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【妻の離婚理由がわからない場合のヒント】特に大きな出来事がないのに生じる妻の夫への恐怖感と嫌悪感の「理由」についてのまとめ。「一度嫌になったらもう気持ちは戻らない」とはこういうこと [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 今回の記事はこんなことを言います。
前回の記事と取り扱う対象は同じです。離婚理由が曖昧でも離婚意思が固い場合の妻のその気持ちの理解についてです。今回は裁判所や行政機関、あるいは弁護士の「ある思考パターン」が事実を理解しにくい構造を持っているということを問題提起し、十分な理解を行うためにどうしたらよいかということから説明します。

2 夫婦問題やメンタル問題と原因の関係についての発想の落とし穴
前回の記事で述べたのですが、妻が離婚したいけれど離婚理由が曖昧だというケースで離婚事件がこじれる原因は、代理人が妻の心情を正しく理解していないこと、正しく伝えることをしないこと、裁判所が有利に見てくれそうな事情を主張してしまうこと、それらのことのために事実を針小棒大に主張したり、虚偽の事実が真実であるかのような主張をしてしまったりするためだと言いました。

裁判所や行政が、その人の心理の変化、特に対人関係によってメンタルの不調が生じる流れについて、十分に理解できないことには「ある理由」があります。ちなみに、このようなメンタル不調という損害が生じる事案は、離婚事案だけでなく、いじめ事案、パワハラ事案も代表例です。それぞれの事案に裁判所も、弁護士も、行政も、かかわるのですが、多くの場合同じ理由で十分な理解ができていないと常々感じています。

結論から言いますと、その「理由」とは
メンタルのダメージを受けるだろうエピソードやライフイベントというスポット的な出来事を探し出して、そのスポット的な出来事の強度とメンタルダメージの程度が相関関係にあるという発想をしているからです。

この思考パターンでは、スポット的な出来事の程度が強い出来事ならばメンタル不調が出現して大きくなる。その反対にスポット的な出来事が弱い出来事ならば、メンタル不調は小さくなるはずだからそれでもメンタル不調があるとすれば別の要因があるはずだ。という思考ルーティンになってしまうことです。

では、私はどのように考えているかという結論部分をお話ししましょう。
メンタル的なダメージは、その人が自覚的あるいは無自覚に、自分の大切な人間関係だと位置づけている人間関係において、「自分が尊重されていないと感じる『状態が継続』する」ために生じる。
というものです。

スポット的な出来事は、その継続する人間関係の状態を示す要素になるに過ぎない
という位置づけをしています。

3 私がメンタル事案で心掛けている行間の説明
だから、裁判でも行政認定でも、スポット的な事実を証明するだけでなく、私は行間から推測できるその人の置かれた人間関係の状態、そしてそれを反映した心理状態を説明することを心掛けています。これまでの自分が担当した裁判例、行政認定例をみても、これがとても有効だと確信しています。認定基準に示された「出来事(サンプル)」だけでは、なんともメンタル不調になる実感が持てなくても、あるいは事実が本当にそのサンプルの示すケースに該当するのか確信が持てない場合でも、行間の状態を説明することによって説得力がでてきます。行間の説明をすることによってスポット的な出来事の精神に与える強度も表現できる関係にあるようです。(ただそうだとしても、特に行政認定はマニュアルですから、スポット的出来事の該当性について主張立証をしないということは、致命的な誤りにはなります。スポット的出来事に引き付けて主張立証することは必須です。)

4 メンタル不調の原因となる「仲間」とはどういう人間関係か

ここでいう、「その人が大事に思っている(無自覚の場合も多い)人間関係」とはどんなものでしょうか。これは、人によって程度は違うということも真実だと思います。通りすがりの人との関係も大切に感じる人もいれば、毎日顔を合わせる人との人間関係もそれほど大切に思わない人もいるでしょう。しかし、概ねないし多かれ少なかれ、人間に共通する要素があると思います。

