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下手な考え休むに似たり 理性は、期待できるものなのか。理性とは何か、なぜ理性を使えないのか。 (期せずして三部作になった一応の完結編)草稿 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

 

前々回の記事は、人間は心というツールで群れを作って生き延びることができた。そこで言う心とは、群れの中にいたい、群れから外されそうになると不安になるという仕組みだった。そして人間は仲間のために役に立とうとする動物であり、特に弱い者を守ろうとする心がある、それは基本的に現代の人間も変わらないというようなことを言いました。

前回の記事は、そんな人間が、どうして戦争を起こしたり、貧富の差を容認したり、いじめや虐待、犯罪を行うのかということの理由として、人間の能力を超えた人数とかかわること、複数の群れに所属して群れ同士の利害対立があること、どの群れも永続性のない不安定な群れであることが原因だと説明しました。

本当はここで、群れへの帰属の不安定性が不安を生み、それが社会病理につながる仕組みを述べる必要があると思うのですが、短時間で書きなぐるこのブログでは、バリエーションを整理する自信がなく、また今度の機会とします。今回は、
前回の記事の最後で、これだけ多くのかかわりの人数、群れの数、利害対立があるとすれば人類はやがて滅びそうなものですが、理性の力によって人類は再生すると、勢いに乗って述べました。それは本当なの?という疑問が当然出てくると思いますので、やはりやや荷が重いのですが、これについて考えを巡らせてみようと思います。

<問題の所在>

1 人間には理性がある。しかし、現状の社会の問題もある。つまり、理性は問題解決に役に立たないという証拠がありすぎるのではないか。
2 そもそも理性とは何か。理性はそれほど万能なのか。
3 もし理性が問題解決に有効だとすると、現在の不具合の理由はどこにあるのか。

<この草稿における「理性」の定義と対義語>

理性という言葉を便宜的に使っているのですが、ここではわかりやすく、「感情にとらわれずに、冷静な思考で真実を見極めようとする意思決定方法」という言い方をしておきます。
だから、理性の対義語は、感情的、感覚的な意思決定方法ということになります。本当は感情ではなく「情動」という言葉を使いたいのですが、説明が面倒なのでやめておきます。また、ここでは、感情的な意思決定がすべてだめだということを言うつもりはありません。あくまでも社会病理をなくし、人類を存続させるための意思決定方法ということで考えています。

<人間は、理性を使うことを本能的に嫌がる傾向にある>

人間は、そもそもものを考えることを嫌がるようです。例えば算数の掛け算で、175×221=なんて問題を出されて、暗算で解こうとして解けないことはないと思います。175+3500+35000ですから、38500に175を足して38675と考えることは不可能ではないでしょう。しかし、解けと言われれば、そろばんとか訓練をしていない普通の私たちは、立て算を紙に書いて解くわけです。こうすると、九九という暗記している記憶を呼び寄せながら、並べていくだけだから思考力はだいぶ節約できます。(ひっ算以上に計算機を使う方が節約できるわけですが。)

結構大事なこと、結婚相手を選ぶとかいう場合も、感情的、感覚的に、例えば「自分の好きだという気持ちを大切にして」なんてことを言いながら、勢いで決めるということが案外実態なのではないでしょうか。少なくとも、この人と結婚することのメリット、デメリットを並び立てて、理性的に判断するなんてことをやっていたら、結婚なんてとても難しい意思決定になってしまいます。これはこれで人類滅亡の論理になってしまいかねません。

朝起きて食事をして着替えて出勤するなんてこともルーティンで行います。服を決めたりすることに時間がかかるとしても、なんとなくどっちにしようかなということで、TPOの問題はあるにしても、感覚的に決めているのではないでしょうか。この感覚的なあるいは感情的な、あるいはいつもと同じということは、迅速な意思決定をすることができるので、この意思決定方法を使わなければ、生活することも不便になるでしょう。

