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幽霊の正体見たり枯れ尾花 不安が社会病理を招く経路 (結果的に四部作になってしまった、今度こそ完結) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



怖い怖いと思っていると、何も危険性のない物を危険だと感じてしまうこと。ただ、怖がっているだけならば笑い話で済みます。しかし、人間、危険があると誤解すると、危険から逃れようと行動をしてしまいます。このメカニズム自体は人間に限らず動物全般の行動です。まさに「生きる」ということはそういうことなのでしょう。しかし、実際は危険性がないにもかかわらず、危険を回避しようとする行為は、メリットが何もないかわりに、デメリットがあることが多いようです。
例えばススキを幽霊だと思った人は、怖さのあまりその先に行くことをやめて走って帰ってしまったりして、実際は笑い話に終わらないこともあると思います。

生命身体の危険だけでなく、人間は群れを作る動物として、仲間の自分に対する評価を気にしてしまいます。仲間の中で自分の評価を下がることを、身体生命の危険と同じような脳と体のメカニズムで反応してしまうようです。やはり「危険」としてとらえているのでしょう。現代の人間は、複数の群れで生活しています。家族、学校、会社、地域、社会、趣味のサークル、友人等々、放っておけばそのそれぞれすべてで、自分の評価が下がることを心配しているようです。
心配する理由として考えられるのは、今の世の中、すべての群れで、自分の代わりがいるという事情があることです。考えてみたら恐ろしいことです。会社で自分が倒れても、すぐに自分の代わりが同じ仕事をして会社は続くわけです。家族でさえも、離婚などで、自分が仲間から追放されて、別の人が自分の代わりとして生活を始めたりします。
すべての群れの中で、尊重されて生活していればよいでしょうけれど、そんな人はどれほどいるのでしょうか。多くの人はどこかの群れで、不具合を抱えているのではないでしょうか。
例えば、会社で何があろうと、家で幸せならばそれでよいというならば簡単ですが、そう割り切ることはできないようです。

会社でパワハラを受けたり、不合理な低評価がなされたりすると、それが会社だけの出来事ではなく、自分に対する全人格的な低評価だと受け止めてしまうのが人間のようです。その結果、自分に対する自信がなくなってしまい、無意識というやかったいな仕組みで、どの群れであっても自分は低評価をされているのではないかと過剰に不安になってしまうようです。

会社で不合理な扱いを受けて会社は敵であり報復してやろうと思い、敵であるからルールも何も守る必要がないなんて考えて会社の財産を窃盗とか横領とかで被害を与えるというのは比較的単純な話です。

仲間として尊重されていないという危機感、不安は、尊重を回復させようと無理な要求を行うため、あれこれとストレスを大きくしていくのですが、悪くすると回復の兆しは一切なくてさらなるパワハラ、低評価が加わってしまいます。この場合の絶望は、社会的ルールを守る、相手に迷惑をかけないようにするという意識を失わせやすく、犯罪に対する抵抗が弱くなってしまうという効果が生まれやすくなります。

会社で不合理な低評価を受けて減給処分を受けたり、自営業者が風評被害にあって売り上げが下がって、収入を得るという自分の能力に自信がなくなると、そのことを言われてしまうのではないかという怖い怖いが募って、自分の子どものお小遣いのおねだりさえも、自分の収入をあざ笑っているのではないかと過剰反応をしてしまうわけです。

妻の言動も、過剰にとらえすぎて、なんでも自分に対する低評価が込められていると悪く悪く聞こえてしまいます。扱いにくくなって、実際の評価も下がるでしょう。ますます、夫の危機意識は高まり、夫婦間に緊張状態が生まれてしまいます。

さらに、例えば、就職活動をしても採用されず、もう就職活動すらしたくないという場合は、自分でも駄目だなあと思うわけです。家族でも友人でも、交際相手でも、自分を否定評価しているだろうなあと思うわけです。すると、乳児が泣き止まないことに対しても、自分を馬鹿にしているように感じてしまうようになるわけです。過剰な危機感というのはそういうものです。自分の能力のなさを突き付けられたような気がするのでしょう。

あるいは、低評価されているわけではないけれども、自分で自分のことを決められないという形での不安が持続してしまうと、自分が誰かから支配されていて、自分で自分のことを決められないという形での不安が高まるようです。無意識にその不安を払しょくしようとして、自分より弱い者を支配しようとするようです。性犯罪の加害者側の背景をみると、こういう事情があることが多いように感じます。