1)相手が人間だと思うと期待してしまうことがある。
人間の心が生まれたのは約200万年前だというのが認知心理学のコンセンサスです。この時代、ほとんどヒトが出会うヒトは、自分の仲間しかいなかったはずです。ヒトだけど仲間ではないヒト、自分に危害を加えるヒトはいなかったと思われます。このため、現代でもうっかりと人間であれば仲間だと思ってしまうことがあります。つい、自分に対する親切なふるまいを期待してしまうとか、相手を助けようとしてしまうことがあります。特に自分の置かれたその時の状態によっては、見ず知らずの人間に期待をしてしまい、期待が裏切られると自分が仲間から尊重されていないと思ってしまうことがあります。
例えば、お店の店員さんや、路上での通りすがりの人であっても、その人が他人に対して期待をせざるを得ない状態に陥っていたら、過剰な期待をしてしまうことがあります。期待に応えない場合は傷ついたり、怒りをもって反撃したりということが起きるのはこういう仕組みです。

2)単純接触効果
ただ、平常の精神状態だとしても、「物理的に自分の近くにいる人間、及び、反復継続して顔を合わせる人間」は放っておいても仲間だと思ってしまいます。これは心理学でいう「単純接触効果」というものです。人間は進化の過程で嗅覚が衰えてしまいましたから、200万年前であったとしても匂いで仲間かどうかを判断することが難しくなっていました。このため嗅覚でしか判断できない血縁などよりも、このような物理的な事情の方で仲間だと判断してしまうようです。その方が、群れを作りやすく、近親相姦を避けて強い群れができやすかったのではないでしょうか。

3)仲間として必須のもう一つの要件は一緒にいて安心できること
但し、いつも近くにいて嫌味ばかり言っている人に対しては単純接触効果による仲間意識は表れにくいということになることは当然です。「自分が尊重されている」、「少なくとも攻撃されることはない」という安心感があると、より仲間という意識が強くなり、その人が近くにいるだけで安心できるようになるようです。反対側から言うと、いつも近くにいて、顔を合わせている人間に対しては、自分を攻撃しないでほしい、安心させてほしいという要求が生まれているようです。

5 群れの中にいて安心することが切実な人間の要求であること

1)群れを維持するためには不安の解消が必要であること
そうだとすると
安心させてほしい相手から安心させてもらえないと、それ自体がストレスになるわけです。つまり人間は、そばにいて顔を合わせている人に、自分を安心させてほしいという要求を生まれながらに抱くようです。これは群れを作る霊長類一般にそのようであり、人間以外の霊長類は「毛づくろい」をしてお互いを安心させているとのことです。

2)不安の解消の生理学的効果
人間は、昼間に生じたストレスを癒すために、つまり安心する必要があるために、群れに戻っていたとも言えると考えています。

つまり、昼間は獲物を探すこと、獲物を倒すために戦うこと、その間肉食動物から襲われないように警戒すること、など緊張して交感神経が活発な状態で活動します。交感神経が活性化して血圧や血液の移動する量、心拍数等をはじめとする体内変化が生じます。これが「ストレス」という言葉の意味です。もし緊張が解かれないでそのまま交感神経が活性し続ければ、血管が破綻しやすくなり、破れたり詰まったりしやすくなるほか、免疫機能が低下するなど、早死にする原因になります。

ところがそうはなりにくいようにちゃんとできています。人間の体は良くしたもので、夜間は緊張を解いて体も心も休んで、副交感神経を活性化させるしくみになっています。副交感神経が活性化されることよって、昼間のストレスで傷ついた体のメンテナンスがよりよく行われるようです。

仲間の中に帰ることによって安心することは、この副交感神経を優位にするためにとても効果的だということになります。昼間と違って夜は、自分の仲間だけであり、何かあったらみんなで対処してくれるし、群れにいる限り自分は攻撃されないし、食べ物もある。こうして一人で森をさまよっているよりも格段に安心できる状態になるわけです。
群れの機能はエサを探すこと、肉食獣から身を守ることだけではなく、交感神経と副交感神経の交代をスムーズにより効果的に行うこと、特に群れの安心感によって副交感神経を有効に高めることによって、人間が長生きできるようにするという大切な機能もあるのです。出産時から成体になるまで異様に時間がかかる人類は、この成体が長生きすることは種を保存するためになくてはならないことだった思います。
いろいろなヒトが実際はいたと思います。しかし、群れに戻って安心できるという人間だけが群れを形成して長生きをして子孫を育てることができたのだと思います。即ち、そうやって、群れに戻る、群れで安心したいという要求が本能として遺伝子に刻み込まれたのだと思います。
そのことを別の側面から表現すると、群れから離れることを極度に恐れ、群れにとどまろうとすることによって群れを維持することができたのだろうと考えています。これは、概ね人間に共通の「心の形」だと思います。

