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「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み  [進化心理学、生理学、対人関係学]

前回の記事で述べたように、人間の体の仕組みは切実な必要があったために進化の過程で獲得したという歴史がありますが、その時の環境に合わせて作られたもので、環境が変化してしまえば、無用の長物になるだけでなく、害になることさえあります。

前回は、身体の仕組みとともに群れを作るためのこころの仕組みを進化の過程で獲得したということを説明しました。しかし、前回言わなかったもう一つの群れを作る「こころのしくみ」というものがあります。これが今回の記事のテーマです。それが
「人間は群れの権威に迎合しようとする意識傾向」がある
ということです。

1 迎合の必要性、有効性(言葉がない太古の時代)

人間は種として群れを作らなければ生きていけなかった太古の時代を経験しています。肉食獣から身を守ったり、安定して食料を獲得したりするためには一定の頭数をそろえた集団で行動する必要があったということはご理解いただけるでしょう。

ただその場に群れていても、身を守るとか、食料を獲得するということはできません。群れがまとまって、一つの統一された意思の下で行動することでよりよく群れの機能を発揮することができます。

例えば当時の狩りの方法は、集団で小動物をどこまでも追って行って、獲物が熱中症などで弱ったところを集団で攻撃して仕留めるというやり方だったと言われています。狩りのメンバーが自分勝手なことをやっていたら敏捷さに勝る小動物は逃げきってしまっていたでしょう。攻撃チームで方法論を共有する必要がありました。しかしながら、太古の時代は言葉もありませんでした。打ち合わせをして一番良い方法をみんなで探し出すということはできなかったと考えるべきです。

ではどうしたか。私は
群れのリーダーのもとに統率されて、行動していたと考えています。
それはどうやってということになるでしょう。

人間は「権威に迎合する」という性格を進化の過程で獲得したのだと思います。

狩りを例に出せば、誰をどう配置して、全体をどのように共同して進めるかを考えて、小動物をしとめるかということを、動きながら考えることはとても大変なことです。エネルギーも使います。それでいて、分け前は平等です。作戦が失敗すれば仲間に責められるかもしれません。割に合う役割ではありません。むしろ、誰かの考えの通りに動けば、あまり脳を使う必要がありません。とても楽です。リーダーの表情やしぐさを見て、自分の行動を決めてもらうことの方がよほど楽です。多くの人たちは、迎合できれば迎合しようとしたのだと思います。

何か大事なこと、生活に直結することをしようとするときほど、人間は誰かに決めてもらいたくなり、自分で考えることをやめてしまうようになっていったと思われます。現代でもその傾向を感じます。

この行動傾向があったからこそ、人類は言葉もない時代に、自由分散的な行動をしないで群れの力を発揮できたのではないでしょうか。

2 スタンレイ・ミルグラムの「服従の心理」との関係

この「迎合の心理」はスタンレイ・ミルグラムの「服従の心理」を焼き直したものです。その概要についてはすでに述べています。
Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05

「服従」というと権威者が出した指令を選択肢を持たずに従わなければならないという語感があるので、もっと自分から自発的に従っているということを強調したくて「迎合」の心理という言葉を使うべきだということが中核になっています。
迎合の心理は、例えば電流を流して被害者を苦しめるというミルグラムの実験においても、被験者である加害者は、強制されて、他に選択肢を持てないで強力な電流を流すとされるボタンを押したのではなく、任意に自分からボタンを押したのでした。今回の記事は、迎合の心理状態では、他者に対して残酷な行為、人間扱いをしない行為を、自ら進んで行うようになるその仕組みを検討いたします。

3 迎合がデメリットを生む現代の対人関係という環境

言葉のない太古の時代には、迎合の心理は、必要であり、ほとんど害はなかったと思います。
獲得した食料の分け前は群れの構成員で平等に分けていたようです。数十人の仲間は運命共同体で他人と自分の区別がつきませんから、群れの誰かが寂しい思いをした場合には、自分が寂しい思いをしたように感じていたことでしょう。リーダーの権威といっても「狩り限定リーダー」だったり、「植物採集限定リーダー」だったり、あるいは「群れの居住秩序を作る限定リーダー」だったりと固定されたリーダーではなく、リーダーの入れ替えも円満に行われたと思います。迎合の心理が誰かを苦しめることはなかったと思います。

