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満場一致パラドクス 反対意見が提出されない集団はやがて消滅するというその理由 民主主義の優位性を保証するのは少数意見(へそまがり)の尊重であるということ(組織の意思決定時の満場一致における系統誤差の由来と様相に関する考察) [弁護士会 民主主義 人権]

YouTubeをみていて、「満場一致パラドクス」についての動画をみつけました。満場一致パラドクスとは、何かの課題が満場一致で決められる場合、反対意見がある場合に比べて、そこには誤りが存在する可能性が高くなるという理論です。(もっとも、定義を忠実になぞるだけの議論の余地のない課題は除きます。例えば、イチゴとミカンがあるところから、イチゴを持ってくるような場合は、満場一致でイチゴがこれだと思うわけですから、そういう場合は除くわけです。)

この世の中、答えが一つしかないということは少ないですから、理論的に反対説が現れても不思議ではない場合にまでいつも満場一致となることは、逆に、真実がその一致した結論だからではなく、別の事情によって満場一致になってしまっているのではないかと疑うべきだというのです。この別の事情を「系統誤差」という言い方をするようです。

YouTubeだけでなく、インターネットにおいて、結構満場一致パラドクスは紹介されているようです。統計学や認知心理学、犯罪捜査の観点からうまく説明されているようです。この記事は、集団的意思決定における満場一致パラドクスに絞って、どこに系統誤差が起こりやすいのかということを述べるとともに、民主主義の一番大事なことは多数決ではなく少数意見の尊重だという意味もお話ししていきます。



集団的意思決定は、私たちの身近で多くあることですし、人間が群れを作る以上どうしても必要なことです。身近では、家族で週末にどこに出かけるかというところから始まって、友人関係、会社、ボランティアなどの集まり、大きくなれば、自治体や国家、社会においても意思決定が行われます。そのすべてにおいて、満場一致やそれに準ずる賛成多数は、集団を発展させず、滅ぼしてしまう危険性をはらんでいます。

たとえば、大きな会社で、大規模な不正事件が時折起こります。詳しい報道を見てみると、ワンマン経営者が他の取締役の意見を出させないようにして、いわゆるイエスマンばかりが取締役となり、その結果不正を止める者がいなくなってしまったので不祥事を起こしたという報道は記憶に新しいと思います。夫婦や友人関係でも、リーダー的にふるまう人が、他者に意見を言わせないようにして、自分の意思でどんどんいろいろなことを決めているうちに、愛想をつかされてその人が排除されてしまい、夫婦は離婚し、友人関係は解消されるなんてこともよくあることです。満場一致ということは疑ってかかる方が良いのかもしれません。
特に組織の行動方針なんていうものは、どれが正解かはっきりした答えがないのが普通です。常に満場一致という組織はこの不自然さを組織自体が容認するようになっているわけですから、慎重に帰属や支持を検討するべきです。

この満場一致になる集団的傾向、集団心理となることは、私は「秩序を形成しようという人間の本能」に原因があると考えています。つまり、人間は集団の中に権威を作る生き物のようです。権威をもつ者は自分の立場を維持しようとして、自分の意見を通して秩序を形成しようとします。権威を持たないものは、無意識に権威に迎合して秩序を維持しようとします。スタンレー・ミルグラムは「服従」と言いましたが、対人関係学はこのような人間の群れを作る本能に由来するものであり、「迎合」という表現が適切だと述べました。

「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05

集団的意思決定の場合において、不正確な満場一致になってしまう理由、系統誤差について、権威側と迎合側に分けて考えてみます。

わたしも10年以上前に所属する弁護士会の執行部の仕事をしていまして、1年間だけですが、権威側の立場にいたことがあります。執行部は様々な弁護士会としての意思決定をする必要がありました。日常的な意思決定は数人の執行部会で行います。少し重い意思決定は、毎月行われる代議員の議会みたいなところで行われ、予算や規約の変更など最重要の意思決定は年に1度行われる総会や臨時総会で行われます。執行部会議でも課題が多いということから毎週行わなければならなず、夜遅くなることが多かったと思います。そして、毎月の代議員会に議案を提出して議決をしてもらうわけです。満場一致とは言いませんが、スムーズに提案を承認してもらいたいという気持ちがあったことは間違いありません。
反対意見があっても、なるほどもっともだという意見であれば、提案を引っ込めることに何ら躊躇はありません。困るのは、どこをどう考えるとそういう反対意見が出てくるのだろうという意見が出され、議論が混乱するときに、イライラとしてしまいます。そういうことを言う人は大体決まっています。そして、議論になることが予想される議案ではなく、この提案はスムーズに議決されるだろうというところで、質問や意見が繰り出されるとイライラがますます大きくなっていきました。

