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懲戒権の廃止、体罰禁止に反対する。親権と懲戒権の本当の関係。そして国民が警戒しなければならない改正の本当のデメリット。 [弁護士会 民主主義 人権]

国の機関である法制審議会で、民法の懲戒権規定を削除し、体罰禁止規定を設けるという動きがあるそうです。私はこの動きに反対します。懲戒権の規定は残し、体罰を禁止するべきではないという意見です。

法改正の理由は、子を虐待した親が、「虐待ではなくしつけだ。」という言い訳をするから、懲戒権規定を削除し、体罰を明文で禁止ししなくてはならないというのだそうです。

これだけ聞けば、「虐待は禁止されるべきだ。虐待につながる体罰は禁止されるべきだ。虐待が減るなら懲戒権なんてわけのわからないものはいらない。」とつい反応してしまうことは当然かもしれません。法改正の動きに反対する私に対しては、「虐待を肯定するのか」という怒りの反応もあるかもしれません。反対することがはばかられるような空気もあると感じています。しかし、私のひねくれた感性は、この法改正の動きは誤った方向への大衆扇動ではないかと反射的に警戒心がわくのです。その心を少し分析していきます。

まず、「しつけのつもりだった」という虐待親の言い訳が、民法の懲戒権規定と何か関係があるかのか皆目見当がつかず、関係はないと考えるべきではないかと思うのです。子を虐待する親は、反射的に、感情に任せて攻撃しているのではないでしょうか。面白がって、虐待して動画をアップしているのではないでしょうか。少なくともこういう虐待を徹底してなくすべきです。乳児を虐待する動画をアップして笑っている人間が「しつけのつもりだった。」と言っても、無視をすればよいだけだと思います。

いったいどの虐待事例が、しつけのつもりで行ったのに虐待となったのか、審議会は説明するべきです。「虐待をするつもりではなく、しつけをするつもりだった」というたくさんある虐待親の言い訳のうちの、どの事案はその発言が真実だというのでしょうか。「ああ、そうだね、虐待するつもりではなかったのだよね。」という事実認定が行われなければ、「懲戒権があるから虐待を正当化してしまう」という理屈は出てきません。でもそんなこと考えて虐待する親なんていないと思います。そんな言い訳を肯定した上に立った法改正が行われるということになりますが、とても説得力はないと思います。少なくとも懲戒権を廃止することは、虐待防止以外の目的があることを隠しているのではないかと疑う必要性があると思います。

そもそも、懲戒規定が民法で親権者に認められているということについて、どれだけ多くの虐待をした親たちは知っていたのでしょうか。弁護士の私ですら、懲戒権という規定は実務にあまり出てこないということもあり、そんな規定があることすら忘れていました。虐待をした親が、「民法には懲戒権があるな。よし、これを行使することとしよう。少し厳しくなりすぎても懲戒権が規定されているから自分の行為は正当だ。」と考えているというのでしょうか。あまりにもばかばかしい妄想です。初めから懲戒権を敵視していて、虐待事例を都合よく使っているという印象しかありません。

私の、虐待は感情的に行われる、あるいはしつけとは無関係に行われるという第1の結論、虐待親は民法の懲戒権を意識して虐待をしているわけではないという第2の結論が正しければ、懲戒権規定を削除したところで、虐待は減らないということになります。特に、感情的な虐待や、SNSで動画をアップする虐待は懲戒権規定とは全くの無関係だから、そのような虐待の数は減らないでしょう。

さて、法制審議会が敵視する懲戒権は、どのような経緯で民法に定められたのでしょうか。どうして、親権者が懲戒権を有すると定められたのでしょうか。
日本には、明治以来3つの民法が制定されました。当初の民法を明治民法ということとしますが、この中では親の子に対する教育義務が定められています。この明治民法は、日本の風土になじまないということで、間もなく改正されます。改正された新しい民法を旧民法と言いましょう。そして戦後に改正がなされて現在の民法があるということになります。旧民法で、親権者を定め、親権の内容として、法定代理権、監護権、懲戒権を規定し、現在の民法が引き継ぎました。
大事なことは、旧民法において、親権の内容として、懲戒権を定めたのはどうしてかということをきちんと理解することです。

現在の無学な人たちは、旧民法は封建的な内容であり、親権とは親の子を支配する権利だと決めつける人が多いのです。はなはだしい間違いとして、戸主の権利だという人までいます。これは完全に間違っています。実に嘆かわしい。旧民法は、現代と異なり、政治家が作ったというよりも、法律家が意見を述べて作っていったという時代です。国会の議事録だけでなく、学会の議論の様子からも立法理由を知る手掛かりになります。

