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子どもが安心できる居場所としての「親」とは何か。子どもが両親に安心できない事情。子を連れての別居事例から学んだこと。 [家事]



1 子どもの親の悪口を言うこと

離婚事件を多く担当するようになってつくづく思うのが、子どもがなおざりになっているということです。

昨今言われていることは、離婚が子どもに与える影響よりも、夫婦が争っている状態が子どもに悪い影響を及ぼすということです。二つにはとても大切な違いがあります。離婚をしなくても、深刻な争いがあれば子どもが不安定になりますし、離婚をした後でも、親同士が憎しみ続ければやはり子どもが不安定になるということなのです。

母親が子どもを連れて別居したけれど、子どもが独力で父親の家に帰ってきたという事例を何件か見ています。特徴的なことは、
・ 母親のもとにいるときに、母親や母親の両親や兄弟が子どもの父親に対して憎しみの感情をその子どもの前であらわにしている場合、
・ そして連れられて行った兄弟間で差別される場合
の二つの事情が、子どもが独力で父親の元に戻る多くの場合の、原因、きっかけになっています。

子どもからすれば、父親も母親も区別がつかないくらい好きですから、自分の親の悪口を言われることはとても嫌なことだとわかります。悪口を言うのが実の親だとしても、自分の親の悪口を言われることはその場にいることが耐えられないくらい嫌なことなのです。

子どもは、今は別れて暮らしているけれど、「また親子みんなで生活したい」とどうしても思ってしまうようです。それもあって、相手の悪口を言う親を見ると、その望みがかなわないことだという現実を見せられることに苦痛で仕方がないためその場所から出ていくのでしょう。悪口を言わない方の親といることが安心できるということなのでしょう。悪口を言う親は子どもの居場所になりにくく、悪くいを言わない親は子どもの居場所になりやすいということを表していると思います。

子どもが戻ってきてもしばらくは、父親は、子どもが自分に味方をして、つまり子どもが父親と母親を比較して父親を選択したから戻ってきたわけではないということをわきまえています。子どもを迎え入れた父親は母親の悪口を言いません。酸いも甘いもかみしめている父親の周囲の大人たちも気が付いており、子どもが母親のことを低評価しようとするときには、「そんなことを言わなくてよいんだよ。お母さんのことを好きで当たり前だよ。」とたしなめています。

しかし、裁判所が不可解な調査のもとで子どもを母親に引き渡すように命じるころになると、話がおかしくなってくることがあります。理由はともかく子どもが父親と生活がしたくて生活をしていたのに、裁判所が勝手にさしたる理由もなく母親に子どもを引き渡せと命じた理不尽に憤るようになっていきます。この怒りにはさすがに周囲も同調してしまいます。子どももどうして他人である裁判所がまた家族全員で暮らすという自分の切実な願いを踏みにじるのかという思いがありますから、裁判所の命令が出ても守ろうという気持ちは弱く、母親のもとに引き渡されたのちも、子どもは頻繁に父親のもとに来るようになってしまいます。

裁判所の理不尽な決定に対する怒りは、その後の離婚や財産分与にも悪い影響を与えてしまい収拾がつかなくしてしまいます。双方の感情的対立は相乗効果で激しくなっていきます。負のスパイラルは続き、当事者の親兄弟まで参加して、裁判外でも紛争がエスカレートし、警察官の出動要請という事態にも発展する場合もたびたびあります。こうなってしまうと、当事者も精神的に不安定になってしまい、結果的に、父親も母親に対しての負の感情が激しくなっていきます。そんな中、ある事例では父親も無自覚に子どもの前で、母親に対するいら立ちの感情を口に出してしまっていたようです。

