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聴覚障害者の職場でのノーマライゼイションと対立概念としての差別 差別は差別しているという意識が無くても相手を苦しめているということ [労務管理・労働環境]


差別は人の心に深刻な影響、打撃を与えて、それが当然視されて温存されると、精神を破綻させてしまう恐れもあります。様々な差別の解消が、現在提起されています。大変良いことだと思います。ただ、どうしても私から見ると、声の大きい人たちの差別ばかりが取り上げられており、予算をかけて解消されようとしているような印象があります。私は、聴覚障害者の労働災害事件を担当したことを踏まえて、聴覚障害者が健常者に混じって働くために必要なことがまだまだあるということを痛感しました。このことについて述べたいと思います。
序 前提として障害の内容は千差万別
まず、最初に申し上げなければならないことは、聴覚障害者の障害の内容、程度は、各聴覚障害者によって異なるということです。Aさんは、同じ条件で聞こえていたのでBさんも聞こえるはずだとか、Cさんはこれが聞こえなかったのでDさんも聞こえないはずだとか、そういう「聴覚障害者」というひとくくりでは障害の内容は把握できないということです。
今回お話しするのは、具体的な一人を想定してのことですが、実際の方については、その人の状況をよくリサーチすることこそが一番大事だということです。
そして、その際には、聴覚障害者は、健常者の聴覚の状態がわからないので、何ができて、何ができないのかは、障害を持つ人にはわかりづらいということを理解する必要があります。まず、これまでの障害者本人の経験を踏まえて、自分で自覚している障害の内容を個別に聴取することが大切です。次に、日々職場で活動している中で、何ができて何ができないのかについて判明したことについて、職場と本人との共有をこまめにしていくということも大切だということです。
1 聴覚障害に関する誤解1 小さい音が聞こえないという誤解
  聴覚障害についての一番ポピュラーな誤解は、「聴覚障害というのは、小さな音が聞こえないのだろう。だから、大きな声で話せば聞こえるはずだ。」という誤解かもしれません。
  確かに聴覚障害という場合は、小さな音が聴き取りづらいということは一面の真理です。しかし、では、大きな音なら聞こえるかと言うとそうではありません。
  例えば、一対一で面と向かってお話しした場合が、一番聴き取りやすいようです。これと違うのは聴き取りにくくなります。極端に言えば後ろから話しかけられた場合、例えば車座になってめいめいがめいめいに話しかけているような場合は聴き取りにくくなるようです。話す方が、他の作業をしながら顔は手元に向けて障害者に話しかける場合も、話しかけられていることが分かった後でも聞き取りにくくなるようです。
  実はこれと同じ傾向は、健常者にもあります。何かの作業に没頭していて不意に話しかけられても気が付かなかったというご経験は誰しもあるでしょう。また、急に話が変わってしまうと話について行けなくなることがあると思います。ずっとお酒の話をしていたのに、前触れが無く突然天気の話に変わってしまったら「何か話しているな。」ということはわかっても、全く言葉が頭に入らなかったこともご経験があると思います。
  聴覚障害のある方は、この音が耳に入るが言葉として気が付かないということが健常者よりも頻繁に起こりやすいようです。
  人間は、音がしているという音をすべて耳を通して脳が拾ってしまっています。しかし、脳の中で、これは言葉として意味がある音、これは雑音と自然に区別して言葉だけに神経が集中しやすくなっているようです。そして、言葉の意味を脳で認識して、発言者の発言内容を理解するようです。
  聴覚障害者は、この区別がうまくできない人が多いようです。だから、視覚などでこの人がこちらに話しかけていると感じて、「よし意識して聴き取ろう!」と思って半ば意図的に区別をするという作業をして聞いているようなのです。どうやらここがポイントではないだろうかと思うようになりました。
  このことを示すエピソードがあります。デジタル補聴器とアナログ補聴器です。アナログ補聴器は、値段的には求めやすい補聴器です。しかし、雑音も言葉もすべてが音が拡大して聞こえるようになっている仕組みです。声も聞こえるのですが、その他の音も聞こえてしまうので、声が音の中にうずもれてしまう傾向があるようです。デジタル補聴器は、イコライザーが内蔵されており、主に声が拡大して聞こえるようにはなっているようです。聴覚障害者としてはデジタル補聴器を使う方が聞こえやすいことは確かです。しかし、デジタル補聴器は値段が高額で、何らかの補助が無いと片耳分だけで数十万円かかってしまうそうです。アナログ補聴器よりは格段に聞きやすいということですから、集団の中で働く場合はデジタル補聴器を使うべきですが、お金の問題が障壁になっているようです。何とか国の方で、合理的配慮をしてデジタル補聴器を求めやすくしてはもらえないかと思う次第です。
  ただ、デジタル補聴器にしても、聴覚障害者は健常者に比べて、言葉の意味を理解するまでに若干時間を多く必要とするようです。
  どういう場合に聞こえて、どういう場合に聞こえないかということは、一人ひとり違いが大きいようです。最初に一通り聞いて、あとは仕事をしながら発見し共有することが大切だということは前にも述べたとおりです。聞こえないという場合は、それを理解して記憶するように努めることが第一です。前同じような状況で同じ程度の音量で話したら聞こえたから、今度も聞こえるはずだという思い込みはくれぐれも行わないこと。自分の声以外の条件によっては聞こえたり聞こえなかったりするということがあるということです。例えば気圧も関係するかもしれません。もっと簡単には、他の音の状況に違いがあるかもしれません。前聞こえたときは、その部屋で聞こえる音は、話者の声だけだったかもしれません。聞こえないときは、別の人も話をしていたかもしれませんし、車が通っていたかもしれません。聞こえているはずだという思い込みが一番障害者を傷つけることになります。
