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シリーズ3 人間は他人に自分をどのように扱ってほしいと期待をしてしまい、そして深く傷つくのか 現代社会が人間の心にマッチしていない構造であること 家族仲が良くても職場の人間関係が原因で自死が起こる理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]

<問題の所在> 人間関係が原因で精神的に追い込まれてしまう実態の存在

過労自死の事例などを担当すると、例えばパワハラをする上司だったり、例えば不当な査定をする上司だったり、あるいは執拗に攻撃を続ける部下だったり、逃げ場がないほど追い詰められてしまうことがあります。その結果、精神障害を発症したり、自死に追い込まれたりしています。

逃げ出せばよかったのにとそういう声をよく聞きます。

しかし、うつ病になったり自死したりした本人だって、自分を追い込んだ相手がそういうつまらない奴だということが頭ではわかっています。叱責を受けても自分が悪いわけではなく、相手の性分によって苦しめられているということも知っているようなのです。でも、自分だけが攻撃を頻繁に受けてしまっているうちに、とても深く傷ついてしまい、なんともならないという絶望を感じるという無防備な状態で攻撃にさらされてしまっているような状態になるようです。


そうしているうちに、その人間関係から逃げ出すという選択肢が消えて行ってしまっているようです。
逃げ出せばよいことがわかっていて、逃げ出すことが物理的には可能だとしても、実際は逃げ出すことができなくなっているのです。

<問題提起>
これはどういうことでしょうか。
・ つまらない相手から攻撃を受けて精神的に追い込まれる理由
・ 攻撃する相手との人間関係を断ち切れなくなる理由

<解答の仮説> 1 精神的に追い込まれる絶望のメカニズム
どうやら人間は、一定条件の下が成立してしまうと、他人に対して自分を仲間として尊重してほしい、尊重して接してほしいという期待をしてしまう生き物のようです。

パワハラ上司や学校でいじめをしている同級生にさえ、自分を尊重してほしいと期待をしてしまうのです。そして当然のごとく、そんな相手に対する期待は裏切られてしまいます。このため絶望してしまい、自分の仲間の中での人間性が回復することが不可能だという意識を持ってしまう。そうしてその絶望に耐えられるようには人間は作られていないため、精神が破綻したり、それによって自死に追い込まれたりするようです。

<解答の仮説> 2―1 他者に期待してしまう心の由来
どうして人間はつい他者に期待してしまうのでしょうか。期待さえしなければ裏切られたり絶望をしたりしないで済むはずです。

人間の心が生まれたとされる今から約200万年前の環境を理解すれば簡単に理解できます。

心ができたとされるおよそ200万年前から今から数万年前まで、つまり約200万年間、人は数十人から100人ちょいプラスの群れを作って暮らしており、原則として単一の群れの中で生まれて、そして死んでいったと言われています。小動物を狩猟して植物を採取して生活していたため、狩猟採集時代と言われます。
言葉のない時代に、どうやって群れを作ることができたかがポイントです。

私は以下に述べる、心(行動傾向)を持っていたことで群れを作っていたと考えています。
① 群れの中にいたいと思う心
② 群れから外されそうになると不安になる心
   仲間の表情や行動で自分に対してどう思っているか感じ取る能力があった。仲間の行動から、仲間の自分に対する感情を察することができた。
③ 自分が所属する群れを維持していきたいという心
  群れの弱い部分を手厚く守ろうとし、平等に分け合おうとし、結果として群れの頭数の減少を防いだ。群れで活動する場合、その活動のリーダーに従い、群れ全体が統一的に動こうとする心があった・
こういう「心」という強力なツールがあったから群れを形成できたと私は思うのです。

狩猟採取時代であっても、人は進化の過程で共感力(ミラーニューロン)を獲得しました。四六時中一緒にいるし、そのメンバーも高々100名ちょいのために一人一人の性格を把握していたので、誰がどんな気持ちでいるのか、言葉が無くてもよくわかったことでしょう。群れの誰かがひもじい思いをすれば自分もひもじい思いをして、わずかな食料だとしても分け合ったことと思います。誰かがけがをして動けなければ、自分が痛みを持ったように感じてその人の負担をなるべく減らしてあげようとしたとも思います。こういう意味で自分と群れの中の他者とがあまり区別できないような状態だったのでしょう。結果的には完全な運命共同体として仲間を形成していたのだと思います。自然にお互い助け合っていたのです。こういう心をもつこと、こういう行動様式が、厳しい自然環境の中で、攻撃力も防御力もそれほど高くない人間が生き残るためには不可欠だったはずだという考えです。