6 群れの仲間から攻撃されることの心理的効果

安心できる群れの中にいたいという本能があるために、群れの仲間からの攻撃は、それだけでとてつもないストレスになるのだと思います。このストレスは二種類のものがあります。
近くに自分を攻撃する存在があれば、常に警戒をしなければならない。安心できないストレスが持続してしまうという即自的なストレスがあるでしょう。
もう一つのストレスの形は、群れの中で自分が攻撃されるということは、自分はいつまでもこの群れにいられなくなるのではないか、群れから出ていかなければならなくなるのではないか、群れを持たないで生きていかなければならないのではないかという予期不安というストレスです。

安心したいのに攻撃されるというカウンター攻撃は現在と将来に対する不安を掻き立ててしまい、群れで安心したい、群れの中で生活したいという本能を傷つけてしまいます。生理作用に直接悪影響を与えるストレスと、群れにいたいという本能を傷つけるストレスの二つのストレスが生じます。このストレスは、事態が改善しないことによって、ますます高じていき、誰か助けてくれという要求や期待が高くなり、それがかなわないことで、さらに傷ついていくわけです。

7現代人にとって大切な群れである家族
効果的に副交感神経を発揮させるためには、副交感神経が優位になる夜間の時間を共に過ごす群れが人間にとって最も大切だということになると思います。現代社会で一番ふさわしいのはもちろん家族であり、夫婦です。人間にとって家族の果たすべき機能こそ、「安心」感を与え合うということになるわけです。

8 典型例に見る妻が夫を安心できなくなる流れ

ところが妻にとって、夫の存在が安心できない存在であれば、妻のストレスは軽減されず、蓄積されていってしまうということになるでしょう。その状態が継続してしまうと、夫が仲間だという感覚が無くなっています。夫が近くにいることで苦しくてたまらなくなると思います。

どういう事情が安心できない事情かということを典型例を組み合わせた架空事例を考えてみましょう。

<暴力事例>

一口に暴力といっても、その後の流れはさまざまです。たとえば
・ 妻が八つ当たり気味に夫に対していってはいけないことをかなり言いすぎてしまったという事情があり、
・ 妻にとって夫の怒りの流れがよくわかる場合(実際の事例では、妻に夫の行為の原因となる自分の行為の記憶がなく《ヒステリー状態》、自分が暴力を受けたという記憶からしかない《我に返ったから記憶が再開》ケースが多数あります)で、
・ かつ夫の反撃も妻の身体生命に打撃を与えようとしたのではなくもっぱら妻の行動を制止しようとしたような形態で行われた場合は、
・ その後の夫の態度次第ですけれど、
妻もあまり引きずらない場合があるようです。妻の方は、何に気を付けて、どこまでなら安心なのかという基準がわかれば、今後自分の行動に気を付ければ、夫の暴力がないと予測を立て、安心することができます。

これに対して、意見の食い違いや、夫が要求したことをなかなか実現できない場合等に多いのですが、妻が夫の暴力を「予想もしなかった無防備な状態」のところに「突然」暴行を受けたという場合は、特にそれが身体的に大きなダメージを受けた場合(頭部にあざができたなど)ほど、被害者の妻自身が自覚をしなくても、夫に対する警戒感が解けにくくなる場合があります。妻自身が暴力を受けたことさえも忘れていても、妻は無意識の中で夫が予測不能に自分に危害を与える存在だという評価をしてしまっているようです。危険の因果関係が理解できない場合は、自分で危険回避の方法を腹に落とすことができません。むやみやたらに警戒してしまうようになってしまいます。この心の流れが自分自身でも自覚できないことから、妻はその後、夫の言動に対して無意識に逆らわないようにしてしまうようになっていきました。夫の存在は、自分に対して危険を与える存在だと意識に上る以前の認知の段階で評価が定まっていくようです。うっかりした自分の夫に対する行動が夫の自分への暴力のきっかけになるのではないかという恐怖と、夫からの自分への働きかけがあるとそれが不意に暴力に変化するのではないかという恐怖となるわけです。どうすれば夫が自分に暴力を振るわないようになるかわかりませんから、ありとあらゆる刺激をしないように、逆らわないように、常に神経をとがらせて心休まらない状態になってしまいます。

