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馬鹿な子ほどかわいいということが当然である理由 「かわいい」とは人間が人間であるために必要な感情だということも含めて。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

意外に思われるかもしれませんが、まじめなまじめな話です。

現代では、馬鹿な子ほどかわいいということの意味は、例えば「馬鹿なことをやってみんなを笑わせるような子はかわいい」とかいうように、何とか理解しやすいように意味を改変して解釈して納得していることが多いようです。しかし、これは、昔に作られたことわざの解釈としては間違っているというべきでしょう。「馬鹿」という評価は、ちょっと深刻な、まじめに心配な気持ちを起こさせる文字通りの意味でよいと思います。厳しい世の中で、要領よく立ち回れずに損をしてしまうような状態ということになろうかと思います。
だから、辞書などでは、「不憫な子ほどかわいい」という意味だと説明しているものもあるようです。当たらずしも遠からずと思います。辞書という短い字数での説明を求められていることを考えると、これで精いっぱいという評価もあるでしょう。
日常会話では、「手のかかる子どもほどかわいい」という意味でつかわれることが多いと思います。こちらは正鵠を射ていると思います。

「馬鹿」という言葉も難しいのですが、「かわいい」という言葉の意味もやはり正しく使われていないところにも、このことわざを難解にしている理由があると思います。
現代では、いろいろな肯定的評価の意味で、「かわいい」という誉め言葉を使うようです。仲間内でならば、どんな言葉にどんな意味を込めて使おうと、通じているなら他人がとやかく言うことはありません。但し、ことわざのような古典を味わうためには、そのことわざが成立したころの意味を知らないと意味が通じません。結構もったいない話なんです。このカテゴリーはそういう役に立つことわざを発掘することがテーマなのであります。

ところでかわいいという感情ですが、これがなかなか難しい。古典的な日本語の意味は、「神々しくて顔を向けることもはばかられる。」という意味でつかわれていたようですが、そのうちにその意味に付け加えて「自分も何かをしなければいけない気持ちになる」という感情を伴うことも付け加えられた意味の言葉になっていったそうです。その後、「自分も何かをしなくてはならない」という感情をそのまま残しながら、それに付け加えて自分よりも弱い者、小さい者に対しての肯定的評価、好ましいという感覚が込められて使われるようになっていきました。

なんとなく、言葉の変遷は理解できるような気がしませんか。高校生の頃、とてもきれいなモデルさんがいて、「ああ美しいな。この人の役に立ちたいなと思うけれど、その人が近くにいたら恥ずかしくてたまらずにとてもじっと見つめることなんてできない。」というような感情がもともとのかわいいなのかもしれませんし、働くようになって、自分のことを「おっさん」と自称するようになるころは、よその子でも道で泣いていたら「どうしたの?」と声をかけたくなるというような、そんな変遷でしょうか。

子どもをかわいいと思う気持ちは、太古から各時代の大人の心にあったのだと思います。しかし、それを表現する言葉が、少なくとも「かわいい」という言葉ではなかったわけです。しかし、徐々に、本来人間が持っていた気持ちを「かわいい」という言葉にあてはめて表現するようになっていったという流れだと思います。時々見られる美しいものをかわいいと表現することは、太古の意味の名残なのかもしれません。しかし、単なる美人よりも、少し隙のあるような人間の方が可愛いと思うのも、こう考えると合理的かもしれません。「あの人は美男子だと思うけれど、かわいいとは思えない。」ということはよく理解できると思います。

現代で乱発されている「かわいい」ですが、私は、共通項として、安心できる対象(形状、色、柔らかさその他が自分に災いをもたらすとは思えないもの)であり、かつ自分もそのものと何らかの形でかかわりたいという感情を呼び起こすものということでつかわれているような感じがしているのですが、若い人に聞いてみないとわかりません。

さて、意味が変遷するので混乱してきましたが、元に戻って、ことわざができたころの「かわいい」という感情についてまとめてみましょう。
かわいいという言葉は、自分よりも弱い者、あるいは小さいものに対して使うもので、自分がかかわってその弱さなどを手当てしたくなるという感情を言うとまとめられるのではないでしょうか。典型的には赤ん坊に対する感情です。

こういう意味でかわいいという感情はどこから来るのでしょうか。また、かわいいという感情が人間の本能に根差した感情だと説明されることがあるのですが、それはどういう意味でしょう。

私は、「かわいい」という感情は、人間が群れを作るために不可欠な感情だったと思っています。私たちの祖先は、文明のない時代から群れを作ることによって、肉食獣から身を守り、飢えないように食料を獲得して生き延びてきました。言葉もない時代です。それでも数十人から100人余り程度の群れを作ってきたのです。

群れを作る動物はたくさんあります。イワシも巨大なウミヘビのような魚群を作りますが、それは各魚が、群れの内側で泳ぎたいという本能を持っているために結果として魚群が成立するそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があり、鳥は風圧を軽減して飛びたいという本能があって隊列の形が生まれるそうです。それぞれ、理由があって群れの形、群れをつく方法が変わってくるように見えます。