ただ、人類が理性を使わない一番の理由は、理性的な思考が大量のエネルギーを使うという問題があるようです。人間は無意識にエネルギーを節約させる傾向があり、この傾向によって餓死などを防いできたのかもしれません。これが思考方法にも徹底されていることから、感覚的、感情的に行える思考の場合は、そちらを優先するという仕組みらしいです。(感覚的感情的行動というのが生物としての原初的行動でありスムーズに思考がまとまり、理性的思考は人が群れを作り出してから発達していたため、不慣れな行動ということも関係しているのではないかとにらんではいます。)

<非理性的思考あれこれ>
非理性的思考としては、一瞬の危険を回避する仕組みが典型でしょう。仕事中、何かが自分に飛んでくるということを目で感じたり、飛ぶ音がきこえたり、風の動きという肌感覚で把握すると、脳が危険だと判断して、ほとんど反射的に手で頭を守ったり、できる場合はよけようとします。これも理性的思考を行っていたらぶつかってしまいますから合理的な思考方法でしょう。

誰か二人が対立をしているとしましょう。この場合、どちらかが自分の知っている人間、特に何らかの仲間だとすると、仲間の方に多少問題がある場合でも、仲間の方に味方をしてしまう傾向にあります。どちらの言い分が正しいか、理性的に考えて、間違っている方に注意するなんてことは起こりにくくなります。仲間が世間的に迫害されているような場合は、よりこの傾向が強くなるようです。罪もない人を一緒になって攻撃するということはよくあることです。国家レベルでも起こりますし、政治的にもよく起きています。その組織の定められた方針、理念よりも、組織の論理(仲間だから応援する)が優先されることもこれで説明できるでしょう。

同じように、認知心理学者が説明している、様々な思考バイアスも、なるべく理性的な思考をしないでエネルギーを節約させるための方法だと評価できるのではないでしょうか。

<感情は理性より先に生まれ、その前に生理的反応があるという順番問題>

先ほどの飛んでくる物体の話が説明しやすいのでそれで説明します。まず、視覚、聴覚、触覚で、物が近づいてくることを脳がキャッチします。その後に脳のさらに中枢で、それは危険だと判断します、その後副腎のホルモンなどが分泌され、心拍数が増え血圧が上昇し、体を動きやすくするように生理的変化が起きだします。そのあとに、危険だという意識が生まれ、危険回避行動が行われるわけです。ほとんど理性が登場することはありません。

ひとしきり、安全が確認されたのちに、ようやく理性が働く余地が出てきます。大事なことは順番です。理性が一番後で、その前に感情が生まれていて、その前に体の反応がすでに始めっている。体の反応が危機回避の反応ですから、それによって意識や感情も形作られて、そのあとになってようやく理性が働き始めるということに着目するべきです。

少し時間の余裕があるのは、対人関係的危険です。自分が友達から悪口を言われているみたいだという危険を感じてしまうと、やはり体が反応して心拍数が増加し、血圧が上がるなどの変化が起きてしまいます。そのあと嫌な気持ちになって、何とかしようと思って行動するわけです。悔しくて大声を出して暴れたりすると、「やっぱりあなたはそういう人ね。」と改めて否定評価されるわけです。逆効果ですね。そうではなくて、例えば相手にしないという態度をとったり、上手に問題提起をするという理性的思考によって、あなたの評価を下げない効果が生まれるわけです。

本論とはあまり関係ありませんが、だから、自分がどのようなことを考えてしまうかなんてことに意味はあまりないということです。まず、体が反応していることが生き物として当然のことです。それから生まれる感情が、どんなにドロドロしていようと、不道徳であろうと、自分の主義理想に反しようと、あまり自分の人格とは関係がないということです。どういう風な状況であったかということを振り返ることの方がよほど大切です。同時に、身近な人の感情も、そのような本人の自分を取り巻く状況についての反応にすぎず、一時的な喜怒哀楽については、多少大目に見なければならないと思うのです。人格とかかわりなく脳が反応してしまうのですから、その反応で非難をしたところで改善することはなかなか難しいということだけは理解しておいた方が良いと思います。