こうして、一緒にいることが苦しい、不自由な感じがする、どうしてなのかわからないけれど怖い、そういうことが蓄積していくようです。

但し、その後、そういう暴力が二度とないだけでなく、仲間として尊重されている実感を持てる出来事があるならば、徐々に警戒感を解くことができるようになることもあるようです。新たに安心感を獲得していくという作業が頭の中で行われるようです。無意識に頭の中で、この人は仲間なのかしら敵なのかしらということで、敵という要素もあったけれど仲間という要素もあるなというシーソーが揺れている状態ということなのでしょう。そして、人間に限らず動物は、無駄な警戒感を維持することができないようになっているようで、安心できるという体験が続いて心配しなくてよいという学習していくと警戒感を解いてしまうようです(馴化 じゅんか)。

しかし、暴力後、新たな暴力が無くても安心できるエピソードが無いということになると、この馴化がスムーズに起きないため、夫に対して警戒感が解けず、仲間であるという評価ができなくなることがあるようです。この場合、妻の限界は自分でも自覚できないまま突然やってきます。些細なきっかけで妻は離婚を決意します。

この事例での調停や訴訟などでのダメな法律論争は以下の通りです。
妻:離婚理由は夫の7年前の暴力にある。その後最近、ギャンブルをしていたことが発覚した、もう復縁は考えられない。離婚の意思は固い。
夫:15年の結婚生活の中で暴力は一度きりである。その後も夫婦は穏やかに共同生活をし続けた。あの時の暴力が今更離婚原因だなんて後付けの理屈だ。ギャンブルと言っても小遣いの範囲で投資をしただけであり、違法なことは何一つしていない。誰にも迷惑をかけていない。

もっとダメダメなケース
妻:(暴力を忘れているし、代理人も聞き出さない)離婚の理由は、自分に内緒でギャンブルをしていてことである。子どもに必要な費用も出さないで、勝手に財産を浪費していることが発覚し、子どものお年玉にも手を出していて、信頼関係が持てない。
夫:ギャンブルと言っても違法性はなく、小遣いの範囲で行っているだけだ。家のお金に手を出したこともなければ子どものお年玉を使ったこともない。手を出す必要もない。内緒とは事実に反する。投資で利益が出たときに家族で焼き肉を食べに行っている。その時は妻も投資がうまくいったことに喜んでいた。

これと似た事案で、1審妻が敗訴したのですが、控訴審から私が代理人について、丹念に過去の暴力からの妻の心情を解き明かして控訴審で和解が成立しました。

<中絶を行ったこと>

妻:経済的な理由から子どもを産むことを反対され、中絶を余儀なくされた。それにもかかわらず、夫は高価な趣味の用具を内緒で買ったり、夫の両親に買い与えてもらったりしていた。そういう事態が長年続いたため、離婚の意思は固い。
夫:中絶は二人で決めたことで、私が強制したわけではない。妻も納得していたはずだ。趣味の用具と言っても必要なものだ。両親が私に買ったことと離婚は関係がない。

なかなか難しい問題ですが、結構多く離婚のケースで離婚理由になっています。中絶の女性側の負担ということの知識も必要ですが、そのことによって体の負担以上に、自分の健康が気遣われていないという精神的負担に着目するべきだと思います。それから、中絶の施術それ自体が精神的にもダイレクトにダメージを与えるということも理解する必要があります。命を奪ったという罪悪感も女性は大きいということも当たり前なのですが、どのように大きいのかということも代理人が言葉にするお手伝いをしなければならないでしょう。当たり前のことを言葉にすることこそ難しいことです。ここが弁護士の腕の見せ所になります。

お金の使い方の問題も、妻が何を期待したのかということを考える必要があります。この場合の妻は、夫婦のお金や夫の金銭援助は、夫婦というユニットに対して援助してほしいと思うわけです。夫個人については必要でもないことにお金を使って、自分のことについては1円も使わないつもりかという感情になっているわけです。これは、自分以外のものが仲間であり自分だけ仲間として認めてもらえないという人間にとってつらい気持ちになる事情となっているわけです。
とりあえず、まず離婚理由や損害賠償といった違法性の問題と切り離して、妻の離婚の動機ということで共感できるようになることが先決です。ここでいう共感とか、むやみに感情の追体験をするのではなく、「そういう状況であればそういう感情が起きますよね」という理解をするということです。

