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父母と子の三角関係 思い込みDV連れ去り離婚の原因の一つ? 付録:エディプスコンプレックスに日本人がピンとこない理由 [家事]


思い込みDVからの子連れ別居離婚において、面会交流調停の中で試行面会が行われると(この意味については後述*1 )、これまでの私の経験では例外なく、子どもの父親との再会を喜ぶ姿が確認できます。それまでの調停期日において調停委員会は、父親はDVの暴君ではないかという疑いを持って父親に当たっているのですが、この試行面会の様子を見て見方が逆転します。調停委員のこちら側に見せる表情が格段に柔らかくなるのです。

すべてがすべてではありませんが(例外としては父親が子、特に第1子に厳格すぎる場合)、妻が子を連れて別居を行う事例では、同居中の父子関係は良好であることが多いです。もっと突っ込んで言えば。
むしろ、父と子はとても仲が良い
ということが多いです。子が男の子でも、女の子でもあまり変わりません。

調停や裁判に出てきた妻の主張を読み込むと
妻は、同居中、夫と子が仲の良いことに複雑な感情を抱いていた。
ということになるようです。

嫉妬という言葉とは少し違うようです。妻は、複雑な感情を持っていながら、この時点では子どもに対してはもちろん、夫に対しても愛情を持っているからです。どちらかに負の感情が生まれているのではなく、どうやら妻は、夫と子が仲よくしているのを見て、
自分だけが仲間外れになっている
というような危機感(疎外感や孤立感の予感)を抱いていたと考えるとわかりやすいような気がします。

これまでこのブログでくどいくらいお話ししていますが、妻が子の連れ去りをする前段階として、妻は夫とは関係がなく、不安を感じやすい状態になっています。産後うつ、精神症状を伴う内科疾患、婦人科疾患、不安障害やパニック障害、うつ病などの精神障害、職場のトラブル、薬の副作用などがその原因です。

だから、「子どもが父親になついて、自分が解放されて楽でよい。」と感じてもよさそうな場合でも、自分が孤立してしまうのではないかという不安を感じてしまいやすくなっているようです。これはかなり切実な不安になってしまいます。

加えて、日本人の場合、伝統的に父親も子煩悩だという民族的特殊性があります。大伴家持までさかのぼらなくても、江戸幕府末期から明治維新初期に来日した外国人がこのことを指摘しています。大森貝塚を発見したウイリアム・S・モースの「日本その日その日」(講談社学術文庫)では、日本は子どもの天国だと表現していて、父親が子どもをかわいがる様子、子どもが喜ぶ様子が生き生きと描かれています。また、親子が川の字で寝るのも、アジアだけの風習のようで、例えば西洋では、子どもが幼児の段階でも子ども部屋で一人で寝かせられていることが当たり前のようです。日本の父親は子煩悩であるということが一つのポイントになると思われます。

明治初期のように、庶民の暮らしが大家族で営まれており、兄弟もたくさんいるようであれば、妻からしても夫が誰とどのように仲良くしようとあまり気にしなかったことと思います。あまりに一人の子どもをひいきしてしまうと、妻が言うまでもなく、いろいろな人間が批判したのだと思います。
ところが、現代では、住宅事情もあり、夫婦と子どもだけでの生活が営まれており、子どもの人数も多くないようです。わかりやすく、親子3人の生活の場合を念頭に置くことにします。
3人の家族という人間の群れがあると考えてみて下さい。自分以外の2人が仲良くしているというだけで、残された一人は孤立感や疎外感を抱きやすくなるのが人間の性質なのかもしれません。自分だけが楽しそうな空間の登場人物ではないと意識してしまうと、自分は群れから仲間として必要だとされていない存在かもしれないとつい考えてしまうということがあるように思われます。

その孤立感を深める事情もあります。それが先ほど述べた年齢や出産、女性という性に伴う体調の変化です。
さらには、男性と女性ではわが子に対して、出産の有無に伴う不可避的な傾向の違いがあるのではないでしょうか。