ところが、現代社会は言葉のない太古の時代と人間関係が異なり、数えきれない多くの人とかかわりを持ち、群れも家族や職場、学校等々といった複数の群れに同時に帰属するようになり、群れのメンバーも交代が行われるようになってしまいました。同じ群れの仲間と言っても、言葉のない太古の時代と比べると人間関係は著しく希薄で、家族であっても対立することが珍しくなくなってしまいました。

仲間であっても味方ではなく、いつもすぐ近くにいる人間が自分を攻撃することも「できるように」なってしまいました。

このような現代では、誰かに迎合することが別の誰かと敵対することを意味してしまうことが当たり前のように起きてしまいます。そして、誰かに迎合することに夢中で、迎合することによって誰かを傷つけるということに思い至らないという現象が起きています。

迎合は、本能的に、無意識のうちに行ってしまうことで、被害者の被害を思い描く前に行動してしまっているという特徴があります。また本能的な行動であるため、その行動をとるときに理性の判断を介在させにくいという言い方もできると思います。気が付いたら迎合していた。後で考えたらそのことで誰かを傷つけていたということです。もっともそれに気が付かないことも多いことと思います。

以下具体的に迎合の心理で人が苦しむ様子を見て考察を深めてゆきます。

4 小学校のいじめと迎合の心理

2年近く、小学校のあるいじめの事例にかかわりました。弁護士としてではなく、保護者の一人としてかかわりました。被害者児童の親御さんからことを大きくしないでほしいというご希望があったことと私自身もその学校の一人の児童の保護者だったという事情もありました。
いじめを学校が知りながら放置していたため、解決には難渋しました。結局は、大人の力ではどうしようもありませんでした。実は、この事例は子どもたちが被害児童を徹底的にかばうことによって解決をすることができたという事案でした。子どもたちから多くを学びました。

事案は、クラスの同じグループの女児たちが同じグループに所属していた一人の女児をグループ全体で攻撃するというものでした。事の発端からみると、グループのリーダーが被害女児が自分に従属(迎合)しないことに腹を立てて辛く当たったということでした。だからそもそもは1対1の人間関係だったはずなのです。これがいじめという集団加害に発展した原因は、リーダーの取り巻きのグループ内の他の女児がリーダーに迎合して行為に加担した、あるいはリーダーの気持ちを忖度して自発的にいじめに加わったということでした。リーダーは加担も、いじめも明確な指示はしていなかったようです。取り巻きのほかに被害女児を追い出して自分がグループに入りたい女児も加わっていじめは大きくなりかけました。
ところが、クラスの男児が徹底して被害女児に親切にしだしたのです。いじめグループに見せつけるように様々な親切活動を始めました。だんだんとその親切隊が増えていき、ついにはいじめグループがはっきりとクラスの中で孤立していったのです。

子どもたちが行った「加害攻撃に対して加害攻撃で対抗するのではなく、味方を増やすことによって加害者を孤立させていく」という、平和行動を現代の大人たちにも教えてあげたいですね。これまで生きてきて私はいろいろな尊敬できる人たちに出会いましたが、この時の親切隊の男児たちは思い出しても感動で涙が出てくるほど尊敬できる人間たちでした。道で出会うと最敬礼していましたが、彼らはそんな私をきょとんとした顔でちらっと見て足早に通り過ぎていきました。

こういうと簡単に聞こえますが、解決まで1年半くらいかかったでしょうか。いじめが陰湿に行われていたこともあり、被害女児が苦しんだ期間は長かったです。被害女児にその数年後にお会いしたのですが、ちょっとした友達とのトラブルがありそうになると、「またあの時と同じようにいじめられるのかもしれない」と感じやすくなるというトラウマが残っていました。