まず、親権をだれに帰属させるかということについて、一応議論はなされているようです。考えられるのは天皇(国家機関としての天皇)、戸主、親の3つの主体に親権を帰属させる可能性があったわけです。封建制度であれば、領主に親権を持たせるという可能性もあったわけですから、明治時代は天皇にという法的技術を使うということはあり得たのではないでしょうか。実際の議論では、天皇に親権を抽象的に与えて誰かが代理するという議論は全くなく、圧倒的多数は親に親権を与えるという考えでした。ここで旧民法が父親としたのは、女性に権利能力がないという規定だったために、母親が法定代理権を行使することが難しいという封建的男女差別があったからです。戸主に親権を与えるべきだという少数説がなかったわけではありません。ここで戸主ということを夫と誤解している人がいるのですが、戸主がトップに立つ「家」というのは、血縁を通じた何家族かまとまった家族のユニットでした。ユニットと言っても戸籍上まとまっているだけで、別々に住んでいたわけです。だから、旧民法下では、上京してきた夫婦に子どもが生まれても、なかなか戸主のいる親の実家の役所に届け出ることができず、実際の生まれた日から戸籍上の誕生日がだいぶ遅れた日になっているということが当たり前のようにありました。夫であっても戸主ではない男たちはたくさんいたわけです。ここ大事だと思います。それでも、戸主という概念を国が作りましたから、親権も戸主がもち、戸主の指導で親が行使するということは考えられたようです。それでも圧倒的多数の学者は、親が持つべきだと考えました。

多くの学者が親権者を親と定められるべきだと考えたのは、親権というものは、親が子を支配する権利ではなく、子どもを健全に成長させる親の義務という感覚だったようです。明治民法でさえ、教育義務を明記しています(ここは、父親と母親の双方に義務を課しています。)。子どもを健全に成長させるために必要な権能として、親権が認められたという流れになります。変な契約によって子どもが不利な債務を負わないためなどの法定代理権、子どもが健やかに育つために適切な住居を与えて、適切なかかわりをするという監護権、子どもが間違ったことを行って、生命身体の危険が発生することを防止したりや社会的に致命的な状態にならないように懲戒権が認められたということなのです。親権はこのような子どもの健全な成長を図るための権能ですから、自然な愛情を持つ親が親権を持つことが必要であり、親こそが最もよく親権を行使できるだろうという考えからでした。子どもがあったこともない戸主に親権を与えるのは理由がないということで、親が親権を有するということになりました。

これに対して、親権は親の支配権だと主張した学者がいないわけではありませんが、一人だけだったようです。どうして、そのような考えがあったのかについては興味があります。というのも、法律は、有象無象のあらゆることを解決する基準を簡潔な言葉で定めているわけです。無駄な条文は法律とならないわけです。子の支配権をだれが持つかを明らかにする必要がなければ支配権の定めを法律で定める必要はないはずです。支配権だと主張した学者は、それを明確に定める必要があると考えたのだということになります。そうだとすると、国でも戸主でもなく、親が子を支配するということを明確にするべきだという結論になることになります。そうだとすると、子どもからすれば支配されることになるのかもしれませんが、法的には、国家や戸主から親が独立して子どもにかかわることを正面から認めたという自由権的な発想だったのかもしれません。

明治の学者たちと同じく「親権とは親が子どもを健全に成長させるための権能だ」と考えた場合、おのずと懲戒権の内容は制限されます。
一つは、その懲戒権の行使で、子どもの身体生命の危険が発生する行為は、懲戒権の行使として認められないということになります。命が失われるような持続的な食事制限、暴力は子どもの健全な成長とは矛盾しますので認められません。手術をすれば命が助かるのに、それをさせないという場合も認められないでしょう。社会的に致命的な状態になるような、子の進学を理由なく許可をしない行為とか、職業訓練の妨害など収入を得る道を妨害する行為などが該当すると思われます。そして、実際に、現行法でも、こういうような行為は、裁判所でも同じように扱われて、親権の停止が決定されています。
乳幼児が泣き止まないということを懲戒しても健全な成長とは関係がないので、そのことを理由にした叱責や暴力も親権の行使でも、懲戒権の行使でもありません。

このような懲戒ではなく、子どもが間違った道に進むような場合や、命の危険のあるような行為をやめさせるための懲戒や体罰については、誰かがやらなければならないことだと私は思います。どういう場合にそれをやめさせるべきだと判断することはやはり親が一番ふさわしいと私は思います。

騙されて暴力団に加入を勧められて心が動いているという場合、一定期間通信手段や移動手段を奪い、家に拘束することは、懲戒ないし体罰に当たりかねませんが、私なら虐待だと言われてもそれをするでしょう。