表現を変えれば、このような仲間をわがこととして大切にする行動様式、心を持っていた人の群れだけが厳しい環境を生き抜くことができて、子孫を作ることができたということになると思います。

それは狩猟採集時代の人間の環境の話なのですが、人間の頭蓋骨はその最初のころの200万年前とそれほど変化がないそうです。ここから考えると、人間の心(脳)は、その時のままだということになります。基本的には、現代の人間の心も狩猟採取時代のように仲間を我がことと区別しないで助け合うようにできているのだと思います。

そして、ある条件を満たすと、人間は他者を見ると、つい狩猟採取時代の仲間と同じように自分を扱ってほしいという期待をしてしまうことがあると考えています。

<解答の仮説>2-2 心は変わらないのに環境が変わった
これが現代人の悲劇の根本原因であると思います。

現代では、人間は自分の能力をはるかに超えた多数の人間とかかわりを持ち、家族だけでなく、職場、学校、あるいはインターネットのつながり、子どもを通じてのつながりなど、複数の人間関係に同時に帰属しているという環境の変化があります。狩猟採取時代の群れの仲間は自分と全く利害関係が一致していた運命共同体で、唯一の仲間たちですが、現代は家族でさえ利害対立が起きる可能性のあるような、取り換えの効くような希薄な人間関係になっています。複数の人間関係に同時に所属しているために、どこかの人間関係を大切にしようとして別のどこかの人間関係を犠牲にするということも避けられない場合も少なくありません。また、インターネットを通じて知り合ったつもりになっている人間が、実際はどこの誰だかわからない人間であることも珍しくありません。

そのすべての人間関係、出会う人間すべてにおいて、狩猟採取時代の群れの仲間のように自分を尊重してもらいたいと思ってしまったら、期待がいとも簡単にいつも裏切られてしまうことは目に見えています。そして、期待が裏切られることで、自分はその群れから追放されようとしているという不安だけを感じ、解決不能の絶望の感覚に簡単に陥ってしまうことでしょう。私たちの心は、現代社会においては極めて危険な状態にさらされているということになると思います。

ただ、常日頃は、人間も学習をしているので、無駄に傷つくような期待をするということは少ないと思います。仮になんとなく、だれかれ構わずに自分を特別扱いしてほしいと思うことがあっても、実際にはそれを要求することもありません。その要求が実現しなくてもそれほど苦しむことはありません。

<問題提起>つい狩猟採取の心が肥大化する条件を考える意味

どうやら一定の条件が生まれてしまうと、多くの人間が、相手に対して狩猟採取時代の仲間に対して思うように、どんなことがあっても自分を許してもらいたいと思ってしまうし、命を懸けても自分を助けてもらいたいと思ってしまう自分の心にストップをかけられなくなってしまうようです。

それならば私たちは、つい群れの一員として扱われたくなる条件を予め頭に入れておけば、無謀な要求をしてしまう前に自分をセーブすることができると思います。そうすれば必要のない絶望を感じなくて済むと思うわけです。これが現代人には必要な生きるための知恵ではないかと思うのです。

命の危険にさらされている場合ならともかく、そうでない人間関係の中で立場がなくなりそうな場合は、命の危険はありません。命について絶望的な事態になるならば、精神が破綻することによって苦しみを緩和させてくれるかもしれません。しかし、クールに見た場合、人間関係の中の絶望は、無駄な絶望、無駄な精神破綻だと言わなくてはならないと思うのです。

<問題提起> 狩猟採取の心が肥大化する条件とは

では、どういう場合、人間は、他人に対して狩猟採取時代の仲間として扱ってほしいと思うのでしょうか。

<解答の仮説>1 狩猟採取時代の仲間を連想させる関係

<近くにいる時間が長い相手>

一つは、相手と狩猟採取時代の群れと同じような感覚になる人間関係の場合です。つまりは、どうやら日ごろ接触する機会が多い相手ということになります。家族、学校や職場あるいは継続的なボランティアなどの人間関係です。
職場の取引相手は、一般的には利害が対立する相手だと警戒するでしょうからあまり要求が高くならないようですが、同じ目標に向かって共同行動をするようになると他者の人間に対しても要求度が高くなるようです。

