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同居親(母親)が病的に面会交流拒否を主張する場合に、どのように面会交流調停を進めるか。DVがないのに妻が夫のDVがあると思い込む、思い込みDVの心理的メカニズム [家事]



考える必要性に迫られたので、いつもの通りご一緒に考えていただきたいと思います。

子どもの両親が別居して、子どもと同居している方の親が別居している方の親に子どもを会わせることを拒否している場合、あるいは話さえもできない場合、別居親が申し立てて面会交流調停が家庭裁判所で行われます。

理由があって別居するわけですから、子どもと同居している親は、「子どもを別居している親に合わせたくない。」という気持ちになっていることは、リアルな話だと思います。

ただ、子どもの立場で考えると、子どもがもう一人の親と会う事によって、一緒に暮らせてはないけれど別居親も変わらず自分のことを考えてくれている、一緒に暮らしていた時と何も変わらないと納得できますので、子どもにとって有益です。気持ちが安定しますし、自分が放っておかれているわけではないということを理解できれば、自分に対する評価が低くなるということも回避しやすくなります。もっとも例外的に、同居中、別居親から虐待を受けていたような場合や別居親が暴力的な恐怖感を抱かせるような行動をとっていたような場合は、様々な工夫が必要になりますので、こういう事態は除いて考えます。

ただ、こういう例外について言及すると、事実が違うのに「私の場合はそういう例外的に子どもを会わせなくてもよい場合だ。」と言ってくる同居親が出てきてしまうので、話はややこしくなります。何せ会わせたくないですし、子どもの父親の顔を見るのも嫌(ないし恐怖)ですから、子どもと同居している方の親が何とか会わせない方法がないか考えるのは当然と言えば当然のことです。まあ、それでも今回は、会わせるには細心の工夫が必要だという場合を除いて考えます。

最近、面会交流調停で、かなり高葛藤の同居親が増えているような感じがします。(だから、理性的に面会を実施する同居親の方の気持ちの努力に、自然と無条件の尊敬を感じてしまうようになっているわけです。)

子ども健全な成長を図るためには別居親との面会をさせるべきだと考えても、同居親が会わせようとしなければ、子どもは別居親に実際に会うことができません。なんとかしなくてはなりません。しかし、どうやら家庭裁判所の調停委員や調査官、裁判官は、その同居親がなりふり構わず、感情をあらわにして「絶対に会わせない。」と言う姿を見ていると、動揺して思考不能になるようなのです。そういう人間のヒステリー状態をあまり見たことがないのだろうと思います。免疫がないというか。そうして、この感情あらわな人との対応を早く終わりにしたいと、それは思うでしょうね。人間の心理としてはそうなるでしょう。そして、早く終わりにする方法を無意識に探し出すのだと思います。「同居親である母親が感情的になっていて、収拾がつかない。」とはっきり言って終わりにしようとする場合もあれば、「DVがある場合は面会交流を認めない場合もある」とか、「相手の葛藤がまだ強いので時期尚早だ。」という言い方も最近多いように思います。肝心なことは、母親の気持ちに「寄り添って」子どもの利益を図る活動を停止するということになることをどう考えているのか伝わってこないことです。

別居親からしても、それではということで審判を求めてしまうと、子どもの利益以外の事情が考慮されたような審判内容になってしまうということあるので、そのリスクを考えなければなりません。できれば調停で解決した方がリスク管理ができます。

そのうえ、別居親までもが同居親を非難し続けるだけの調停になってしまうと、調停委員は、解決の方向が全く見えなくなります。このため、ますます早くこの事件を終わらせたいと思います。その調停委員から、別居親の憎悪の話を聞いてしまう同居親は、ますます自分に対する別居親からの攻撃が現実のものとなっていると感じます。「ほらわたしの言った通りでしょう。だから怖いのよ。」と。これでは目的に近づく行動ができていないどころか、逆方向に向かってしまっているわけです。相手を非難したいのか、子どもを自分に会わせたいのか、どちらかを決めてかからなければなりません。さあ、ここが頭を使って事態をコントロールすることができるかの試金石となります。

同居親である母親の拒否の気持ちの根っこがどこにあるかということを考える必要があります。ただ、そうはいっても、別居親だけに求めてもうまくいかないという事情もあります。何せ別居親からすれば、突如妻が子どもを連れて自分の元から立ち去ったという強烈な体験をしていますから、直ちに理性的に、相手を刺激しない方法でうまく立ち回れと言ったって、難しいのです。これは、別居親が父親であろうと母親であろうとあまり大差はありません。ときには時間をかけることも必要だと思います。