そんな都合の良い進化はどうやって発生したのだろうか、誰かがそのような動物のデザインをしたのだろうかと思いたくなるのも無理はありません。しかし、実際は、地球が生まれてから現在までの間に、群れの中に入りたいと思わないイワシも生まれたでしょうし、群れ内で逃げたいという馬も生まれたでしょうし、風圧を好む鳥もいたでしょう。しかし、そういう不合理な行動傾向をもった個体は、死滅していったわけです。一人でゆらゆら泳いでいたイワシは簡単に大魚や海洋哺乳類に捕食さるでしょうし、群れから離れて草を食んでいる馬は集団で狩りをする肉食獣の格好の標的になったでしょう、風圧を好む鳥は渡りをする体力を消耗して渡りができなくなるわけです。つまり、都合よく進化したのではなく、環境に適応できた個体群が生き残り、子孫を作ることができたということなのです。数字を数えるだけで気が遠くなるような年数をかけて、現在生き延びた子孫という結果だけが見えているだけなのです。

さて、そうすると、どのような人間が、群れを作って生き延びてきたのでしょうか。群れを作る本能とは何でしょうか。

私は、人間が群れを作ることができたツールは「心」ないし「感情」、あるいは「情動」というシステムなのだと考えています。つまり群れの中にいると安心して、群れから外れると不安になるという心です。認知心理学的に言えば、「心というモジュール」ということになるでしょう。

群れにいると安心するという心から派生した心は、群れから尊重される、感謝される、高評価をされると嬉しいという心。努力をねぎらわれると嬉しいという心、群れの役に立つことを自分が行ったというと安心する心等です。
群れから外されると不安になるという心は、群れから外されそうになると不安になるという心を派生させ、共感力を背景に、仲間が自分を低評価をしているとか、自分が差別されているとか、攻撃される、健康を顧みられない等の事情があると不安になるという心を発生させました。
それらが組み合わさって、様々な心が生まれたと考えています。

人類は他の動物と比べて卓越した共感力を持つことによって、仲間の心における自分の状態、評価を感じ取ることができ、安心感や不安感が生まれたわけです。安心感の得られる行動は率先して行い、不安感が生まれる行動はしないようにして、うっかりそれをした場合や、仲間から否定的に思われていると感じた場合は、自分の行動を修正し、仲間の中にとどまろうとしたということになります。この仕組みで群れを作っているのは、人間だけです。自分が損をしても他人である仲間に得をさせる利他行為は、一見自分が損をしているように見えても、仲間の中にいたいという根源的要求を満足させるという自分の究極の利益を獲得するための行為ということになるわけです。

かわいいという感情も、人間が人間になった時代(200万年前と言われています)から、存在していたはずです。すなわち人間の赤ん坊は、全く無力で自力で生きていくことができません。また、人間は母親だけで赤ん坊を養育するようにはできておらず、多くの大人たちが一人の赤ん坊の面倒を見ていたと言われています。ここがサルと人間の本質的違いです。大人たちは、無防備な赤ん坊を見て、かわいいと思い、自分ができることをしようとしていたというのが人間の歴史です。こうやって、何もできない赤ん坊は、群れの大人たちから可愛がられ、面倒を見てもらい、大人になることができたということです。

もしこの感情を人間が持たないで、他の哺乳類のように母親だけが赤ん坊の面倒を見たならば、そもそもお産で母体が死んだ場合は、赤ん坊も死んでしまうことになるでしょう。また、母親だけが一日中赤ん坊の面倒を見ていたら餌を確保することができず、母乳も出なくなってしまっていたでしょう。赤ん坊が成体になることは極めて難しかったはずです。また、1年に一人くらいしか産めない人間からすれば、また、当時は赤ん坊の成長する確率は今より格段に低かったということを考えれば、母親だけが子どもの面倒を見るサルみたいな修正があったら、人間はあっという間に死滅したことでしょう。いわばかわいいという感情が赤ん坊を成体とすることができ、人類を存続させてきたわけです。小さくて弱い者をいとおしいと思い、自分のできることを行い役割を果たしたいと思い、赤ん坊が健やかに育つことに喜びを感じるということが人間に不可欠な感情だったわけです。そして私たちは、その人間の子孫たちなのです。

さてさて、最初の問題に向かい合いましょう。馬鹿な子ほどかわいいということわざの真実性です。もはや小さくて弱いとは言えなくなった年齢の子どもであっても、親として子どものために手をかける余地が大きいというのであれば、親は子どものために、我が身を削っても役に立とうとするわけです。自分が先に死ぬわけですから、死んだ後のことまでも考えてしまうのも当然です。大事にして、何とか傷つかず、楽しく生きていてほしいというのが、多くの親の願いなのではないでしょうか。そして自分が子どもの役に立ったと思えば、満足もするし、喜ぶわけです。生きがいと言ってもよいと思います。

馬鹿な子ほどかわいい。このことわざは、人間という動物の特徴を端的に、象徴的に表していると私は思います。

蛇足
可愛い子には旅をさせよということわざもありますね。かわいいと親が感じれば、なんでも親がしたがりますから、子どもがなかなか自立することができません。旅に出して、親の庇護を離れて、他人の恩義を受けながら育つことで、子どもは自立していくことができるようになるということなのかもしれませんね。

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