と言っても、私はそれほど重要なポストではなかったので、時間がたつうちに、もしかして面白い意見なのではないかと思う余裕が出てきました。そうしてその人の話を意識的に聞いていると、こちらの気が付かない次元の話を思いつくという才能があり、それを言葉にするという行動力があることに気が付くようになりました。コミュニケーションがうまく取れなかったことがイライラの原因だったらしく、その代議員の言いたいことはこういう観点からの心配なのかといことを確認するようになり、コミュニケーションの阻害が解決して苦痛は無くなりました。むしろ、新たな観点から提案内容を修正して、すきのない提案にすることができるようになったり、運用面で配慮をするヒントとなるという、会としてはきめて有益な問題提起だったことに気が付くようになりました。権威に迎合しようとしない傾向にあるという変わり者としてのシンパシーもあり、重要な人物であるという認識に代わりました。

この些細な私の経験から考えると、権威者側から満場一致の系統誤差を作る要因としては、「効率性」というものがあげられると痛感しています。意思決定をして行動を進めるということが最優先になってしまうと、立ち止まることができなくなってしまいます。立ち止まって、もっと良い意思決定を追及することが必要な場面で、あるいはその意思決定は勇気をもって撤回することを考えるべき場面で、それができなくなってしまうのは権威側が効率性を求めすぎてしまって、迎合側の迎合を強く求めてしまうときなのではないかと考えております。

職場のパワハラにそのような面があることをよく目にしています。その効率性を部下に求めることは不可能であるにもかかわらず、「結果」を出すという効率性だけが勝ちになってしまい、無理を通そうと結果を押し付ける過程が生まれてしまい、方法論が省略されてしまう。それで、部下の人格や健康に配慮ができなくなってしまう。部下の反論は言い訳としか受け止められなくなってしまうわけです。

集団が、行動を目的とする場合は、どうしても行動を行わないで足踏みすることができません。何とか行動に移す、しかも効率的に行動に移すということは、集団の本能みたいなものですから、権威側が効率性を求めるということは常にありますし、そのために満場一致という迎合を求めてくることは常にあると考えて、そうなってしまって欠陥だらけの行動提起にならないように少数の意見こそを尊重するべきだということが一つの結論でしょう。

もう一つ、権威側の自己保身ということも、系統誤差を生み出す要因になるようです。権威側は、自分の権威を盤石にすることで集団秩序を形成しようとするので、自分を高めようとします。実質的にリーダーの能力や技術、度量なんかが高まれば、組織にとってもプラスになるでしょう。ところが、そのような実質を伴わないで権威だけを高めようとしてしまう、秩序維持という結論だけを求めてしまうと、本来集団行動をするための秩序作りが逆に集団自身を傷つけていくことになってしまいます。中規模の集団でよく見られます。

NPОのような規模で、カリスマ的魅力のある人が創業者的に組織を立ち上げて運用する場合を考えてみましょう。組織を作り始めて軌道に乗せるためには、少人数のカリスマ的行動力で組織を動かしていくことが有効であるようです。超人的な行動に依拠して組織は立ち上がるでしょう。個人の直感や努力、あるいは運のようなものが必要な時期です。そこに人が集まってくるわけです。創業時の迎合は、一方的服従というよりも、権威者であるリーダーを立てながらも自分の意見もどんどん行って、いい感じで少数者の意見も反映されながら組織は大きくなっていきます。

しかし、組織が大きくなってしまうと、一人の意見で組織のすべてを決定することは不可能となると同時に、外部からの信用や印象というものが、その人ひとりの行動だけで決まらなくなるのは当然です。組織が大きくなるということはそういうことです。内部でも、創業者リーダーに全面的に迎合する人もいるでしょうけれども、サブリーダーの行動に迎合(行動を支持)する人も出てくるわけです。そのような迎合の対象がいくつかって、それら相互に協力体制が作られていけば組織は軌道に乗るわけです。

但し、創業者的リーダーは、本能的に権威者であり続けたいと思うわけです。創業当初はそうでなければ軌道に乗らなかった組織ですから、その意識は悪い意識ではありません。むしろ必要な意識かもしれません。しかし、創業から安定期に向かうときに、その意識は組織の動きや発展を止めることになるわけです。独裁から集団へ軌道修正をすることがうまくいかなければ、どんなに立派な理念を掲げていても発展をすることはありません。個人の頑張りからシステムの確立に移行するべき時期なのですが、多くの組織で当初確立していたシステムが風化していき、むしろ個人の頑張りに依存していく逆行が起こることがよくあります。