実際にあったケースでは、自宅近所に沼があり、沼に落ちての死亡事故も多数あるために、沼に近づかないように言っていた。しかし、小学校低学年の男子の子が友達と遊んでいるうちに、うっかり沼に近づいて、そこで暗くなるまで遊んでいた。母親が探しに行ったらそこにいるのを発見しました。このため母親が、自宅で、自分も正座して、子どもも正座させて、腕を出させて、しっぺのような体罰を与えたという例がありました。この母親が外国人で、夫と離婚したシングルマザーで、地域から孤立していたということがありました。自分の国では、当たり前の懲戒なので、子どものために迷わず体罰をしました。そうしたところ、児童相談所がやってきて、子どもを保護するという事態になってしまったのです。

うまく子どもを説諭して、子どもに危険に近づかせないようにできればよいでしょう。しかし、それがうまくいく大人だけではないことは、自分を振り返ってもそう思います。まして、命の危険のある行為が行われた場合、驚いて、あるいは心配のあまり、頭が真っ白になってしまい、うまく言葉でいうことができない場合があると思います。懲戒や体罰をしないで済む親もいるでしょうけれど、そうしなければ命の危険を防ぐことができない親もいるのです。そんな親から懲戒や体罰を奪ったら、誰が子どもを命の危険から守るのでしょう。

子どももの方も同様です。沼に近づいたところで、あるいはちょっと足を入れたところで直ちに命の危険が生じることはありません。そのため、子どもは近づくこと、ちょっと水をいじることは「危険ではないと学習してしまう」のです。でも、足を滑られせたり、転んだり、勢いがついて沼の比較的奥の方に落ちてしまうと、何かに足がからまったり、心臓マヒを起こしたりして、死亡するわけです。でも安全学習しているので、危険だとは思わなくなっている。そうすると親から体罰を受けるから、大目玉を食らうから近づかないということも、年齢が低い場合は特に有効な命を守る手段となると思います。子どもを守ることはきれいごとではありません。
どこまでが許される懲戒か、どこまでが許される体罰かということは、線引きが難しいかもしれません。だからこそ、親にある程度の裁量を与え、各家庭で両親が話し合って決めるべきことだと思います。
世の中には、立派な親、立派な子どもばかりがいるわけではないのです。これは、親としての自分、子どもの頃の自分を振り返れば、強くそう思うのです。

親から懲戒権を奪い、体罰を禁止することを全国画一的に決めてしまうことが恐ろしいと私は思うのです。これでは、自由権的意味の親の子に対する支配権も奪われてしまう危険があるのではないでしょうか。つまり、国家によって、子どもが支配されてしまう危険があるということです。国家や自治体の気まぐれのようなその場の判断、偏見に満ちた先入観で、子どもを親から隔離してしまうということが、頻繁に起きる危険があるということです。

懲戒権を削除するという考えの人たちも、しつけを言い訳に虐待する人たちが民法の規定を正確に把握して、これを虐待の言い訳にしていると本気で考えているわけではないと思います。社会常識として「親が子どもをしつけるものだ」ということが、民法の懲戒権規定と何らかの関連があるというくらいの話だと思います。私はそれさえなく、民法の懲戒権は虐待の動機とはほとんど無関係だという立場です。この人たちの考えが仮に少しは的を射ているというならば、懲戒権を削除することによって、「親が子どもをしつけるものだ」という社会常識さえも否定しようと考えていることになり、それを狙っているということにはならないでしょうか。虐待をした親たちが、虐待の言い訳に「しつけ」を語ったばっかりに、親がしつけをすることさえも否定してしまう風潮を作る効果を期待しているように思えてなりません。私は、端的にすり替えであり、懲戒権を削除する理由としては成立していないと思います。
こういう人たちは、「子どもは親から独立した独自の権利主体である。」ということをよく言いますが、そのことと親から分離することは全く違います。子どもは発達する時期の人間であり、発達のためには適切な親のかかわりが不可欠です。親から独立させることが子どもの権利ではありません。親から引き離されないことが子どもの権利条約の内容なのです。

