対的に必要だと思っている人間関係の中で、自分が仲間として認められていないと感じていることが犯罪を誘発する可能性があります。収入などによって社会的な不遇にあることも、犯罪環境になりえます。

犯罪が起きる仕組みをあまり単純に考えてはいけません。いじめがなければ不合理な殺人が少なくなるわけではありませんし、夏でも暑苦しい格好をしていれば性犯罪にあわないということもありません。ピンポイントで予防ができるわけではありません。犯人の言動をうのみにして、その原因を除去しようとしても犯罪は減らないと思います。
だからと言って対症療法をしないということも間違いです。効果的な予防とは、対症療法と、犯罪環境の改善のような、根本的な人間関係の改善、社会的不遇の緩和、あるいは孤立を解消していくという地道な対策が同時に行われて行って初めて効果が上がると考えています。だから、対人関係学は必要な学問分野であり、予防法学としての意味合いも強くあるということなのです。


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