このような権威による迎合の強制が特に起きやすい場合というのは、組織に対抗組織があり、対抗組織との緊張関係がある場合です。議論をしているだけであると対抗組織に飲み込まれてしまうという危機感があり、効率性をとことん重視しなくてはならないという発想が無意識に強化されて生きます。また、そのような組織変化に対応できないために、組織の発展や維持に陰りが見えてきた場合にも同様の誤りが起きやすいようです。
秩序を作るためには効果があった個人に対する権威付けが、時期的推移によって、秩序や集団の利益から離れて、個人自体の保身のためのものになっている。こういう場合、満場一致圧をかけようとしやすくなるわけです。

権威側からの満場一致圧、迎合圧が、効率性と自己保身というところにありました。逆に迎合側の要因で満場一致圧という系統誤差が生じる要因を見ていきます。

「迎合」ではなくて「支配」という言葉を使うことのデメリットは、満場一致圧や支配と服従の本質を見誤るところにあります。支配者の一方的な欲得によって、満場一致が生まれてしまうと考えてしまいがちになることが最大の間違いです。責任がどこにあるかという議論をわきに置けば、迎合者の迎合は、支配者の意図にそうものだけではなく、迎合者にとっても権威者にとっても、組織の秩序を形成するという共通の目的のもとに、両方の意識や行動によって生まれるということを見逃してしまいます。権威者は必ずしも自分のわがままや希望で権威者になれるのではありません。迎合者が迎合するから権威者としてふるまうし、ふるまおうという動機が生まれるし、実際に権威者としてふるまうことができるというところを見落としてはなりません。


わたしも年齢とともに変化を感じているのですが、若いころは特に権威に対する反発が強く、権威をやみくもに信じないという傾向がありました。普通に迎合をする人たちの行動や心情に共感できないでいました。少しずつ歳を重ねていく中で、権威に寄り添うことに、安心感や安楽な感じを抱くようになってきています。

人が迎合しようとする行動原理はここにあるのではないでしょうか。群れの秩序の中で、秩序を維持する方向で行動することによって、安心感や安楽感とでもいうような感覚を得ることができるということです。逆に権威に対して反対意見を述べ、権威に従わないということが、何か不安や焦燥感を掻き立てるという感覚ですね。この感覚こそが人間が群れを作るためのツール、感情モジュールの一つなのだろうと考えています。

人間は、そこに権威があれば、できるだけ迎合したいと思う生き物なのだと考えると理解が進むと思っています。ミルグラムは、服従実験で、この権威について、社会的権威ではないかと提案しています。例えば名の通った大学の教授であるから権威があるという形です。対人関係学は、その迎合する人が、「自分の群れ、仲間」と感じている中で、その群れの秩序を作ろうとすることが迎合の心理であると考えるので、社会的権威とは限らず、群れの中で自分の迎合する対象として認識しうる権威で足りると考えています。人が苦しんでいることを止めようとしない理由は、支配者に服従するからだというのがミルグラムの結論かもしれません。対人関係学では、群れの秩序を形成しているという安心感があるため、具体的な人間の苦痛よりも秩序維持が優先されてしまうということが結論です。そして、その秩序形成の的になっている権威とは、仲間内の権威で足りるということが恐ろしいところだということが結論です。

迎合側の満場一致圧は、権威である執行部、権威であるリーダーに迎合しようという本能的な思考傾向があるため、そもそも人間社会では起きやすいということです。群れを作り始めた何百年も前であればそれで足りていたのだと思います。現代は群れが競合するという環境の大きな変化があるため、この本能のままに動いていたら群れは消滅していくわけです。

満場一致の系統誤差が生じる原因を見てきましたが、最後に具体的に系統誤差が生まれるその方法を見ていきましょう。

権威側の事情として系統誤差が生じる場合は、リーダーによる反対意見者に対する攻撃です。自分に迎合しないメンバーに目を付け、些細な失敗や他のメンバーからの遊離を見つけた場合に、チャンスを逃さないように、攻撃するわけです。この時の特徴は、攻撃対象に反論の機会を与えないことです。一方的に攻撃することが鉄則です。公開の議論をしてはいけません。自分の取り巻きの中で、攻撃対象が組織を害するもの、組織にはふさわしくないものという認識を共有することで完成するわけです。これが組織内で行われるだけならばまだよいのですが、組織の外に向かって攻撃をあらわにしてしまうと、問題が大きくなってしまいます。取り巻きの迎合者はリーダーを批判しません。取り巻きの迎合者は、リーダーからの評価を維持するという自己保身が働いている場合があります。大体において、子どものいじめの原理もこのようなものです。攻撃対象者が自分を否定評価していると権威者が考えた場合、自分の地位がとってかわられるのではないかと権威者が恐れる場合、これがいじめの始まりの典型的な一つのパターンです。