リーダーに加担していじめを完成させた取り巻きたちは、特に何らかの見返りを求めたわけではありません。私から見れば、本能的にリーダーに迎合していたとしか言えないような、しかし狂気の行動でした。

そのリーダーは、特に人望があったわけでも、能力が高かったわけでもありません。どちらかというと、ずるい行動傾向があり、これに周囲が反発していて、その反発によって被害女児を助ける傾向が広まったくらいです。
どうしてこの人はリーダーとして権威を持ってしまったのでしょうか。どうして加担者は迎合してしまったのでしょうか。加担者たちの父親はインテリジェンスの必要な職業で収入も多く、子どもたちも成績が上位クラスでした。

迎合の的になったことについては、二つの理由が考えられます。一つにはリーダーの主張がはっきりしていたこと、わがままという言い方もあるでしょうが要求がストレートでわかりやすかったようです。何が迎合になるかがわかりやすかったということです。もう一つの理由はリーダーの喜怒哀楽の感情が豊かだったということがあります。共感しやすいわけですね。被害女児がなびかないことで思い通りにならないで悲しい顔をしていたら、取り巻きたちはリーダーに同情して、リーダーの代わりになって被害女児に怒りを覚えて攻撃をするということがわかりやすかったのだと思います。被害女児の方はというと、年齢相応の自己表現にとどまり、特に主張がなく、喜怒哀楽は控えめでしたので好対照でした。

このリーダーは迎合しやすい人間だったのだと思います。
「人間は、誰かに迎合しようと機会をうかがっていて、迎合しやすい人を見つければつい迎合してしまう傾向がある」
ということなのだと考えるとうまく説明できる事案だったと思います。

そしてひとたび攻撃を始めると、被害者の気持ちを切り捨てて、攻撃を継続してしまう。被害者が戸惑い、苦しむ姿を見ても、自分の行動を改めようとしなくなるという特性があるとするとわかりやすいと思います。

5 パワハラのうち、同僚の面前での容赦のない叱責

職場のパワーハラスメントで、精神疾患になったり、自死をしたりという悲劇が生まれると、まだまだ少ないですけれど職場の中では第三者委員会を設けてアンケート調査などの実態調査が行われることがあります。いくつかの事例で第三者委員会報告書を読みましたが、必ずと言ってよいほど大変驚くべきことが記載されていて、なるほどパワハラが行われると人間が孤立してしまうのかと変に納得してしまいます。

どんなことが書いてあるかというと、パワハラを見ていた同僚が、上司のパワハラを正当化しようとするのです。被害労働者が「言われたことを一回で覚えなかったから。」被害労働者にも落ち度があるとか、パワハラ上司は「一回は説明をした。」とか、被害労働者が難聴者であったにもかかわらず「話しかけられても無視をした。」とか、上司の口調は「それほどきつい口調ではない。」とか、「彼だけが言われているのではなく、みんなが言われている。」とかいう具合です。この正当化しようとして言っている言葉を丹念に読めば、逆に人権侵害のパワーハラスメントが実際に行われていたことが証明できるくらい、客観的事実の存在は認めているのです。

同僚たちは、何が起きたのか自分の目で見て、耳で聞いているのです。それでも、パワハラが繰り広げられ手被害労働者が思い悩んでいる姿も目の当たりにしている際に、自分なりに自分の心をごまかしてきたのでしょう。つまり、「やってはいけないパワハラが行われていたという残酷な出来事があったのではなく、被害者にも落ち度があったからそこまでひどい話ではない」として、自分がその人権侵害を止めなかったことを正当化していたのだと思います。そうして罪悪感を軽減しようとしているのでしょう。

それにしても、事案の多くは、第三者委員会が調査するほどの事案ですから、その時点ではパワハラの加害者は仕事を干されたり、退職したりしているのです。そこまで無理をして正当化する必要はない事案も多いのです。はっきりと悪いことをしていたと告発する方が、本当は精神的にも楽なはずなのです。