父親の子に接する態度と母親の子に接する態度は大きく異なることが多いようです。母親は、妊娠期間中、ずっと子どもが自分の体内にいて、自分と有機的に一体のつながりがあったわけです。それが月満ちて子どもが体外に出たからといっても、どうしても子どもが自分の体の延長線上のように感じることがあるのは考えてみれば仕方がないことのような気がしています。頭では、子どもも独立した人格があるということは理解していても、どうしても自分と子どもとを一体に感じているところがあるようです。子どもが何かを失敗すると、父親はかわいそうにとしか思いませんが、母親は自分が失敗して損をしたような感覚になっているような反応を見せることが見受けられます。子どもがかわいそうという気持ちももちろんあるのでしょうけれど、まさに自分のこととして悔しいという感情が生まれるようです。

これに対して父親は、基本的には子どもが生まれてきてから親になり始めるし、子どもからなつかれてはじめて親になると言われています。どうしても生理的一体感は父親の担当ではなさそうです。子どもが生まれたときには、既に子どもは自分の外の存在だということを受け入れているわけです。

この結果は、子どもとの接し方の違いとして現れます。

父親は自分とは違う存在として子どもを見て、子どもの行動についても、興味深く見ることができ、楽しむことができます。子どもがしたいことを手伝うような接し方をすることが多いです。そうするとある年齢に達した子どもからすれば、大げさに言うと、父親は自分の意思決定を肯定してくれる存在ということで、父親と遊ぶ時も緊張感を持たないで、リラックスして楽しい時間を過ごすようになります。

母親はこういう放任というか、無責任な接し方はできません。「子どもは自分の体の一部」という感覚がありますから、子どもがどう行動するかということは、自分がどう行動するかということとほぼ同じです。子どもにかわって、子どもの行動や考え方までも自分が決定しようとしてしまうわけです。言葉を悪くすれば子どもを支配したいような行動をするわけです。但し、この母親のかかわり方は、乳幼児期には子どもの成長と安全にとって必要な行動様式です。いつ、このかかわり方を後退させて子どもの独自性をはぐくんでいく方向に転換するかということはとても難しいことだと思います。父親と母親がけんかをしながら決めていくしかないと思います。父親と母親が意見を衝突させて、その間で子育てをすることは、どちらかに偏ることが避けられるという意味では子どもにとっても都合の良い意思決定システムだと思います。

そういう母子の一体感が、子どもの年齢とともに不具合が目立つようになるころに、父親と子どものフランクな関係というか、父親の無責任というか、おおざっぱな接し方は、もしかしたら母親からすればとてもうらやましいことなのかもしれません。子どもは、自立を志向し始め、母親の言う通りには行動をしようとしなくなります。子どもからすると、あれやこれや細かいところまで口を出してくる母親は緊張の対象になってしまうことがあります。そうするとなおさら、自分に対しては見せない子どもの、リラックスして楽しそうにしている様子は、父親と子どもが相性が良いからなのではないかという勘違いを生むなど、母親の不安を掻き立てることになるのかもしれません。

そして、母親はそういった不安を自分の心の中で合理化しようとしてしまいますし、よりネガティブな考えに陥っていく危険があります。流れをシミュレーションしてみると、
子どもは
・ 夫の腕力が強いから子どもは逆らえないために夫の言うことを聞く
・ 夫は娯楽ばかりで楽しいことしかしない。自分は教育やしつけなど子どもにとって面白くないこともしなくてはならない。
・ 夫は妻の至らないことについて子どもに告げ口をして自分から子どもを引き離そうとしている。
・ 夫は外で働いていて経済力があるから子どものわがままを許すが、家計を預かる自分は子どものやりたい放題をするわけにはいかない立場である。
・ 自分は子どもを産む機会、子どもの世話をする奴隷として見られていて、仲間であるとは評価されていないではないか。
等々ですね。

ここで考えなければいけないのは、このような母親の考え方は、母親の人格や性格の問題ではないということです。要領の良い母親は、良好な父子関係をラッキーととらえ、自らの仕事を軽減させて自分の自由を獲得するわけです。まじめで、夫と子どもを大切に考えている母親だけが、不安を感じやすくなっていることと合わせて、孤立の不安を感じてしまうわけです。そして大きな個人差はあるにしても、多かれ少なかれこのような孤独を妻が感じやすいということを夫などはよく知っておく必要があります。

