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【完全ネタバレ御免】相棒(令和4年2月23日放映)の自死(自殺)の描き方の大いに評価するポイントとリアリティの問題について 高橋和也を絶賛する [自死(自殺)・不明死、葛藤]

これからテレビ朝日系の相棒season20 第16話「ある晴れた日の殺人」(令和4年2月23日放映分)についての論評を行います。肝心の謎解きの部分がバレバレになるので、ご注意願います。


いきなりネタバレから入ります。

水谷豊演じる刑事が、自死をしたサラリーマンのことを評して、概要「彼は死にたかったのではないと思う。自分の人間関係の中で円満に生活していたいと思っていたと思います。捜査をした結果そういうことを感じました。」と述べています。
これはとても、大事な視点です。自死をする方は、死にたかったのではなく、生きたかったから死ぬしかなかった。ということは真実だと思います。ただ、単に「生きたかった」というとよくわかりません。「生きたかった」というよりも、「対人関係の中で尊重されて生きたかった。」と言わないとわからないと思います。テレビ番組でそこまで行き届いた説明がされていたことに感心しました。

文学的にはこういう話なのですが、演出上の問題としては、この話を死者であるサラリーマンが聞いているという設定があり、その話を聞いて表情を変化させるのです。その変化は見所で、演じた高橋和也はすごい俳優だと思いました。この人は男闘呼組の時から寅さん映画が好きで、話せるやつだなと注目していたのですが、俳優として大成しつつあるように感じました。よく勉強しているのだと思いました。

この部分があれば、これはテレビドラマとして、評価してよいと思います。
以下に私が述べるリアリティを追及してしまうと、説明が難しくなり、時間が足りなくなり、そもそも娯楽作品としては成り立たず、そもそも電波に乗らなかったと思うので、目をつぶってよいのですが、この記事は、ある意味テレビ番組をよいことに、自死について説明がしたいということで説明しているとご理解ください。


リアリティを欠くと思われたのは、自死者が、自分で自分を「殺した」と繰り返し述べるところです。用語を問題としているのではなく、自死についての動機としてのリアリティの問題です。

もう少し詳しく言うと、高橋和也演じるサラリーマンは、(結局)自分に対して「出世争いをするために、同僚の足を引っ張ろうとしたり、他人の失敗を許せなかったり、人間として許せない。そのよこしまなことを考えているときに表情の醜さを嫌悪する。生きている価値のない人間であり、殺しても罪悪感なんてない。」ということを何回か繰り返して述べます。視聴者は、高橋和也演じるサラリーマンが被害者である他人を殺したと錯覚していますから、殺人の動機として受け止めているわけです。しかし殺人の動機としても、自分に損害を被らせることに対する反発ではなく、一般的道徳というか、正義感の観点から殺害を行うということもリアリティが希薄だと感じて違和感がありました。

結局、他者ではなく自分に対する否定評価だったわけですが、それにしてもそのような動機で自死を行うということもやはりリアリティが感じられません。
生物の原理に反して自分で自分の命を絶とうとしている人が、道徳規範や正義感に照らして、自分を否定評価するということは、ずいぶん余裕がありすぎる心理状態だと思われるのです。

自死をした人の事情の調査結果や、自死をしようとして未遂で終わった人たちの話を聞いても、そのような冷静な思考が働いていたということはこれまでありませんでした。自死未遂をした方々の話を聞くと、半分くらいは、自分が自死行為をしたという記憶すらないのです。

記憶がない自死行為の典型は、向精神薬やアルコールの影響で、自分の行動を自分で制御できない状態になっているという場合です。おそらく、ただ眠りたいという気持ちだけをもって、眠れない間中、睡眠薬をぼりぼり無意識に食べているという感じでの過剰服薬です。後は、気が付かないで、屋上など高いところに上って行っていたというケースです。向精神薬やアルコールの影響があったとは思いますが、一種のトランス状態にあったようです。命のあるなしをわけたのは、その行為に気が付いて無理やり止めた人がいたかいないかということでした。

自分から命を絶とうとして数人で死地に赴いていたが、憎んでいた人の顔がちらついて、「自分が死ぬことで、こいつを喜ばしてなるものか」という気持ちが生まれ、一人引き返した人がいました。同行した人たちはみな亡くなったようです。この人の自死の動機も、なんとなくわかるような気もする事情もあったのですが、結局は動機というまとまった因果関係があるものではなく、「自分は死ななければならない。」という理屈を超えた信念のようなものに支配されていたようです。職場から抜け出して、別のビルの屋上から飛び降りた方の場合も、直前の行動は、パソコンの画面には向かっていたけれど何もしていない状態、インスタントコーヒーを入れようと粉をコップに入れたけれど、お湯を入れていない状態等、意識があったのかさえ疑問となる事情がありました。それでも確実に死ぬ方法を選び実行をしているのです。