それでも、上司のパワハラに該当する行為を肯定しつつ、パワハラではないと頑張ったり、被害者の落ち度をことさらあげつらったりしています。その動機はどこにあるのでしょう。一つは今述べた自分の傍観の正当性を主張したいということもあるのでしょうけれど、私は迎合の心理があると思っています。

あるパワハラ職場では、昔から伝統的にしごきのある職場でした。実際にパワハラをした上司も若いころは全く同じようにパワハラを受けていたようです。しかし、誰もそれを改めようとしないで何年も放置されていたということになります。どんな職場か聞けば驚くと思いますけれど、この職場は全国組織ですが、実際は様々な問題を抱えていることが多い職場のようです。仕事の内容は、リーダーの指揮の元一丸となって行動をすることが強く求められる仕事でした。まさに太古の人間が命がけで狩りをしていたような、そういう仕事の内容です。

この職場と同じように仕事柄リーダーに意識的に迎合することが強く求められている職場では、やはりパワハラ事例が多くあります。実際に担当したこともありますし、判例も多く出ています。命の危険のある仕事をされる職場ではこの傾向が強くあります。

上司がすでに退職したり責任を取って閑職に追いやられてもなお、パワハラの客観的事実の認識に不足がないにもかかわらず、上司を正当化する部下は過去の権威に迎合しようとする本能的な行動をしているのではないかと考えております。パワハラ実行当時、本気で被害労働者に落ち度があるから厳しく扱われることは仕方がないことだと考えていたならば、事実関係の認識に不足が無くても素直にパワハラではないと感じていた可能性があります。

むしろ、上司の言う通り、被害労働者はダメな奴で、ダメな奴のせいでパワハラ叱責を聞かせられている、仕事の時間を奪われていると思っていた可能性もあることに気が付きました。傍観者の怒りの矛先がパワハラ上司ではなくて被害労働者に集中していたのかもしれません。

興味深いことは、同じ職場の同僚が上司を正当化するのに対して、同じ会社で違う場所の職場の人間の方に被害者をかばい上司をきちんと否定評価している人間がいるということです。

どうやら被害者の感情と同僚たちの距離に関係があるようです。同じ職場でも、被害者とあまり個人的に話をしたことのない人たちは、職場の権威である上司を正当化する傾向にあるようです。これに対して、いつもは別のところで働いている人たちでもプライベートの付き合いがあり、被害者の被害感情を知る機会がある場合は、被害者に共感を示しているのです。

ミルグラムの実験でも、この被害との距離が行動に影響を与えているということが結果として報告はされています。ただ、そのことがあまり注目を  されていないような気がしているところです。

一般的に迎合をしてしまうと被害者の感情を自分の感情から遮断することがある
一方、
権威者と自分の距離と被害者の感情と自分の距離の相関関係で遮断が強くなったり弱くなったりする
のではないでしょうか。大変興味深いことだと思います。

6 ボランティア活動での排斥行為

社会的活動という立派な理念を掲げて活動する組織でも、理不尽な排斥行為がありました。これも考察するべき事項の宝庫なので紹介します。

加害者はある社会活動をするための組織を立ち上げた人であり、その社会活動に貢献をした人でした。被害者はその加害者が立ち上げた組織にも深くかかわっていましたが、後発の関連グループの活動も支援していました。二つの組織は、それぞれ共通の目的と、異なる活動スタイルであったため、当初は協力関係にあり、交流もありました。そのうち時代の流れに乗った新グループは(被害者とは別の人が中心でした)、活動を広げて社会的な脚光を浴びるようになりました。地味に活動をしていた加害者の組織では考えられないことでした。

加害者は、次第に新グループや被害者が疎ましくなったようです。つまり、その社会活動で自分が果たしてきた役割が、その新グループと被害者の活躍が原因で小さなものとなったのではないか、被害者が自分にとって代わって権威者になるのではないか、新グループがあることで自分の組織の意味がなくなるのではないかと考えるようになったようです。そうして「加担者」を通じて新グループを分裂させ、被害者を孤立させたという恐ろしい出来事になりました。