原理的に言えば、権威側は、攻撃対象者を孤立させることで自己保身を図るわけです。攻撃対象者、少数意見を言いそうな相手に十分な情報を与えないで情報がないために陥った誤りを逆攻撃するとか、論点をすり替えた人格攻撃をするとか、迎合者たちに、秩序を壊す者だと刷り込むわけです。その人の反対意見の是非や価値について検討せずに、その人の反対意見に至る発想を批判したり、別の目的があるのではないかと決めつけて攻撃したりするわけです。迎合者たちも、秩序を乱すものだという、自己の無意識の利益に逆行する人間ですから、攻撃の材料を無意識に探しています。だから攻撃の提案があれば攻撃に加担することが止められなくなる事情も出てくることがあります。

創業者リーダーが交代するべき時期は、このリーダーの発言で分かります。有力なメンバーの悪口が増えてきたとき。特にその人の行動の誤りに対して人格的な批判を展開するとき。人を説得するべき時に、事情に応じた論理を展開できないで、決まり文句を言って逃げ込むようになったとき(初めてそれを聞く人にとって何を言っているわからない発言。コアな人間でしか理解できない用語を使って仲間意識を思い起こさせる。)。自分の経験、自分の努力を聞かれもしないのに滔々と話すようになったとき。役割と無関係な自分の良いところをアッピールし始めたとき。そして、高度な集団を作るためには、満場一致で選出されたときも本来は権威の的になるべきではないのかもしれません。民主主義のメリットを生かすという観点からは、有害な人物かもしれません。また、十分な根拠もなく少数意見を封殺するような権威者、反対意見がさも不道徳であるように、つまり組織、集団にふさわしくないということを感情的に述べる場合も権威者としてふさわしくなくなっているということになりそうです。自分でこのような行動をする場合もありますし、大きな組織になれば子飼いの取り巻きにこの役をやらせたりします。

迎合者側の事情としては、先に挙げたとおり、本能的行動から権威者の提案を尊重しようとしてしまう傾向をそもそも人間は持っているという事情があります。志をもって議員になっても、提案者の意見を尊重しようとしたり、自分たちのユニットの代表者の意見に追随したりする傾向にあるわけです。理性的な行動を心掛けなければ当然の行動となってしまいます。

迎合者が、権威に迎合することで本能的な要求を満足させてしまって、提案に対して考えないという形の迎合が、もしかするともっとも一般的な満場一致に向かう系統誤差なのかもしれません。本来、組織、集団の意思決定において意見を述べなくてはならない立場なのに、「よくわからないから提案者に賛成する。」という態度です。「権威者に任せていれば、大丈夫だろう。」という態度です。この迎合で、誰かが傷ついていたり、回復しがたい損害を受けていたりしているかもしれないということには、思いを寄せないわけです。

迎合する心理、秩序を形成しようとする心理は、人間が群れを作って生き延びるためには必要な心理だったと思います。特に、人間が数十人から200人程度の群れで一生を終えるという環境の中では、この心理があれば、言葉がなくても群れを作ることができたのかもしれません。しかし、現代社会では、一つの群れに帰属しなくても生きていけますし、複数の群れに所属しています。大事な人間関係はその人との人間関係ではなく、家族だという場合も本当はたくさんあるわけです。そのような環境の変化に、人間の感情は対応しきれないようです。夫婦、家族でさえも同じような問題起きて、解決が難しいという事情があります。パートナーに安心して生活してもらいたいために、何らかの権威をもって行動提起をしようすることがあるでしょう。しかし、その権威的な行動が、他者から見れば、威張っている、横暴だ、自己中心的だと評価されてしまうことも多くあるわけです。家庭の中で効率を二の次にして、メンバーの意見を引き出すということを意識するべきかもしれません。しかし、相談ばかりして頼りない、信頼できない、安心できないと言われることもあるようです。
家庭の中ですらこうですから、難しい世の中になっていると思います。ただ、今日の話をどこか頭の片隅おいていただければ、危機を敏感に察して修正をすることに役立つのではないかとおもって、書いた次第です。

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