どうしてそんなことを言ったかはわかりません。父親が自発的に言ったのか、母親が子どもに言い聞かせたことを子どもの口から聞いて思わず反論したのかそこまではわかりません。結果として、子どもは、信頼をしていたもう一人の親が他方の親を悪く言う声を聴いてしまいました。子どもはその後問題行動を起こしてしまいました。子どもが精神的に不安定になり、投げやりになり、人間に対してぞんざいな対応をしてしまったという流れなのでしょう。精神的に不安定になったのは、母親のもとでいたたまれなくなったときに逃げてきた父親という安心できる居場所がなくなったからかもしれません。子どもには安心できる自分の居場所がどこにもなくなってしまったと感じたのでしょうか。その後子どもは、父親の元に戻らなくなってしまいました。

元々は子どもが住んでいる場所から、親の都合で転居させられてしまうことに子どもが居場所を求めたくなる気持ちになる一つの原因があるということは言えるでしょう。
連れ去られていった子どもが自分の居場所として元の家に戻りたいというサインを出すことは本当に多いです。理由は様々です。
元居た地域に友達が大勢いるということも人間にとっては重要な理由です。連れ去りは、そのような子どもの大切な関係も一切奪ってしまいます。
お父さんと離れて暮らしたくないということもそれは多いです。母親が嫌いなわけでもないけれど、父親との別離がたまらなく寂しいということは当たり前でしょう。子どもは父親と母親とどちらを選ぶかという選択を迫られるべきではありません。
多くの子どもの願いである、また家族で暮らしたいという理由ももちろんあると思います。
今いる場所がいろいろな意味でなじめないということもよくある理由のようです。

子どもが誰よりも親を慕う感情、親に居場所を求める感情は、未熟な形で生まれてくる人間が生き延びるために不可欠な本能です。これを否定することがいかに恐ろしいことかを考えるべきです。子どもをかわいがるのであれば、子どもの前で子どもの親を否定してはなりません。昭和の時代の教養のある人たちは誰に教わることもなくみな実践してきたことです。

しかし、親の片方を支援する人たちは、事情も知らないくせに、子どもの前であることを一切気にせずに、もう一人の親の悪口を言います。教養のない人だというだけでなく、物を言わない子どもの利益をこれっぽっちも考えない人なのです。そういう人間に自分や子どもの未来を託してはなりません。やがて子どもはあなたから離れていくことになるからです。

だからと言って私は父親を責めたいわけではありません。もともと子供の居場所になっていなかった母親が悪いというつもりもありません。子どもを第一に自分の感情を制御するということはそれほど簡単ではないということだけは間違いのないことだということは理解できます。そして、タイミングとして理性的な行動ができなくなる事情が必ずあり、それはその人だけの責任ではないと感じているのです。

対立はどんな人も変えてしまうようです。初めは理性的な対応をしていた人も、争いの中にいることで、自分を守ろうとしてしまうのは無理のないことです。自分で自覚していないうちに、立ち居振る舞いや言動、考え方が荒っぽくなっていくようです。自分を守ることに精一杯になると他人に対する配慮ができなくなっていくようです。その負の結果は、常に子どもに向かいます。子どもに深刻な影響を与えてしまいます。

2 憎しみの感情を見せること

自分でも思い当たることなのですが、夫婦のもう一人に対する攻撃ではなくても、子どもにとって何か自分に関連していると感じてしまうようなことで、親の一人が他の誰かに対して憎しみの感情を高ぶらせて自分を制御できない様子を見るということが、子どもにとってその親のところは、自分の居場所として安心できる場所だとは思えなくなるのかもしれません。ネガティブな感情があらわにされていれば、もう一人の親に対する憎しみが表出していない場合でも子どもは安心できなくなるということです。

それでも感情を高ぶらせざるをえない事情はあります。会社のこと、社会のこと、地域のこと、現代社会は怒りの感情の種が、あちらこちらであるようです。連れ去り別居に伴う相手方以外に対する怒り、憎しみの感情はその最たるもののようです。
子どもを連れ去られた親は、孤立していきます。裁判所からも警察署からも、相手方の代理人弁護士からも、場合によっては職場からもDVをふるう人間だとして、みんなが自分に敵対しているように思える扱いを受けます。社会の中で自分だけが孤立しているように感じやすくなっています。そういう状況では、鬱になるか、負けないで戦うかということしか選択肢としては無いようです。