被害者や加担者は、社会活動の目的とは何ら関係がなく、自分や自分たちの組織が脅かされるという危機感から攻撃をしたようです。つまり、自分が他者からの「迎合の的」であったにもかかわらず、迎合の的が自分から被害者に移ることを恐れたということになります。迎合の心理の裏側の心理と言えばいえるかもしれません。加担者にも共通の利益がありましたが、加害者に迎合しているということで、被害者や新グループに対しての罪悪感をごまかすことができたのだろうと思われます。

迎合の論理は、言葉が生まれる太古の時代のように、仲間以外は人間ではないという環境の中では特に問題が起きません。ところが複数の群れに同時に帰属することの多い現代社会では、これらの事例の通り権威に迎合することが他者を加害することに直結することがしばしばみられます。

最後に迎合の心理が働いてしまうと、被害者の被害を客観的には認識していながら、被害者の不安とか恐れとかあるいは体の痛みなどの感情に反応をしなくなる場合があるということについて上記の社会活動団体の事例等に照らして考えてみたいと思います。

加害者の心理としては、立派な社会活動のリーダーも、小学校の小グループのリーダーと全く同一であることには興味が惹かれます。自分が迎合の的から外されそうになっているという意識で、とってかわられるのではないかと恐れた被害者を攻撃していることには何も変わりがありません。被害者の意図とは関係がなくあくまでも加害者の主観にすぎません。

また、加担者にはっきりと攻撃加担を指示したわけではありませんが(大人の事例は本当はよくわかりませんが)、リーダーが攻撃意思を明確にすることによって、また怒りの感情をあらわにすることによって、加担者に迎合しやすいように環境を整えたということも共通です。

加担者は、直接指示されたか否か不明ですが、リーダーという権威に迎合して被害者を攻撃しました。大人の事例では被害者が関与した新グループを切り崩すという恐ろしい行動に出ましたし、その過程では被害者の職業も脅かす行為を行っています。被害者のライフワークであるその社会活動ができなくなるような行動をしていたとするならば、被害者の志まで葬ろうとしていたことになります。まるで被害者を亡き者にしようとしていたような恐ろしい活動を平気で行うということをしていたのです。

ミルグラムの服従実験でも、実験に参加した被験者らは自分が押した強い電流を流すボタンを押すことによって苦しんでいるという客観的事実を認識していたにもかかわらず、多くの被験者は被害者に最強の電流を流すことを敢行しました。

権威に迎合すると自分の行為によって生じる被害者の被害感情に心が動かなくなる

ということはミルグラムの実験でも、小学校のいじめ、職場のパワハラ、社会活動家の実際の事例でも共通でした。

事情の分からない被害者は、よく知った相手から攻撃を受け、あるいは見放されて、自分の同一性の基盤である小学校の同級生との生活、職場、社会活動から追放されそうになったため、精神的に不安定になり、かなり危険な状態まで追い込まれました。社会活動の事例も実際に加担者と被害者は、共同で活動をしたことも何度もあったようです。同じ志を持った仲間だと思っていた人間が自分に攻撃を加えてきたこと、それも嘘の話を吹き込んで新グループを分裂させるという卑劣な方法をとったことに大きなダメージを受けたようでした。

職場のパワハラの事例でも、パワハラを受けて落ち込んでいた同僚を見ているのに、被害者に落ち度があるということを言って上司のパワハラを正当化しようとしたのです。この自分の調査時の回答を読んでしまったら、被害者はどう思うかということを全く考えていません。

(情けないのは第三者委員会です。パワハラ上司のしたことについては、客観的行為としては同僚も認めて、本人も行為を概ね認めているにもかかわらず、同僚の正当化をなぜか採用してパワーハラスメントではないという無茶苦茶な答申をしていました。知識がない人間が第三者委員会に選任されていたということです。また、第三者委員会が会社に「迎合」したという可能性もあると言わざるを得ません。)