<大きなエピソードのない事案>

1)何も大きな出来事が無くても離婚をしたくなる事情

「エピソードよりも、エピソードとエピソードの間の状態の方が重要だ」という理論は、突き詰めると、さしたるエピソードが無くても、日常生活に仲間だという意識が持てなくなるような状態が継続していたり、むしろ夫が敵だという意識を持たざるを得ない状態であったりすると、それだけで妻が夫に安心できなくなり、夫の存在が不快や恐怖になってしまい、「妻の心の中では離婚原因になる」ということにつながります。これが離婚理由の曖昧な離婚意思のなりたちです。

2)妻が夫に仲間として求めている事項
まず、人間が仲間に対して何を求めているかということを整理しましょう。

・ 仲間であると認識できる事情は、自分が仲間として尊重されていると感じる事情である。
・ それは、自分がしてほしいことをその仲間の人間にしてもらっている事情 である。
・ そうするとその仲間に対して一緒にいて安心したいという気持ちが強くなり、仲間と一緒にいることで安心したい。昼間のストレスを癒したい。ということになり仲間にそれをしてもらっているということになる。

具体的な妻(夫)の要求として、
・ 健康を気遣ってもらいたい
・ 自分一人損をさせられたくない(差別されない)(プラスの意味で特別扱いをしてほしい)
・ 自分の努力に感謝してもらいたい、労をねぎらってもらいたい
・ 自分に不利益が与えられたら謝罪してもらいたい(それがあってはならないこと、将来に向けてやらないことを約束してほしい)
・ 自分の判断を承認してもらいたい
・ 自分の感情に理解を示してほしい
・ 自分が困っているときに助けてほしい 失敗を許してほしい。
・ 自分がうれしいときに一緒に喜んでほしい
などでしょうか。

3)日常生活での典型的な妻の夫に対する要求
もう少し日常生活に引き付けて考えてみましょう

例えば、家族より早く起きて朝食の用意をしたり、お弁当を作ったりすれば、
「いつもありがとうね。」と言われたり
「今日は俺がちゃっちゃと作るわ」とか言われたいわけです。
体調が悪くて熱を計っていれば
「大丈夫?」と聞いてほしいわけです。
仕事から帰ってきたら、「お疲れ様」と言ってほしいし
夕飯を作れば「おいしかったね。」と言ってほしいわけです。
その他の家事を自分がしたとしても、ほめてほしいわけです。
花を飾れば「いいね」と言ってほしいわけです。

これは人間である以上男性も女性も基本的にこういう要求を相互に求めているようです。ただ、どちらかと言えば、女性の方が仲間扱いをしていることを「言葉で表明してほしい」と感じている傾向があるように思われます。

4)妻の求めに必要なことは夫の「言葉」

そして、男性が勘違いしているのは、そういう夫の「心」を求めているのではなく、あくまでも「言葉」等はっきりわかる形を求めているということです。心までは求めないのなら、実は要求はかなり控えめなのです。ここを男性はなかなか理解できない。感謝の言葉、謝罪の言葉、そして表情が足りないようです。(スポット的集まりにおいては、女性のパーソナリティ障害が目立たたないのですが、その理由は、スポット的な付き合いにおいて、この「言葉を出すこと」ができるからであり、相手の心情に合わせて自分の顔の表情と変化させることや、声のトーンを調整することができるからだと思うのですがいかがでしょうか。)

5)夫の行動の言い訳を妻から見たらどうなるか。
もしこういう要求を女性が持っているにもかかわらず、言葉が不足している男性が、心のままにふるまったらどうなるでしょう。

毎日のことで、心の中では感謝しているからいちいち声に出すのは煩わしい、恥ずかしい、格好悪いということで、何をしても感謝の言葉を声にしないし、表情も変えないということになるとどういう気持ちになるでしょう。あるいは、自分だって家事を分担しているのに相手だって感謝の言葉を言わないから、自分は家事を分担していないけれどその分会社で神経すり減らしているのに給料をいれても感謝されないからとか言い訳をしているわけです。
といっても、言い訳しようと思うだけマシかもしれません。自分が無口なことの何が悪いのという男性もまだ現役かもしれません。