多くの子どもと別離を強いられている人たちが、裁判所や相手方の弁護士や行政などに対して怒りを持っています。その気持ちは無理がないと思います。そういう風に気持ちを張り詰めていかないと、くじけてしまうだろうことも理解できます。実際連れ去られて残された父親の自死の連絡は毎年のように届きます。別居された夫が自死することは暴力サイクルという理論を作ったレノア・ベーカーも「バタードウーマン」という著書の中で述べています。

しかし、子どもの前で「正当な」怒りを表すことで、子どもが不安になり、落ち着かない状態になるということもまたどうしようもない真実です。特にSNSでの発信は、要注意です。最近の気の利いた子どもは年齢によっては父親のSNSを探し出して閲覧していることが多いです。そこで、だれかれ構わず喧嘩を売っているような親の記事を子どもが見たら、子どもは父親が自分の安心できる居場所だとは思わなくなるでしょう。父親のもとに近寄ろうとはしなくなると思います。

純粋に怒っている親が怖いということもありますが、自分が親と同居していないことに自責の念を持っている子どもは驚くほど多いようです。怒っている親を見ていると、自分が責められているような気になるようです。とても安心できる存在ではなくなってしまうのです。

3 家族分離を避けるために

以上から家族分離の予防のためには、あるいは子どもの健全な成長のためには、
・決して家族の悪口を言わないこと、
・家族に怒りを見せないこと
ということになることは疑いようがありません。家庭が、家族にとって安心できる居場所にならなくてはなりません。それを作るのは大人である親の責任です。一方の親に精神的な不調があるためにそれができない場合は、もう一方の親が一人ででも家族一人一人が安心できる場所にするように努力をするべきです。子どもはそれを見ています。

一番陥りやすい状況は、自分が配偶者から理不尽な扱いを受けたときです。これはもう、自分を守ろうとするのは当たり前ですから、相手に対して怒りたくなるでしょうし、評価を覆そうとムキになることも当然です。しかし、子どものことを思えば、自分の感情を優先しようとせずに、子どものために、感情を制御することこそが必要なのだと思います。子どもの利益を考えずに連れ去りをすることは悪いことでしょうけれど、もしかしたら連れ去られた方も自分を守るために子どもの心に対して同じようなことをしているのかもしれないのです。それによって生じる子どもの不利益は不相応に過大なものになる危険性もあります。どうやら、「子どものために自分の感情を制御する」ということが、現代では力こぶを入れるべきポイントのようです。

連れ去られた後でこんなことを言われてもどうしようもないと感じる方も多いと思います。もっと早く発信できるように気が付けばよかったと申し訳なく思います。

しかし、第三者から見ると、「そうでもないのではないか。遅いということはないのではないか。」というケースが実は多くあります。大変無責任な話で申し訳ないのですが、これから行う努力の結果、別離をした家族を安心させる工夫、努力をするということはできるのではないか、何らかの結果が生まれることがあるのではないかと本当にそう思っています。ご本人にとって形としてうまくいかなくても、子どもにとっては何らかの良い事情が生まれることは大いにありうると思うのです。少なくとも、家族をさらに分解する方向の行為をやめることは、今の状態以上の悪化、特に子どもとの関係を悪化させることを防ぐだけではなく、ご本人にとっても大変有意義なことではないかと思っています。


多くの方に対しては、ここでとどめておいても、私の良心は痛まないです。多くの人に有効な警鐘を鳴らせたと思っています。しかし、現実として、あまりにもひどい仕打ちを受けている人はいます。その人の話を信じる限り、裁判手続きが犯罪的に見えてくるような体験をされ続けているとしか言いようのない被害者がいます。この人に対して、子どものために感情表現を抑えろということは言えるのか、かなり悩ましく答えが出ません。「親は子どものために生きるべきだ」ということが仮に言えたとしても、その人に感情的な言動をするなということは果たして言うことができるのか、答えが出ないケースもあるということはお断りしなくてはならないと思います。

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