小学校のいじめの例も、基本的には同じグループの仲間から攻撃されているので、仲間だ、友達だと思っている人間から、無視をされたり、掃除を一人でやるように押し付けられたり、まったく非のないところで同級生の前で集団的に非難されたりしたわけですから、およそ自分以外の人間という存在に将来的に安心感を持たなくなってしまう危険があったと思います。小学生の例では、「学校関係者を除く」大人たちが一丸となって、児童と保護者をフォローし続けました。

迎合は、仲間でさえも、容赦なく攻撃をさせるわけですが、進化の過程で獲得したという事情を理解するとその由来も理解できます。
太古の昔に迎合をする必要性がある場合は、食料(小動物)を狩るときとか、肉食獣から仲間を守るために反撃をするとか、仲間の命のために相手の命を奪うという場面が強い迎合が起きる場面だったということになります。権威者が相手(の動物)を攻撃していて、それに迎合するのですから、迎合はすなわち攻撃の論理にそもそもなじみやすかったわけです。


逆に言うと、
誰かが攻撃されている場合に迎合しようという気持ちが強くなるのかもしれません。

「迎合」と、「迎合した戦いの相手方に対する純粋な敵対意識」はワンセットの意識だと考えるべきなのだと思います。迎合して戦いに参加してしまうと、太古の記憶が呼び起こされて加担者にとってその相手は人間ではなく肉食動物であり、捕食して食料にするべき小動物のように扱ってしまうのでしょう。被害者は感情を持つことを認めない物質になるようです。

(少し解説を補充します。多くの人間たちの中で、群れが戦闘態勢に入った場合、何も考えないで群れ《厳密に言えば戦闘を開始した者》に迎合して、何も余計なことを考えないで、つまり怒りだけの感情となり、ひたすら対象を殺そうとすると、対象を殺して利益を得る可能性が高くなったのだと思います。戦いに集中するということでしょう。そうすると、このような群れに迎合して戦いに没頭する性質をもった人間が当時の環境になじみ、このような性質を持たない自由分散的な性格を持った人間が多数の群れより、生存競争で有利だったことになります。そうすると、その有利な性質をもった人間が、生きながらえることができ、子孫を遺すことができたということになります。こうして人間の迎合して怒る性質が私たちに遺伝されたという結果になるということです。)

7 独裁の構造

独裁国家は、独裁者がいて、その周りにイエスマンばかりが配置されます。リーダーと加担者の純粋形態のようです。独裁国家は、歴史的にみると常時戦闘態勢に入っています。戦闘袋瀬にあればそれが侵略であろうと防衛であろうと、迎合が強くなることには変りがないと思います。

そうだとすると、
独裁国家を作るためには、戦闘態勢を作ることが早道なのかもしれません。
世界の大きな国では、戦争を起こすと支持率が上がるという奇妙な現象が起きます。自国の強さをアッピールできるから支持率が上がるという解説がなされることがあります。しかし、実際は、自分たちの国が戦闘態勢に入ると認識すると太古の記憶がよみがえりリーダーに迎合しやすくなるという人間の心理が働いているだけのことかもしれないと思います。このような形で支持率を上げた大統領は、延々と戦争を続けるしかなくなってしまいます。

国という大きな話ではなく、任意のグループの場合も同様でしょう。そのグループが誰かと戦っていると意識があると、構成員がリーダーに迎合する傾向が強くなり、結束が強まるようです。そして、自分たちに行為を示す人間以外を仲間とは思えなくなり、無意識に組織の人間を優先し、組織外の人間を敵視していくということはよく見られることです。宗教団体や思想集団で社会的に承認されているとは言えない団体は、権威者に対する迎合が極端に強まるため、権威者であるリーダーはなかなか後退しないという特徴が出現します。

地方の自治体の話でも迎合が見られます。仕事柄、自治体の中枢近くで仕事をすることがありました。かなり地位の高い人で、キャリアから見れば政治職よりも権威のある人のように感じられる人が、なりたての地自体の首長に迎合しているとしか表現できない発言を聞いて驚いたことがありました。