気持ち的にはすっきりしなくても、せめて別居親の代理人だけは同居親の「会わせたくない理由」に思いを巡らす必要があります。準備書面かなんかで夫のDVが原因で、そのDVはいつ頃のこういうDVだということが説明されていることもあるのですが、それが真実でなければ別居親の心には響きません。それ以上に、真実かどうかを検討する以前の話として、DVに関する記述が曖昧なことが実に多くあります。どんなに読んでも、「これはDVなの?」と首をかしげることも多いです。これはおそらく、同居親の代理人が、あまり本人の話や気持ちを理解しないまま「DV」という評価に引っ掛かりそうな出来事を探して書いているからなのだろうと思います。人間の心理は、単純にこういう事実があればこういう風に反応するという関数ではありません。その事実の持つ意味は、人によって様々です。そのさまざまな事情こそ代理人は理解しなければなりません。「なりません」というか、そこを理解することによって、第三者である裁判官を説得する流れを主張することができるのです。だから、時間をかけて丁寧に聴取し、また人間の心理についてよく考える必要があるわけです。特に妻側の代理人がDVの結果となる心理状態を本当は理解しないで話を進めていて、勝てる裁判を落としているような事案が実に多く心配な状態になっています。

DVや精神的虐待を理由として離婚や面会交流拒否を主張する場合でも、必ずしも夫の行為が原因で妻の高葛藤が生じているわけではない事例がかなりの確率であります。むしろ、DVや精神的虐待が認められたケースが少ないということが実感です。夫の行為を理由に離婚に際して慰謝料が認められたケースは、私の担当している範囲では最近ではあまり記憶にありません。(不貞など別のはっきりした理由がある場合は除く)

同居親が母親である場合に高葛藤で面会交流を拒否しているケースは、母親の体調面に問題があるケースがほとんどです。医師でもない私がどうやってそのことを知ったかというと、同居親である母親の代理人が、虐待による損害を証明しようとして、診断書を証拠提出することが多くあります。この診断書を見ると、ある程度の医学的知識があれば、夫の行為によって妻の葛藤が高まったのではないということがわかってしまいます。また同居中に通院していたり、投薬を受けていたりしていることを夫は知っていますから、診断名がわかる場合もありますし、服薬している薬からおおよその疾患名が見えてきます。出される診断書の診断名は、パニック障害とか全般性不安障害とかが確かに多いのです。しかし、ある内科的疾患にり患している方がとても多い。その内科疾患は、精神的不安や焦燥感を抱かせるという症状があるのですが、内科のクリニックでは専門医であっても、がんに進行しないかという管理ばかりで、病気の生活面に与える影響についてレクチャーをするということが無いようです。本来夫婦を読んで病気の影響をレクチャーすることが必要であると私は常々痛感しているところです。

また夫婦仲の良い時期にも妻は通院していて、薬の名前から、うつ状態とか不安状態と診断されている事案も多いです。

共通して言えることは、妻には、夫を嫌悪する前から不安を感じやすくなるような体調的な問題があったということです。もともとは漠然とした不安だったわけです。それを「どこをどう経由してそうなるのか」、不安の原因がある時期を境に夫に求められるようになり、焦燥感を抱いて子どもを連れて別居するという現象になるようです。別居の半月ほど前には、行政やNPOの女性の相談や警察の相談を受けていることが、離婚調停の証拠から出てきます。

ここで考えなければならないのは、別居親である夫が、「責任がないのだから、無理やりにでも、法律で強制執行の方法を設けても、とにかく子どもを別居親に会わせるべきだ。」と声のトーンを上げても、なにもよいことがないという現実です。「責任はないけれども原因がないわけではない」ということが、むしろ面会交流を実現するための思考ツールとなります。原因を除去ないし軽減すれば、拒否が緩和されるかもしれないという風に考えることが建設的だということです。面会交流実現の可能性が高まるということです。そして、一度面会が実現されれば、そこでトラブルがなければということになりますが、案外面会交流は続いていきます。子どもはハッピーになれます。