事件から気が付いたことを上げます。
1 できる限り、親子3人の関係の時間を作ることに努める。2対1の関係を極力避けるようにする。少し声を大きくして、妻も参加している外観を作る。内緒話は絶対しない。
2 妻の体調や子どもとの志向と合わないため、父子の関係での行動がなされることは多い。こういう場合でも適宜報告を行い、欠席者の妻の追体験ができるようにしておく。写真をラインで送るとか。
3 夫婦間では情報を極力共有する。
4 子どもに対しては、ふざけていても妻に対する否定評価を告げない。フォローする。子どもは母親から叱られたりダメ出しをされたりすることで、「自分は母親から嫌われているのではないか。」という不安を抱きやすいので、そうではなく、母親が子どもを大切に考えているため、そういう風に子どもが思うようなこともするのだという説明を妻の立場に立って告げる。
5 子どもからなつかれると、無意識に優越感を抱く父親は多い。「産まなくても、授乳をしなくても子どもは自分になつく、自分に対する評価は子どもがしてくれた。」という変なコンプレックスに起因する感情を感じてはいけない。
6 まとめると、子育ては父母というチームで行うもので、自分はそのパーツであるということを常に自覚し続ける。
こういうことでしょうか。

最近私は、人間の仲間は、相互に、仲間を安心させる行動をするべきだという考えを持つようになっています。夫婦問題を論じる人たちは、あれをやってはならない、これをやってはならないということを説明しますが、どちらかというとどうやって相手を安心させるかということを考えるほうが、実践しやすいし、的を射ているような気がしています。放っておけば人間(霊長類)は不安になる動物のようです。この不安の手立てに、特に現代社会は無防備になっているような気がしています。

付録:エディプスコンプレックスが日本人にはピンとこない理由。

外国人の家庭がどうなっているかということについては、フルハウスなどのアメリカのファミリードラマや映画、小説などでしか情報がないのですが、ほとんど赤ん坊と言ってもよいような幼児が一人の部屋で寝かせられていることに驚きます。日本ではというか、私にはあまり考えられない待遇です。
家族の中で、このように子どもが孤立している時間を過ごすとすると、本編では母親が味わったのではないかと推測している孤立感を、西洋では子どもが感じているのではないか思ったのです。西洋では父親は日本ほど子どもにかかわろうとしないとすると、子どもの親に甘えていた記憶というのは、乳児のころの母親との愛着形成だけだということになるのではないでしょうか。子どもが甘えるということ自体が、安心したいということなのだと思うのですが、そうすると親離れするときに甘えたい対象は、自分の生活全般の面倒を見てくれた母親しかありません。母親から自分を引き離した対象は父親ですから、自分の安心要求を妨げるのは父親だということになるでしょう。性的な話ということではなく、このような安心を妨げる存在として父親が意識されてしまうということはありうることだと思うのです。前述のように日本では、寝るときも親子が川の字で眠りますので、いつでも子どもは母親に甘えられますし、父親も自分にかかわってきますから、父親が安心感を妨げる存在には西洋と比べると格段となりにくい事情があるように思われるのです。女児の場合のエレクトラコンプレックス、つまり母親に対する敵対的な感情は、子どもから見ると自分を支配しようとする母親に対する複雑な感情が、自分を支配しようという行動傾向のない父親に対する感情が複合して生まれたものとは説明できないのでしょうか。理論がどうこうというより、ピンとこないというレベルの話なので、ご寛容のほどを。


*1 思い込みDVからの子連れ別居離婚とは
ある日夫が家に帰ると、妻と子が家におらず、身の回りのものなどがなくなっていて、行き先もわからず、警察に届けても安全に暮らしていると言われ、キツネにつままれているうちに、家庭裁判所から連絡が来て、離婚調停が始まる。身に覚えのないDVが主張されている。子どもにも会えないまま、生活費の支払い義務と離婚が決定される。

子どもの同居親である母親(父親の場合もある)は、別居親である父親の子どもと会わせろというつつましやかな要求に対しても、頑として拒否をする。その理由として、「同居中、父親は子どもを虐待していたから、子どもが怖がって会いたくないと言っている。」という主張がよく見られる。様々な証拠を提出して、同居中の父子関係が良好であることを示す。何よりも父親は父子関係に自信を持っている。それで、裁判所で試行面会が小一時間開催されることになる。


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