自治体の首長と言っても、万能ではありません。その道のキャリアは、その道では知識も活動も自治体の首長より上であり、上から政策を修正するくらいでなければならないと思います。それにもかかわらず、その道についての政策について、首長の方針に無条件に迎合していたのです。

その人はもうすでにコースの最上位にいて年齢的にもこれ以上の出世もないくらい出世していましたし、すぐに来る定年後の予定もきちんとあった人なのですが、迎合することが何か楽しそうでした。

迎合するということは、何ら卑しいことでも唾棄するべきことでもないのでしょう。人間の自然な感覚であり、遺伝子に組み込まれた本能なのだと思います。人間社会が成り立っているということは、現代でも90パーセント以上の大多数が迎合傾向にあるのだと思います。迎合の要素がなければ、人間の集団は成り立たないのかもしれません。

ただ、太古の時代で妥当性があった迎合の心理も、現代の関わる人数が多すぎて、所属する群れも複数あり、群れ相互の利害対立も微妙にある場合、特に対立をしているグループの権威に迎合してしまうことは、自分に何も不利益を与えていないはずの人間を不合理に傷つけて、深刻な被害を与える主体になりうるということは肝に銘じておく必要がありそうです。弁護士という職業は、その危険が常にあるということになります。人間はその人が自分の行為で苦しんでいることを知っているにもかかわらず、それでも何も罪もない人を死ぬまで追い詰めることをしてしまう存在だということです。

まさに進化と環境のミスマッチがここにも起きているわけです。

8 ネットハラスメント 木村花さんの三回忌を前にして

この記事の締めくくりです。
女子プロレスラー木村響子選手の娘さんで同じくプロレスラーだった木村花さんが、ネットの書き込みが原因である可能性がある自死をしました。本来接点のないはずの舞台の上の人間と観衆がインターネットという装置によってかかわりが生まれてしまったようです。最後に詳しく考察しますが、彼女はまったく無関係な人間の書き込みを読んで圧倒的な精神的ダメージを受けたことが推測されます。

書き込んだ人は木村花さんとは何らの関係もない人たちですから、花さんの行動について何ら論評をする立場にはなかったはずです。なぜ、書き込んだ人たちは花さんの行動に否定的書き込みをあえてしたのでしょうか。どうしてそれを読めば精神的に打撃になる表現を書き込むことが「できた」のでしょうか。
匿名だからできたということも理由となるとは思いますが、匿名だとしてもそれをやろうとした動機付けを問題にしなくてはならないはずです。

これが迎合の心理から説明ができると思います。

ドキュメントタッチで共同生活を描くテレビ番組で、些細なことをめぐって花さんと男性が対立をする場面が面白おかしく映し出されたことがきっかけのようです。男性そのものは、花さんに対して報復をしようと行動を起こしたわけではないようです。しかし、テレビの中で花さんを攻撃する論調があったようです。

番組内での花さんの対応あるいは対立の論理も、理不尽というか不自然なところがあり、そこに反発を誘引する素地があったようです。また花さんがプロレスラーということと、あまり感情的に対立しない若者の風潮から、男性に対して同情する気持ちを起こしやすい状態が演出された形になったのだと思います。

但し、書き込みをした人たちは、相手の男性に迎合したわけではないということを注意するべきでしょう。この男性は、対立姿勢を示していません。

書き込みをした人たちは、この男性ではなく、「花さんの『怒り』にむしろ問題があるという雰囲気を出した人間」に対して、その人が言っていることが正論だという支持を表明したくて、書き込みをしたのだと思います。花さんの怒りが理不尽だという論調に誘導した人に迎合をしたのだと思います。もしこれが政策側で意図したことならば、結果的には制作側が攻撃をあおった形になると思います。