さて、「責任がなくても別居親の夫に原因がある」とはどういうことでしょうか。

「妻の不安はもともとあったのだろう。」ということですから夫は関係ないのではないのと思われることももっともです。ここで注意しなければならないのは、論理的に因果関係を考えるという近代合理主義は棚上げしていなければならないということです。「家族というユニットは、お互いの感情を大切にして行動しなければならない。」という命題を持ってください。あなたの言うことが論理的に正しくても、「それを言うことで家族が悲しむならば、言わないで済むなら言わない」ということも命題の一つの帰結です。自分がそこまでしなければならない義務はないとしても、「それをすることで家族が喜ぶのであればしてあげましょう。」ということも帰結の一つでしょう。

夫に原因はなくても「妻は実際に不安を感じている」ということがあるということを認めることが原因探しの第一歩です。そしてそれは妻にも「責任」がないことが多いのです。さあ、夫の「原因」に切り込んでいきましょう。

同居中、夫は、妻が不安がっているならば、不安を解消してあげたいと思うし、そうするべきでしょう。妻からすれば、とても不安ですから、不安を解消したいと思うわけです。そして、不安が強くなればなるほど、不安解消の要求も高まっていきます。そして自分ではどうしようもないと思うと、他人に自分の不安を解消してもらうことを期待するようになります。誰に期待するのでしょうか。それは、身近にいて、利害共通の人間ですから、夫に期待が向くことは当たり前のことだと思います。夫に対する自分の不安解消行動を期待してしまいます。「安心させてほしい。」という気持ちです。「そう言われたって医者じゃねえし。」という夫の気持ちもそれはそうなのですが、ここで妻が求めていることは不安解消という結果をどうやって実現するかではなく、自分が不安を感じていることを共感してもらいたい、できれば一緒に心配してもらいたいようです。うまく結果が出ないとしても、夫が自分のために安心するための行動をあれやこれや試してみるという姿勢を示してもらいたいようです。その共感に基づくいたわりの行動が妻の不安軽減の特効薬の可能性があるなということなのです。

実際は、DVがないのにDVがあったと思い込む「思い込みDV」の事案は、妻が夫を嫌悪する前、割と妻の相談事を夫が一緒に考えてあげるなど、妻が夫を信頼している事情があるケースが多いです。

そうはいっても「できないことをやれと言われてもできないのだからやらない。」という思考も合理的な人間の取ってしまいがちな行動です。そんな結論を求められているのではなく、一緒に何とかしようという行動を見せることを求めている、「妻は夫に期待している」と説明すればわかりやすくなりましょうか。外食に誘うとか、音楽を聴くとか、肩を並べて散歩に行くとか、ドライブするとか、買い物するとか、前に喜んでくれたことを提案するとか、そういうことで落ち着いてくるようです。ここでのコツは、妻は忘れているのですが、過去に妻が喜んでくれたことを夫が思い出して提案するということです。まじめすぎて責任感が強すぎて頑張ってしまう我らが夫は、「結論への方向が分からないからやらない。」という行動をとりがちです。私はここがポイントなのだろうと思っています。

まじめすぎる夫は、妻が不安を解消するために、あるいは解消したくて夫に無理難題を言うと、自分が責められているような気になってしまい、逆に妻を叱ってしまうということに心当たりはないでしょうか。

まじめすぎて、責任感が強すぎて、頑張ってしまいがちの人は、自分を守ることにも敏感になっている危険があるかもしれません。梵天丸(のちの伊達政宗)の師匠の虎哉和尚は、妻に寝首をかかれる場合はあきらめろと教えたそうですが、それは現代でも気持ちの上では通用するのかもしれません。(ただし、妻による夫への精神虐待事案の場合は別。)

このように不安の対処をしてほしい、自分が何をしても夫だけは許してくれる(限度はあるけれど)という安心感を提供してほしいという妻の期待があると考えるとわかりやすいと思います。期待は、現代日本の家庭事情から、夫に集中してしまいます。期待が嫌が上にも高まっているのに、夫は期待に応えてくれいないというより、悪意はないのですが戸惑ってしまっているからなのですが、答えようともしない。むしろ沈黙や無視、あるいは取り乱した自分(妻)を責めることによって、自分の不安を煽り立てている。こうなってしまうと、妻は「自分が不安を感じているのは、夫に原因がある。」と責任転嫁するような思考になじみやすくなってしまうようです。妻の不安が夫に向かう、責任は夫にはないかもしれないけれど原因はあると言えないでしょうか。