<友人関係>
友人という関係では要求度が高くなるようです。学校でいじめがある場合でも、いじめの加害者に対しては、初めから敵対的な関係にあるから期待度は高まりにくいのですが、傍観している友人に対しては、自分をかばってほしいという要求度は高くなります。しばしば、いじめ被害者はかばおうとしている友人の行動を過小評価してしまう現象がみられます。おそらく要求度が高くなってしまっているので、自分の供給度に満たない友人の頑張りが評価できなくなるようです。

だから友人だと思っていた相手からいじめを受けると、かなりダメージは強くなるようです。

<解答の仮説>2 一人なのに群れ全体からの攻撃だと感じる場合

<その人間関係の権威者>
人間関係の中の権威者、会社の上司、学校の教師、ボランティア団体のトップなどからの攻撃も精神的なダメージが強くなるようです。権威者と言っても権威の裏付けのあるような人間でなくても、平等、公平な扱いをするべき立場の人間であれば、中間管理職であったとしても、つい要求度が高くなってしまうようです。このような相手からの攻撃は、その人間関係全体からの攻撃だというような感覚を持ってしまうようです。例えば会社の上司が課長だとするとその課全体から追放されているような感覚を受け、クラスの担任からの場合はクラス全体から白眼視されているような感覚を受けるようです。

<保護者・監理者>
権威者とは少し違うのかもしれませんが、自分を保護、管理するべき人物に対しても期待が大きくなるようです。例えば病気を診てもらっているときの医師、看護師、例えば法的紛争があって依頼をした弁護士というところでしょうか。

<解答仮説>3 自分が大切に思っている人間関係

また、自分が攻撃を受ける人間関係が、本来その人が大切に思っている人間関係であったときにも、その人間関係からの攻撃は強い精神的ダメージを受けます。宗教とかボランティアとか、その人が人生をかけて取り組んでいることを一緒に行う人間関係で、裏切りのような攻撃を受けることは精神的に強いダメージを受けるようです。将来に向かって絶望を感じやすくなるようです。

大切な人間関係だからこそ、その人間関係にいることがその人の自分自身を支えるよりどころになっているのでしょう。だからこそ、その人間関係にいつまでも所属していたいと思うわけです。特にその人間関係の中で自分を大切にしてほしいという期待も大きくなるのだと思います。

<解答の仮説>4 本人の状態によって期待が増加する

これらの期待は、その人の個性によって期待の強さが変わることはもちろんです。

その他に、その人が置かれた人間関係の状態によっても左右されるようです。
つまり、どこかの人間関係で、追放されんばかりに攻撃を受けているときは、その他の人間関係において、期待や要求が大きくなることは理解できると思います。さらに、自分を攻撃している人間関係に対しても期待が大きくなってしまうようなのです。

ここがポイントだと思うのです。
理不尽な攻撃を受ければ受けるほど、人間は反射的には、あるいは本能的には、その攻撃を行う人に自分が群れの仲間であることを承認してほしいと強く期待してしまうということなのです。だから、精神的にダメージを受けた後になってしまうと、その群れから離脱しようとする選択肢が失われてしまうのだと思います。
おそらく狩猟採取時代の心に戻ってしまっていますから、およそ人間関係は、自分にとって生涯唯一の人間関係だという感覚になってしまうのだと思います。ここから外されたら天涯孤独になるという意識が根底に流れだしてしまっているようなのです。

<問題提起>期待とは具体的にどのような期待するのか

では、狩猟採取時代の仲間と同じように接してほしいというのはどういうことでしょうか。

<解答の仮説> 攻撃をしないでほしい、助けてほしい

端的に言うと、自分を攻撃しないでほしいということです。
理由のない攻撃だけでなく、自分が失敗しても、自分に不十分なところがあっても、自分に欠点があっても、責めないでほしい、批判しないでほしい、攻撃しないでほしいという気持ちになるようです。自分を許してほしいと願うようです。

攻撃しないでほしいということもそうなのですが、攻撃されている自分を助けてほしいと思うようです。これをしてくれないと、自分は見捨てられたと強く感じるようです。

おそらく狩猟採取時代、人間は群れの仲間が無ければ極めて自分が頼りない存在だったのでしょう。仲間の中にいて、初めて安心することができたのだと思います。仲間は自分を安心させてくれる存在ではなければだめだったのだと思います。