ここは極めて重要で、大いに注目するべきポイントだと思います。当事者双方がそれほど対決姿勢を示していなくても、第三者がどちらかを非難して、どちらかの味方をすると、その第三者が権威の所在になり、当事者以外の他者がその権威に迎合して一方を攻撃するという図式が起こりうるということです。当事者双方は戦うことを考えていなくても、第三者がそれを利用して対立の構造を作ってしまうということです。その結果当事者たちも戦わざるを得ない状態に入る危険があるということになるわけです。

何らかのトラブルがあった時、当事者には双方言い分があることが通常ですが、第三者が権威になれば、第三者の言い分だけが迎合の的となるわけです。初めから他方当事者の言い分は考慮されない構造になっています。第三者が権威を持つことによって、私たちの怒りが第三者によって誘導されてコントロールされてしまいかねないということに最大限の注意が必要です。そして、第三者の権威に迎合して攻撃をしてしまうと、双方の当事者が望まない第三者を巻き込んだ戦闘が行われる危険があるということになります。

話を花さんに戻します。
仮に制作サイドの、視聴者に対するあおりの意図に乗ってしまい、例えばコメンテーターの示す価値観に共鳴し、花さんに対して怒りをもってしまって、怒りを表明しようという気持ちになってしまうと
戦闘態勢への迎合ですから、特に戦う相手となった人間は人間として感情があるということは初めから考慮の対象外のこととなってしまいます。本能的に攻撃対象は人間ではなく虎や狼だという意識になってしまいますから、容赦のない攻撃が繰り出されるわけです。可能な限り最大限のダメージを与えることしか考えられなくなります。容赦の一切ない純粋な怒りの結晶がぶつけられます。
無関係な人間からだとしても、そのような悪意の純粋結晶のような攻撃に耐えられることは、人間としては難しすぎることだったと思います。

特にインターネットは自室で観ることができます。いついかなる場合でも自分が見ていなくても、自分に対する攻撃が続けられていて、それが自分だけでなく誰にでも見られる状態にあったということを考えると、どこにいても気が休まらない状態になり、不安や焦燥感は極限に達していた可能性もあると思います。

このような多数から加害を受けているならば、家族や恋人などがいたとしたら、傷はいえるのでしょうか。孤立感は解消されるのでしょうか。実際の被害者の方々から話を聞くと、答えはいずれもノーです。

通常多数から攻撃を受けてしまった人間は、そのような人間扱いされていない自分というものを知られたくないと考えることが普通です。むしろ、自分の最後の砦となる家族には知られたくないと思うようです。家族からも自分が情けない価値のない人間だと思われたくないようなのです。また、家族にだけは心配をかけたくないと思うことが通常なのです。

助けてもらいたいと思う反面、知られたくないという矛盾した気持ちに苦しんだことでしょう。初めから孤立しているのではなく、このような集団加害がなされることによって人は孤立していくのです。

木村響子さんがインターネットに花さんの攻撃を書き込んだ人たちを相手に提訴をするようなお話があります。母親のお気持ちを考えれば当然のことだと思います。

ただ、私たちは、ネットの書き込みをした人と同じ行動をしてはならないということを肝に銘じるべきだと思います。世界を独裁にして戦争をするのか、罪のない人を人間扱いしない攻撃をするのか、それを決めるのは、私たちが本能のままに誰かに迎合して怒りを持つことを続けるか、理性で自分の感情をコントロールして迎合している人たちを鎮める行動をとれるかにかかっているともいえるかもしれません。

怒りを持つ構造、見ず知らずの関係のない人に対して怒りの純粋形態をぶつける構造がおよそ人間には遺伝子に組み込まれている可能性があるということをあらかじめ知るべきです。つまり、自分たちにも同じ行動をする可能性があることです。これを自覚し、怒りを感じたときに、もしかしたら現代社会ではデメリットしかない迎合による怒りで誰かを傷つけているのではないかということを予め注意することが、むやみに他人を傷つけない社会を作ることなのではないかと考えています。気が遠くなる道筋でしょうけれど、これを自覚しなければ人類は滅びるところまで行く可能性を持ってしまったということなのだと思います。

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