推進者たちの本音を以下のように考えると理解ができるのです。
つまり、今回の法改正は、もともと親による虐待そのものをダイレクトに減らすための削除ではないということです。児童相談所や警察が、家庭に入りやすくするための口実なのだということです。もっとも、児童相談所や警察が家庭に入って、虐待されている子どもを保護しやすくして、間接的に虐待を減らすということを狙っているのではないかということです。しかし、そうあからさまに言うと、リベラルを標榜する人たちからの反発が来る。このため、「児童虐待防止」ということを前面に掲げることによって反対することができない風潮を作ることができる。最近あった虐待事件を感情的な意味で大いに利用できる。そういう押し出しをしても嘘をついているわけではないということなのではないかと疑っているわけです。
しかし、警察や児童相談所という強い権限を持つ組織が家庭に入ると、そこには強い効果が生まれてしまいます。なるほど、虐待から命を救う案件も出てくるかもしれませんが、本来家庭に入るべきではない事案で公権力が家庭に入っていき、親子分離をして、子どもの将来に悪影響が及ぶ事例も必ず出てきます。

なぜ、公権力が介入しやすくなるかというと、警察の場合、刑事事件がないと捜査という形で市民生活に介入することができません。傷害が起これば、傷害罪や暴行罪ということで捜査介入できそうですが、そこに懲戒権の行使という「正当事由」が認められれば、実際は警察の捜査はやりにくくなります。児童相談所も、親権の行使と言われて声高に叫ばれると、子どもの保護はやりにくくなります。これに対して懲戒権規定が削除されると、刑事的な正当事由を言い出しにくくなり、体罰はすべて禁止ということになると、家庭に介入しやすくなる。こういう流れです。

しかし、実際に児童相談所が介入しないケースは、親からの反発を恐れてのことであり、法律を解釈しているわけではありません。また介入するケースは、親が孤立しているケースが多いように思います。親が外国人の場合、親が一人の場合、親が何らかの疾患を患っている場合、親が被災者の場合もありました。また、親が生活保護を受けている場合ということが圧倒的に多いような実感もあります。つまり、介入しても返り血を浴びにくいケースです。

実際の法改正の効果は、事実上親の反発が面倒な事例の介入を促進させることはしないでしょう。ますます、孤立している親から子どもを隔離するという事例が増えていくだけだと思います。最悪のケースは、抵抗する親を警察を使って拘束して、そのすきに子どもを保護するというケースです。保護の必要性があるケースならばよいのですが、そうでもないケースだからこそ親が抵抗するのだと考えた場合、冤罪保護事例は増加する危険があります。

現に、現在でもいわゆるDV法で、妻が夫の手を振り払って、夫の爪が肌に当たりけがをしたというケースでさえも、警察は立件するようになっています。警察の家庭への介入は加速度的に増えています。奇妙なことに、今回、懲戒権を廃止し、体罰を禁止しようと行動している人たちは、夫婦間でも同じような立場の人が多いように感じます。家庭の問題は警察の力で解決しようという立場です。

法律や政策には、完璧な政策、つまり、万人にメリットがあり、デメリットがないという政策はありません。だから、法律を議論する場合は、必ず両者を国民に提示して、国民がどちらを選択するかを決められる建前を作らなければなりません。日本は、政治過程や立法過程において、このメリットとデメリットが提示されないことが通常の状態になっています。いわゆる賛成か反対かだけで、賛成者は必要性や有効性ばかり声高に主張し、反対者はデメリットだけを強調するという形です。今回も法改正推進者は良いことばかりを言っているようです。
今回の改正は、家庭に中に児童相談所や警察が入ってきやすくするという効果が起きる場合は、そのデメリットを心配して法案を警戒することが、民主主義の発達している国のやり方です。二大政党制となっている国では、政権交代が容易に起こるという特徴から、一方が政権をとっている場合は、他方はリベラル的観点から反体制派として政権を批判します。そうして民主主義の土台である、「国家からの自由」を維持しようとするわけです。ところがわが国では、政権交代を目指している野党がほとんどないため、このようなリベラルの視点に立って、法案を警戒する政党が無いようです。どこからも法改正反対の意見は聞こえてきません。反体制という視点を民主主義の要素とみておらず、犯罪の一種だと野党自身が考えているということなのでしょう。民主主義や人権の観点では日本は後進国のようです。

我が国のリベラルを自称している人たちが、警察の家庭介入を、様々な場面で促進している始末です。デメリットがあることを決して明らかにはしません。実は日本の戦争も、米英の日本に対する不利益取り扱いばかりを強調し、戦争開始に反対できない素地を作って、論理を飛び越えて戦争開始の世論を形成していったという側面が色濃くあるわけです。今回も虐待防止を大義名分として、誰も反対できないような空気を作り、虐待防止との関連が良くわからない法改正がなされようとしています。戦争遂行と同じような国家意思の形成に誰も疑問を呈することができないような状況となっているように感じます。これは明らかな大衆扇動の一種です。

私は、今回の法改正のメリットが考えにくく、デメリットは確実にあると思いますので、懲戒権の削除にも、体罰の禁止条項の創設にも反対する次第です。




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