<理性が働くなる場合あれこれ>

弁護士をしていると、例えば刑事弁護の仕事をしていると、あるいは人間関係の紛争に携わると、理性が働きにくくなる場面があるということに気が付きます。
いくつか紹介しようと思います。

1 自分を守らなければならない状況

理性が働きにくくなる第1の状況は、自分を守らなければならないと強く感じているときです。誰かに襲われたときには、一直線に自分の身を守らなければ自分が絶命する可能性もありますので、やみくもにでも逃げるか、命がけで反撃するわけです。自分を守らなければならないときに、理性的に手段を吟味していては自分を守れません。

生命、身体の危険を感じている場合もそうですが、仲間の中で否定評価をされている場合なども、なりふり構わず自分を守ろうとしてしまいます。先ほどの例のように危険だという意識が発動してしまい、感覚的な行動をやみくもに行って、逆効果になることもよくあります。危険に対する反応は「逃げるか戦うか」ですが、いずれにしても心拍数が増加し、血圧が上がるという反応が起きています。対人関係的な危険で、この身体生命の危険回避の仕組みが発動されることは逆効果になることがほとんどなのですがしかたがありません。自分を守ることをやめることによって、理性が働き、うまい解決方法が見つかるということが良くあります。なくしものがあって探しているときに見つからないのは、危機感を感じてやみくもな行動をしているからです。探すのをやめて、危機感を鎮めると、理性が働き、見つけることができるようになることには理由があるわけです。

2 危険がないのに自分を守ろうとする生理変化が起きている場合

自分を守ろうとしているという意識がなくても、自分を守らなくてはならないという生理的メカニズムが発令されることは、順番が生理的メカニズムという反応が先なので、当然あるわけです。理性的に考えれば、自分を守る必要がないにもかかわらず、脳が勝手に反応をしてしまう。その反応を自覚することによって危機意識が生まれて、理性が働きにくい場合が良くあります。

1) 疲労、睡眠不足
疲労や睡眠不足がある場合は、危機に対応しにくい状態にあるという自覚を意識ではなくて脳が勝手に行っているのかもしれません。睡眠ができなくなれば死にますし、疲労が蓄積されていけば動けなくなります。だから、危険に対して過剰に感じやすくなるようです。疲労の蓄積や睡眠不足によって、理性の働きが減少してしまいます。
2) 過密行動、複数同時並行行動、マニュアル行動
例えば仕事などで、予定が詰まっていて、短時間で一つの仕事を終えなければならないということがあると思います。また、自分の考えで行動することができないで、会社から渡されたマニュアルに従って行動しなくてはならないような場合もあるでしょう。一方でこのような労働は、時間当たりの労働の結果が増えるように感じますが、他方で自分で自分の行動を決められないという危機感が生まれてしまうようです。このため、自分を守ろうという意識が無駄に生まれてしまい、理性的な思考が後退してしまうということがあるようです。同じく、二つのことを一度にやるということは人間の脳の特質に反する行動のようで、たいしたことでもないのに、過剰な防衛志向が生まれやすくなるようです。実際に行動する人の理性的判断が求められている種類の労働などの場合は、疲労を蓄積させることをせず、睡眠時間を確保し、過密にならないように、そして自分の判断ができる部分を残しておくことが上手な労務管理ということになるでしょう。

3 仲間を守ろうとするとき

動物全般として自分を守ろうとするので、人間も動物的に自分を守ろうとするわけです。植物も、自分の危険を回避する仕組みがありますから、生きとし生けるもの自分を守ろうとするわけです。
しかし、群れを作る動物の中でも、人間は特に、自分を犠牲にしてまでも群れの仲間を助けようとすることがあります。私は、これは本能的な行動であり、この本能的行動があったため、人間は文明のない時代であっても群れを作って生き延びることができたのだと思っています(袋叩き反撃仮設)。

先ほどお話しした組織の論理(事の善悪で行動するのではなく、仲間を支援する方向で行動をする傾向)も仲間を守るという人間の本能で説明できると思います。つまり、仲間を守ろうとか、弱い者を守ろうという意識は、一見尊いように思われるのですが、対立当事者がいる人間関係の紛争では、罪もない人の攻撃に加担するというデメリットもある行動なのです。そういう意味で、私は自分の考えが性善説ではないと思っています。また、性善説、性悪説という議論にあまり価値があるとは思えません。