ストレスの解放行動としての怒りは、自分よりも弱い相手に向かうようです。自分よりも弱い相手がいない場合、あるいは他人に迷惑をかけることができないという意識が強すぎると、怒りはほかに向かいようがなくて自分に向かっていきます。自分から自分を守るということは盲点であり、対応が難しく自死が遂げられてしまうようです。

2010年、震災の直前に私は、あるラジオ番組のオファーで、離婚の統計について簡単に調べていました。そして、離婚件数の移り変わりにあるデータとの共通点を見出しました。それは、破産の申立件数でした。数字を折れ線グラフに直してみると、人数こそ違えど同じような形になりました。このグラフは自死の人数、失業者の人数と同じ形でした。犯罪認知件数もどうかと思ったら、やはり同じ形でした。特徴は、1998年に、飛躍的に数が上昇し、2002年から3年にピークを迎え、その後は緩やかに減少していったのです。

その後東日本大震災の経験なども踏まえ、離婚、破産、自死、失業、犯罪認知件数の連動の意味は、不安の推移によるものではないかという仮説を立てました。但し、破産に関しては、利息制限法などの改正によって減少傾向を見せていますので、連動の度合いは低くなっているかもしれません。

失業というのは、就労を希望してもかなわないという事情の方が多いと思いますので、これも外します。残った離婚、自死、犯罪というのは、人間の意思が関与しています。共通の要素としては、とても大きな不安があり、不安を解消したいという要求が強くあるのだけれど、解消することがなかなかできない、そのため不安解消要求がさらに強くなってしまい、不安解消が果たせるならば、どんな手段でも使いたくなり、それを思いとどまることができなくなるという共通の意思決定のメカニズムがあるということに気が付きました。

不安は危機意識を持っているときの心の状態なのですが、これらの社会病理の不安は、生命身体の危機に基づくものよりも、自分の人間関係上の低評価、孤立の危機に基づくものであるようです。

ススキを見て幽霊だと思うだけなら、走って逃げれば安全だと思う場所に着きますから、いつまでも不安を感じ続けなくてよいでしょう。しかし、職場、家族、あるいは社会の中での、自分に対する低評価の危機感というものは、持続するものであり、解消が難しく、絶望を抱きやすいということが特徴です。不安解消要求はいやがうえにも高くなり、それが解消されるとか軽減されることに、一も二もなく飛びついてしまうようです。自死も同様の原理だと考えられます。不安を感じそれを解消することが生きるということならば、生きるために自死に至るというなんとも不合理な事態になるようです。

離婚については、少し説明が必要だと思います。先ほどは会社で働いている家族が、自分の会社での低評価に過敏になっていて、家庭での些細な言動に危機感を募らせて反撃してしまうという経路を説明しました。しかし、近年の離婚については、特に理由がなく不安になってしまうところがから始まる事例が増えているように思います。精神疾患の診断書が裁判所に出されることもあるのですが、かなりの高い確率で精神状態に影響を与える内科疾患、婦人科疾患、副作用のある薬の使用が確認されます。病的な事情で、夫婦でいることで相手から否定評価を受けるのではないかという不安が先行して、そのような不安から解消されようとして離婚を申し出るというケースが圧倒的多数になっているような気がします。少なくとも性格の不一致、精神的虐待を主張するケースは、大半がこう言う類型です。

思うに霊長類は、不安を感じやすいことを自覚して、一日の大半を不安解消行動に費やしていると言えるかもしれません。ゴリラが胸をたたく行動がどのくらい一日の時間を占めているかわかりませんが、サルは毛づくろいをしてお互いの不安を解消しあうようです。毛づくろいはかなりの時間を使うようです。

人間だって、仲間内では、意識的に、積極的に不安解消行動をお互いに行わなければならないはずです。しかし、霊長類の中で、人間だけが仲間の不安に対して無理解であり、対応をしないという特徴があるように思われます。社会を変えるという大きな話題ではないのですが、自分の仲間の不安を解消する努力を行う、自分はあなたとの関係を終わりにしようなんてことは一切考えていない、安心してほしいというメッセージ、もっと実務的に言えば、感謝と謝罪をこまめに行い、敵対心がないことのアッピールをしていくということがまず私たちが誰でもできることなのだと思います。

仲間の不安を軽減し、消滅させることは、メリットしかないようにも思う次第です。

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