冷めた目で、制裁でも自己否定でもよいのですが、「自分を殺そうとして自死をする」というケースは、実際は存在しないか、あったとしても非常にまれなケースではないかと思われます。自分が苦しんでいる理由が、自分の行動や考え方が自分で嫌だ、人間としておかしいというようなところにあるということに気が付いているならば、おそらく自死には至らないということがリアルだと思います。実際はどうして苦しいかわからないことが多いですし、つじつまが合わないことで苦しんでいることも多いですし、もっと多いのは自分が苦しんでいるということに気が付かない人たちが自死する場合です。「自分が実は苦しんでいるのだ」ということを、自分で分かってあげれば自死をしなくても済んだことが多いように感じられます。

この番組の最後の高橋和也の表情の変化は、自分が苦しんでいること、自分が尊重されたいのに尊重されていなかったことに苦しんでいることを理解したという感情の変化を表現した、なんとも言えない素晴らしい演技だったと思いました。

だから、リアリティを出すためには、自分が出世のために同僚の足を引っ張っていることを悩んでいたり、部下に配慮が足りず、逆に部下から貶められようにしているところに苦しんでいたり、妻との関係で葛藤を高めていたりするシーンが描かれて入ることが必要だったのだと思います。自分が解決方法のない苦しみに追い込まれている様子が描かれればリアリティが得られたのだと思いますが、それは一時間番組のエンターテイメントでは無理でしょう。何かを割愛することはやむを得ないと思います。

「自分を殺す」という表現が何度も使われたのは、殺人事件として展開する演出上やむを得ないと思いますが、リアリティは無くなるわけです。この言葉から罪悪感云々というセリフも出てきたのでしょうけれど、実際に自死している人たちは、自分を殺すという意識はないと思いますから、そもそも罪悪感が論点にはならないと思います。自死をしそうな人に自死の罪悪感を持たせて自死予防をしようと考える人たちがいますが(だから自死ではなく自殺というべきだというようです。)、そんな余裕のある人は自死しませんから、あまり的を射た議論ではないと思います。客観的には自分を殺しているのかもしれませんが、自死者の主観では、自分を殺すという意識はないはずです。

もう一つ、自己肯定感が低くなるとか、自己否定とかいう言葉が、最後のセリフの前に二人の刑事の間でもっともらしく語られるのですが、私は、全く頭に入ってきませんでした。ない方がよかったなと思いました。人が一人死んでいるのに、「何余裕ぶっこいて話してるんだ。」とさえ思いながら音を聞いていました。

おそらく自分を「殺す」ことから、本来「罪悪感」を抱かなければいけないという論理の中で、自分は死んでもよい人間だという自己評価の全否定があったので、罪悪感を抱かなかったという流れの中の話なのでしょう。そんな自分を客観的に評価している自死はないと思うので、意味のないセリフだと感じました。言葉に引きずられすぎた思考ということになるでしょう。

この流れも、自死予防の中でよくみられる間違いです。自死する人は、自分を大切にしない、自分を大切にできなくなっているから、「殺す」ことができるのだという考えの元、自死予防は、「自分を大事にしよう。」、「自分の命を守ろう。」というキャンペーンになるわけです。
自死は、「自分を殺そう」という主観や動機があって行うわけではないという視点が欠落しているとそういうメリットのないキャンペーンにつながるわけです。

どちらかというと、自死する人は自分を大切にしていますし、自尊心も強いように思われます。もともと「自分なんて幸せになれるはずがない。」と考えているならば、それほど強い絶望を感じたりしないのかもしれません。自分は、自分を取り巻く人間関係の中で大切にされたいという期待があるからこそ、そうではない現実に落胆し絶望するのだと思いますし、それでも何とか解決策を求めて不安感、焦燥感を抱き、それがかなえられないために絶望が深まるのではないでしょうか。冒頭申し上げましたが、自死は死にたいのではないのです。「自分の関わる人間関係の中で、尊重されて、協調して生活したい」という望みがかなえられないところに苦しむのです。その苦しみ切った先に、何かをしたいという長期的な願望はないと思います。ただ、その苦しみから解放されたいという控えめな望みしかないわけです。その手段として自死を思いとどまることができないほど苦しみ切っている、冷静な思考、自分に対する評価ができないから自死を思いとどまることができなくなっているだけだということだと思うのです。

だから、自分を「殺す」という表現も的外れですし、人を殺すから罪悪感があるかどうかもそんな余裕のある話ではありませんし、ましてや自分を殺したから許さないという表現も的外れだと思います。

まあ、刑事二人が余裕をもって話をしているのも演出で、自死という出来事の持つ重苦しさを緩和させる効果を期待したのだと思います。「許さない」というセリフも、亡くなったサラリーマンに対して、「あなたはかけがえのない人であり、死んでもよい人では決してない。」という意味が込められているのだろうと考えようと思います。

そういう前向きな解釈をさせたのも、高橋和也の表情の変化という演技だったのだということを最後に強調したいと思います。




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