他人の命を守るために自分の命を犠牲にするようなこと(自由意思で行う場合)を、私はそれほど高く評価をすることができません。人間は基本的には、自分の最もコアな群れである家族を守るべきだからです。家族の中で、家族よりも他人を優先するというコンセンサスがある場合には自己犠牲も賛美できますが、そうではない場合は、やはり理性的な考え抜きの衝動的な行動だというべきだと思います。それを、賛美して、正しいとか、行うべき見本だという考え方にははっきりと反対します。

4 善悪の二項対立 道徳違反等

理性が働かなくなる場合の一つとして、既に他者によって、善と悪との対立だという構造が設定されている場合があります。実際の犯罪の刑事弁護に携わったり、損害賠償事案に携わると、新聞で報道されるような、どちらかが一方的に悪で、どちらかが一方的に善だという場合だけではない場合をよく目にします。特に、自分が関与している事案を見ると、ことさらに、誰かを悪者にして非難をあおるような報道を多く目にします。世の中はそれほど単純ではないですし、決めつけた上で感情をあおるような報道姿勢は大変危険です。
しかし、現代人は、攻撃材料があるとすぐに飛びついて、報道機関などの意図に沿った感情の変化をしてしまうという危険があるようです。噂話程度の情報に基づいて、あるいは虚構の演出を真実だと決めつけて、特定の人間を攻撃するという行動を起こしてしまいます。ネットいじめが典型ですが、よくよく考えると日常にありふれているようです。その被害を受けるとよくわかることです。

正義や倫理、道徳などに反する行為であると社会的に認定されてしまうと、批判をしたくなるのも人間のようです。これは、仲間を守るという本能から派生した感覚であると考えるとわかりやすくなるのではないでしょうか。
見ず知らずの人、自分や自分の仲間とかかわりのない人を攻撃する心理として、自分の何らかの不安を、他人を攻撃することによって感じにくくなるというメカニズムも関与していると私は思います。
怒り依存症 怒ることで幸せになれる条件と、怒り続けるしかないことになってしまう不幸を産むメカニズム
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-01-03

5 では、社会病理をなくすために理性は使い物になるのか

ここまで理性が役に立たない場合が多いみたいなことを言っていると、社会病理をなくすために、本当に理性は使えるのかという疑問も出てくると思います。

理性を働かせる条件を、これまでの話をもとに逆説的に挙げてみましょう。
1 自分を守ることをしない。
2 体調を整えて、余裕のある思考のできる環境を作る。
3 仲間意識を捨てる。
4 過度に道徳を重視しない。
こういうことが条件になるようです。
しかし、こういう条件で、およそ何かものを考えようかという気持ちになるのか、かなり心配です。行き当たりばったりの思考になりかねないような頼りない感じがします。

理性を正しく発揮するためには以下の条件が必要だと思います。
1 生きること、生きようとすることに絶対的価値を認める。
2 人間として生きる、他者と協調しながら生きることに大きな価値を認める。
3 理性的思考をしないために、1と2の価値を擁護できないポイントを予め認識して、誤りのパターンを共通理解にする。

つまり、あらゆる場面で、感覚的意思決定をせずに理性的な意思決定をするということは人間にとって不可能なことであることを理解する。ただ、感覚的な意思決定をしてしまうと、不利益を受けてしまう人間が生まれたり、誰かを強く心理的に圧迫するということを類型化して、予めみんなの共通理解にしておくということです。この失敗のポイントがわかれば、用心することができますし、理性的な思考をする場面であることに気が付くことできるから、理性的な思考が行われやすくなる、こういうことなのです。

そんなに難しいことを考えなくても、生きること、生きようとすることを無条件に肯定し、人間として生きるということを積極的に肯定しようという意識が生まれて、本当に安心して生きていこうと大勢が思えば、代わっていくことだと思っています。

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