妻は否定されないことを求めているのではなく
肯定されて安心したいのです。

妻から見れば夫の「肯定のサボタージュ」は
まるで乳幼児が母親からいろいろお世話されているように、一方的にお世話されていることが当たり前だと思っている
と受け止めていくようです。通常の夫は赤ん坊やペットみたいにかわいいものではないので、一方的なお世話を要求される存在は王様か奴隷の主人みたいな存在に見えてくるようです。

令和の時代は、女性が働くことが当たり前になっているという事情もあり、妻の夫に対する要求度ないし期待も高くなっていると考えるべきです。専業主婦が大勢だったころと現代では、女性にとっての仲間に対して求める事項も改変しているということです。妻が自分の努力を自覚している分、ねぎらいとか、感謝とかの言葉を出してほしいということになるのだと考えておいた方が無難だということになりそうです。「時代の変化に対応する」という新たな課題を現代人は課せられているのでしょう。

ある離婚事例における妻から見た夫の一日は、
朝起きても何も言わない。目も合わせない。
朝ご飯を食べるときも、新聞を読んだり、テレビを観たりしている。(これがチンパンジーならば目を合わさないことが紛争を回避することになりますが人間の場合は逆のようです)
「ごちそうさま」くらいは言うかもしれないがそれ以上言わない。
着替えをして出勤する。その間与えられた家事を行い、ゴミ袋を出したりするかもしれない。
会社から帰ってくると、玄関で「ただいま」くらいは言う。
家のレイアウトが変わっても、妻の髪型が変わっても気が付かない。
ビールを冷蔵庫から出して飲みながら夕飯を温めて食べて、風呂に入る。
インターネットを見るなり自分の時間を過ごして寝る。

休みの日も、頼まないと外出に車を出さず、旅行や外食に行っても、にこりともしないし、店の批評、大体はネガティブな批判を行ってばかり。いつも後ろからついてくるような感じ。
家族のことを相談しようとしてもタイミングが全くつかめない。

こんな状態が続いてしまっても、夫は家族のために自分は頑張っているという意識があるので、そこにしがみつくわけです。しかし、夫に何が起きているのかについては全く報告がないので、家族は職場の夫の姿を想像することも難しいです。

これでは、夫の肯定のサボタージュは、
妻を肯定しないということ以上に
妻からしてみれば「自分は夫から価値を否定されている」と感じることと同じように感じている危険が出てきます。

6)さらに妻の被害感情を高める夫の行動と妻の感情の流れ
妻を肯定しないだけならまだよいのでしょうけれど、多くのケースではそれ以上の事情を夫は作ってしまっているようです。
・ 妻の行動による家の中の変化に気が付くと、文句を言い出す。
・ 妻や子どもが失敗すると責めたり、批判したり、嘲笑したりする。
・ 妻の意見に対して、デメリットばかりをクローズアップして反対する。
・ 妻に文句を言ったとき夫が自分で誤解したりした時も謝罪しない。
・ 自分が悪いと気が付いたら逆切れする。

普段何も言わないのに、こういうことだけこまめに言い出してしまうと妻としては、
夫が何か言いだすと、いつも自分や子どもの批判ばかりなので、
「言い出すと悪いことが起きる、自分を守らなければならない」
という条件反射が起きてしまう。
これが続いていくと、夫が家にいるだけで、いつ文句を言われるか戦々恐々となり常に警戒をしてしまう。夫が留守にしていると開放感を感じてしまうようになってしまうのも自然の流れかもしれません。
そうすると、夫と離れて、ウインドウショッピングをして開放感を感じているときに、夫の背格好に似て同じような服装をしている男性を見ただけで、息が止まるようなショックを受けて、パニック症状を起こすという流れもわかるような気もします。

安心できない存在の夫と一つ屋根の下に住んでいる。安心できない家は息苦しくなり、もし夫と一緒に暮らさないでも生きていけることがわかったら、多少貧しくなっても自分の人生を生きたいと思うという流れも何となくイメージができるような気がします。