そうやって、そもそもは漠然とした不安からはじまり、夫の冷たい態度で不安が増大し、あれやこれやがみんな「夫の冷たい態度」に理解と記憶が変容していくわけです。そこで、その不安に対して、やみくもに妻に対して「あなたは悪くない。それは夫のDVだ。」と吹き込もうとする支援者の言葉にひとたまりもなくなるというのが、簡単に夫のDVがつくりあげられてしまう流れ、思い込みDVの正体なのではないかと考えました。

まじめすぎて、誠実すぎて、自分では妻の不安を解決できないと判断する夫の冷たさと比較して、「うんうん。不安だよね。苦しかったよね。」とマニュアルに沿って話す人は、自分を理解してくれる人間だと感じてしまいやすくなっているわけです。騙されやすくなっているということです。

そうすると、ありもしない夫のDVを主張しているということは(確信犯の場合は別ですが)、まだ、夫に対する妻の期待感が残っているということになるような気がします。こういうケースの場合は、アクシデントのように面会交流が行われることもありますし、面会交流が行われると、自分と夫と子どもと楽しく時間を過ごして、自分から面会時間の延長を申し出たりすることも多いのです。ただ、残念なことに別居親である夫は、何が起きたのか自分の頭の中で整合性が取れません。妻の気まぐれに感謝をすることができないようです。この時、大げさに感謝の言葉を述べて、「またね。」と笑顔で言えたならばと思うと、つくづく残念です。第三者だから見えてくることもあるのです。

それはそうと、期待が残っているならチャンスだと私は思うんですね。やっていないからDVを反省できなくても、DVを受けたような思いをさせたことを「思いやる言葉を発すること」はできるわけです。テクニックですから代理人の腕の見せ所です。そうやって、相手のツボを押さえて、自分に対する行動制限を自分で課して見せる。時間を守るとか乱暴なことを言わないとか、当たり前のことなのですが、当たり前のことを言葉にすることで相手が安心するということが多くあります。そして、少しでも相手が子どもにとってプラスのことを言ったり、考えたり、行動したりすれば、すかさず「感謝」と「称賛」の言葉を出します。これはそういう気持ちになれというのではなく、そういう評価を言葉などわかる形で提示するということです。

安心させるという行動を、相手が認識できる形で実行するということです。

面会交流が実施されれば、そういう相手を安心させる行動のチャンスの宝庫ですから、感謝や称賛をまめにやる。そうやって、面会交流は時間的にも内容的にも拡大していくようです。そういうことができれば、結構早い段階で調停条項を超えた宿泊面会なども実現できています。しかし、これができない人が多い。自分が妻から受けた「仕打ち」が強烈すぎることが理由の一つです。

現実は、ありもしないDVを言われたこと、子どもを連れされたことから脱却できません。これも無理のないことだと思うのです。些細な刺激があると、妻の不安を煽り立ててしまい、相手の思い込みの架空DVを後付けしてしまう言動をしてしまうようです。客観的に拡大していた交流が足踏みしたり、中断したりしてしまうこともあります。

別居親側からの視点で述べていましたが、裁判所、調停委員会でも、思い込みDVの可能性がある場合は、同居親である母親の不安を下げる方法を考えてほしいと思います。まずは、不安をできるだけ言語化すること。初めから思い込みだという結論を押し付けるのではなく、警戒するべき事情とそうでもない「気持ち」の事情とを仕分けをしてあげるということですね。そして、気持ちの原因についてはわからないという態度をとっていただきながらも、そういう気持ちであることについては積極的に承認してあげるということが大切だと思います。そこに別居親に情報を提供して、さらに安心させる工夫を考えてもらい実行する。家庭裁判所は安心できるところだ、別居親もそれほど具体的に警戒するべきことはないのだという安心感をみんなで作り上げていく。

こういうことができる裁判所になれば、みんなが幸せになると思います。
子どもは両親の愛を実感することができるし、親同士の葛藤が鎮まることも子どもの安心につながることです。
同居親は、それほど心配する必要がないということを実感できれば、つまり、その後悪いことが起きないということを学習できれば、穏やかに日々を暮らせるようになるかもしれない。
別居親も子どもからも同居親からも親として認めてもらい、何よりも子どもと会えるわけですから今よりはずっと幸せになると思います。

どうしてそれができないかをみんなで考える必要があるのではないでしょうか。

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