前にも書いたのですが、プロ野球でデッドボールを受けるなどのきっかけで乱闘になるときに、必ず両軍の選手たちが自分のチームメイトを助けようとグランドに出てくるのも、このような人間の特質に添った行動なのだと思います。
デッドボールで選手全員がグラウンドに出てこなくてはならない切実な理由
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-03-23

おそらく、狩猟採取時代に誰かが肉食獣に襲われたら、群れの仲間は自分の危険をかえりみずに肉食獣に襲い掛かったのだろうと思います。人間がそういう特質を持っていたために、仲間が総動員で肉食獣に反撃をしたのだと思います。そうすると、ちょうど肉食獣を袋叩きをするような感じになるので、肉食獣もたまらず逃げ出したと思います。
ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-06-19

人間は、本能的に仲間の中で自分が尊重されることを望んでしまうし、仲間を大切にしようとしてしまう、また、自分を攻撃する相手に対してもつい自分を仲間として尊重してほしいと思ってしまうという特徴を持っているということを意識するべきだと思います。

<狩猟採集時代の心が現代社会でどのように傷つくのか>

ところが、現代社会は大量の人間とかかわりを持つようになっており、その一人一人を狩猟採取時代の群れの仲間として丁寧に尊重することはできません。人間は、極端に言えば自分を無きものにしようとする相手にすがってしまう性質があることになってしまいます。狩猟採取時代にはなくては生き残れなかった心というツール、合理的なツールが現代社会では人間を苦しめているし、致命的な精神打撃を与えていると言えるでしょう。まさに現代社会では心と環境がミスマッチしている状態だと思うのです。

<現代社会で傷つかない方法、傷ついても致命的な打撃を回避する方法があるとすれば>

対処方法として一つ考えがあります。それは、この人たちは信じて行こうという仲間を一つ作ることです。この人たちに裏切られたら仕方がないと思える人間関係を作るということです。そして、そのコアの仲間に対して全力で奉仕する。絶対あなたを見捨てないという気持ちをもって、その人の失敗、不十分点、欠点を責めない、笑わない、批判しない。この人間関係にいることで安心してもらう働きかけを行うことです。そして、他の人間関係で不具合があっても、その人間関係が円満ならばそれでよいと割り切るということです。その他の人間関係はいつでも辞めるという選択肢を持ち続けるということです。

コアな人間関係があることによって、コアな人間関係を大切にする習慣によって、他の人間関係で不具合があっても、ここで自分が崩れたらコアな人間関係に悪影響が及ぶということを常に考えるわけです。そして、コアな人間関係を守るために、その他の人間関係を切り捨てるという選択肢を持ち続けることができるのだと思います。

これは意識して習慣づけなければうまくいきません。自分を攻撃する人間関係にしがみついてしまうのは、本能的に起きてしまうことだからです。「理性的にいくつかの人間関係を取捨選択したうえで、一番大切な人間関係で不具合が生じたので回復しがたいほど悩む」というわけではないということです。つい、はずみで狩猟採取時代の心が発動してしまうだけなのです。複数の人間関係に所属しているということに人類は対応できていない、進化の途中だということです。

誰かが自死したからと言って、その関係者、遺族が、自分がいながら自死が起きたとショックを受けることがありますが、それは無理な話です。自死者は、既に自死の前には、狩猟採取時代の心に支配されていただけだという説明が、私は科学的だと思います。

そしてコアな人間関係とするべき最もふさわしいのは、現代社会においてはやはり家族なのだろうと思います。無条件、無私の奉仕が一般に行われているのも家族だと思います。家族の仲間は本来は取り換えの効かない存在であるべきでだと思います。この立場からは、不具合があれば家族を壊すのではなく修正するということが第1に行われなくてはならないと思います。

現代社会が複雑になればなるほど、家族の価値が浮き彫りになっていきます。

それだけに、家族を壊す、家族を分散させる大きな力が罪深いことなのだと常に感じているところです。法律はともかく倫理的には、何かの被害者は個人ではなく家族として把握するべきです。国家も社会も、そして家族の一員たちも、家族のかけがえのなさに、もっと注意を払い、関心を持つべきだと思っています。そして、現代人にとって家族がコアな人間関係にするためにはどうしたらよいかという研究を行い続けることが、現代人にとっての喫緊の課題であり、永続するべき課題なのだと思っています。

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