結局は暴力があった事案となかった事案は、妻の心情において変わらない結果が生まれるということは大いにありうることなのかもしれません。

9 通常は夫の行動だけで妻の感情が生まれるわけではないということ

そもそも妻も誰かから強制されないで自分から結婚したわけですから、最初は二人の安心パターンが実行されていたわけです。最初あったものがいつしか無くなっていったと考えるほうがリアルだと思います。
1)妻側の事情
一つは出産です。一つは年齢に応じた体調の生理的な変化です。それから職場などの家の外での人間関係です。
これらの事情によって、夫の行動が無くても、妻が不安を感じやすくなっていることが多いようです。離婚事例の場合、離婚問題が俎上に上る前から妻はクリニックに通院していることが多くあります。

上記の事情は、「このために自分が不安になっている」ということは、実際は自覚しにくいので、漠然とした不安と不安を解消したいという焦燥感だけが意識に上っています。

それから案外多いのは、妻が夫の言動に逆らえない事情がある場合です。
夫を好きすぎて、夫から嫌われたくないという気持ちがとても強くなって、それでも自己肯定感が低いために自分の行動に自信がなく、常に自分の行動が夫から愛想をつかされているのではないかと心配になってしまったケースがあります。その後の行動をみると、妻に何らかの事情でうつ状態が生じていた可能性があるように思われます。

妻の性格、あるいは結婚前の人間関係などから、いつしか、妻が夫の言うことに反論できないようになっていたケース。例えば、夫は会社などで部下を動かす仕事をしていて、妻は上司の言う通り作業を進めることが求められている仕事であったとか。
こういう夫が悪いとか妻が悪いとか言えないケースでも、妻は不自由な思いを抱き、自分で自分のことを決められない、両腕を縛られているような感覚をもってしまうようです。そして夫に逆らうことで何か悪いことが起きるということを不安になりますから、不安から解放されたいと思うようになるようです。夫が暴君であり、自分を支配しようとしている。仲間という対等な関係ではなく、自分は奴隷のような扱いを受けていると感じていくようです。


2)支援者の夫婦破壊
そこに来て、夫の肯定のサボタージュが起きたり、とんでもないカウンセラーや支援者の、「あなたの不安は、夫から精神的虐待を受けている場合のあらゆる要素に当てはまります。あなたは夫からモラハラを受けているのではありませんか。」という悪魔のささやきと、そもそも自然発生的に自責の念を抱いている妻に対する「あなたは悪くありません」という言葉は、自分の不安や焦燥感は「夫が悪いからだ。」という意識を植え付けて固定化します。肯定のサボタージュ、ネガティブ発言、さらには事務連絡的な発言まで、ありとあらゆる夫の行動が、離婚原因に該当する「違法な行為」ということにされてしまうわけです。

3)夫側の事情 肯定のサボタージュとネガティブ発言のルーツは職場

夫の場合も体調の変化が原因になることが多いです。しかし、これまで担当していたケースの事情を見ると、家の外、特に職場での人間関係に問題があることが多いようです。
夫の職場や取引相手との中の夫の状態に注目しなければなりません。このように夫が無口になったり、表情が変わらなくなったり、行動力が落ちる背景として、職場の長時間労働などの過重労働やパワハラが原因になっていることがよくあります。隠れた一番多い離婚原因と言ってもよいと思います。

職場で、
・ 自分の行動が正当に評価されていない、
・ 訂正を求めることができず昇進もできない。
・ 信頼関係で取引していたのに、一瞬で打ち切られて別の会社に取られてしまう。
・ 頑張ってもできないことをやれと言われてできないとののしられる。いつ辞めてもらってもよいのだというような扱いを受ける。
・ 職場の出来事が悔しくて夜眠れない。

こういうことが続くと、「およそ人間は信頼できないものだ。自分に害を与える存在だ。」という学習をしてしまいます。四六時中自分を守っていないと付け入られて不利益を与えられてしまう。そんな人間関係にどっぷりつかってしまうと、家に帰っても、妻や子どもの些細な言動も自分に対して不意打ちを打とうとしているように反射的に身構えてしまうようになるようです。「あなたなんでそんなことを怒っているの?という不思議にさえ思う怒りが確認できることがあります。」そもそも夫こそが、職場の働き方が原因で、家庭に帰っても癒されない頭の構造に変えられてしまっている可能性が大いにあります。
しかし、男は、なかなか弱いところを家族に見せられないようです。もしかすると、そういうことで悩んでいること自体に批判をされると、立ち直れなくなると思って、悩みを打ち明けられないでいるのかもしれません。
そして、自分が低評価されることが一番いやなのは妻からの低評価なのだと思います。「それは自分のせいではない。」、「それは誤解だ。」、「私はそういうことを思っていない。」と、会社では言えないことを妻にならば言えるので、むきになって相手の低評価を否定したくて、頑張ってしまうということがよくあるようです。夫も、妻との関係にも安心できない状態になっているわけです。

仕事の内容でうつ病になって、それが妻の誤解を生んで離婚になったケースもありました。会社内の人間関係には問題はなかったのですが、取引相手との関係で大きな問題があったことと極端な長時間労働から体調がおかしくなりうつ病と診断されていました。家の中では夫は行動力が極端に低下して、食事をとるとき以外は自室にこもるようになっていたようです。妻とのコミュニケーションも極端に無くなっていました。うつ病の診断については妻も知っていました。それでも妻から離婚を求められたのですが、こちらはいろいろな証拠を提示して、離婚理由はうつ病によるものだから離婚を考え直してほしいと争ったのです。ところが妻は、うつ病ではなく、妻を嫌い妻を否定する行動だと思い込んでどうしようもありませんでした。うつを否定した一つの論理として、子どもとは感情豊かに接していた。自分に対してだけ不機嫌な顔を向けていたということがあります。うつ病の人は、争うことが極端に苦痛になるようです。妻と口論になることを避けて自室にこもっていたということは事実でしょう。また、子どもはそんなうつ病の人にも希望ですから、残された精神的エネルギーを文字通り振り絞るようにして喜ばせていたのでしょう。それが妻から見たら自分だけ嫌われていると思ったポイントの一つだったようです。

今考えるとかなり象徴的な事案だったようです。

10 終わりに

人間を人間とも思わない風潮が蔓延すると、それが職場や社会を通じて、人の心を荒ませるようです。その矛盾は必ず家庭に吹き込んでくるように思います。だから、結婚した時は円満な夫婦も、長年月の中で一方がむしばまれていって他方も自分が嫌われていると自分に原因を求めてしまうことが随分多くあるのです。
現代の夫婦は、無防備な状態で小舟で荒波に漕ぎ出しているように思われます。

まずは、夫婦はお互いに、安心させあうという行動をしなくてはならないということをお話ししました。夫が妻を攻撃するときで多いのは、「妻が自分を不当に低評価している」と不安になっている時かもしれません。一方的に安心させるということはあまり効率的ではありません。また夫婦が相互に安心させる姿を子どもに見せることは、子どもが健全に成長していく何よりの特効薬だと思います。人は人を尊重するものだということを示すことで、自分に自信が持てるようになるように感じます。こういう親の行動を見るだけで、子どもは人生がとても楽しくなるはずです。

特に言いたいことは、夫や妻に不具合が生じている場合、浅はかに「相手に原因がある」という決めつけはやめるべきだということです。人間の心理は複雑です。いろいろな人間関係を形成しなくてはならない現代社会では、この複雑さが極限に達しているように思われます。他人の家庭の中のことを30分やそこいらの相談会で真実を把握することなんて不可能です。もし、「あなたが悪いわけではない。」ということをどうしても言いたいのならば、「でも相手も悪いとは限らない。」と必ず言うべきです。

現代社会は離婚だけでなく、パワハラや成果主義賃金を初めてとする働き方の問題、学校でのいじめ、学校外でのいじめ、消費者問題、健康問題と環境問題と、切れ目のないストレスが多数存在し、ストレスで不安や焦燥感が消えず、生きにくい状態となり、自死の危険もあります。それに無防備に夫婦がさらされています。夫婦や家族という核となる群れが良好に群れの機能である安心感を相互に与え合うことが客観的に求められているのではないでしょうか。それなのに家族を解体する方向だけが、公的圧力になっているように思われます。家族を強化する方向での働きかけが存在しないように思います。人間を安心させるという、社会や国家の役割が果たされていないということが大問題だとして、議論が起きるべきだと思っています。

無駄な組織、無駄な立場、無駄なグループから自由になって、家族というコアな人間関係を大切にする風潮を作ることに貢献していきたいと思っています。

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