2 聴覚障害に関する誤解2 どこが聞こえないか本人はわかるだろうという誤解
  はなはだしい職場になると、「聞こえなかったから聞こえないと言え」と聴覚障害者に対して冷たく当たる職場があります。この発言が無茶苦茶だということを理解することは、実は骨を折ることです。この発言には、論理的前提として、「聴覚障害者が、誰かの話を聞いた時、自分が聴き取ったところと聞き取れなかったところを自分で自覚しているはずだ」という考えが忍び込んでいるということです。自分が相手の言葉をよく聞き取れなかったということを知っていたのだから、聴き取れない部分について聞き返せということです。こう整理すると、なるほどひどい話だと分かるのですが、実際の例を挙げると、なかなか難しいことがわかります。誰かから事務連絡Aと事務連絡B、そして事務連絡Cの話を聞いたとしましょう。AとCの内容については聴覚障害者が聴き取っていて、上司に報告をしたとしましょう。Bの話は報告しませんでした。上司としては、AとCの話を聴き取っていたのであれば、Bの話も聴き取っていたと思うのはある意味自然のことのような気がします。あとでBの話もあったということを上司が知ったときに、当然部下の聴覚障害者に対して、「どうしてBの話の報告をしなかったの。」と尋ねることも自然な話でしょう。これに対して、Bの話を聴き取っていないということは実はありうる話です。Bの話がAの話とは全く関係のない話で、突如話題転換があったような場合、あるいはBの話をしたときに誰かが別の話をしていて同時に聞こえてきたような場合等、Bの話をしたこと自体を認識できない場合があるようなのです。この時、話があったということがわからないのですが、上司に対しては、何と答えて良いかわかりません。職場の中で聴覚障害の実例のフィードバックが十分に行われていないときは、自分がどうして聞こえなかったのかについて、自分でも理解できていないからです。すると、答えは、「聴き取れませんでした。」と言うしかないのです。本当は「Bの話があったという認識はありません。」と答えることが「正解」なのですが、Bの話が合ったことが前提として話が進んでいるので、正解を回答しずらい状態になっています。また、上司が「どうして認識できなかったのか。」という無茶な質問を素朴に行いますので、障害者は「聴き取れませんでした。」と回答せざるを得ません。そうすると、「聴き取れなかったことは、繰り返し聴いて確認しろ。」という無茶な指導を素朴に行うことになるわけです。
  つまり聴覚障害者は、話が、報告しなければならない事項を話されているのか、話のない「間の状態」なのかを区別できない場合があるということなのです。
  職員間において、部下である聴覚障害者から上司に報告してもらいたいということはあると思います。できるだけメモを作って渡しながら説明をするべきです。あるいは、最後に3点の報告をお願いしますと言って、復唱させるなどの方法をとるべきです。これは、聴覚健常者どうしでも伝達ミスを減らすためには有効だと思います。
3 聴覚障害者を困惑させる職務慣行と意識
  聴覚障害者に対して合理的な配慮ができない職場の体質というものがあります。業務の繁閑ではなく、その職場の慣行、体質というものが、結構長期間にわたって継続しているようです。
  例えば、複雑な基準で対応を変える場合、社長と常務が来室した場合はお茶を出すけれど平取締役にはお茶を出す必要が無いとか、取引先のこれこれにお茶を出すけれどこれこれには出さないなんてことは、一回聞いてわからなくても当たり前のような気がします。特に聴覚障害者に対しては、口頭で説明したから、その通りやらなければ叱責するということではだめだと思います。音で聞いてもなかなか理解できないところだと思います。そういう、上司の勝手な「基準」「ルール」は、きちんとメモを作って部下に渡すべきです。
また、取引業者や顧客に対しての対応の場合は、定型的な聴取をする場合などは、聞き取り票を作り、最低限必要な事項はチェックや単語の書き込みとして、メモを完成させやすくするなどの工夫が必要だと思います。これも聴覚障害者に限らず職場のミスをなくすために効果的だと思います。
  また例えば、聴覚障害者は、言葉の意味を理解するまでにタイムラグがあることがあります。そして、よくわからないのに自分なりの解釈をして回答をしてしまう場合もあります。いわゆる打てば響くという状態にならないことが頻繁にあります。迅速な処理、迅速な対応が当たり前の職場では、予想外にレスポンスに時間がかかるとイライラしてきます。さすがに舌打ちしたり、遅いと怒鳴りつけるということは無いと思いますが、案外待っている間に眉間にしわが寄ったり、声が高くなったりすることがあるようです。
  このようなイライラがあると、障害者に問題が無いところでも障害者の部下を攻撃しようとすることが出てきたりします。あまりイライラを自覚できないようですから、別の部下なり同僚なりにチェックしてもらうことが有効です。あるいは、聴覚障害を持つ部下に対しては、上司と聴覚障害者だけのやりとりだけでなく、上司の補助者を置くということも有効です。イライラしだしたら補助者が引き取って、上司に変わって説明をするという方式です。この方式は、できる限りすべての職場で行われるとよいですね。聴覚障害に限らず、新人教育などでも、パワハラ防止に有効だと思います。
  いずれにしても、聴覚障害者が何ができて何ができないかということを常に点検し、理解を共有するということが第1です。次に、聴覚障害があっても、自分たちが合理的配慮をすることで、障害者が自分の持っているパフォーマンスを職場で発揮できるようにするという使命感を持つことが第2です。これを常に持ち続けていると、怒りやイライラはだいぶ収まります。この二つが無いと、いつの間にか聴覚障害が無かったことにされて、健常者と同じ条件で評価しようとして、障害がないかのような行動を要求してしまいます。そして障害が無いかのような無茶な要求が実現しなかったことに怒りやイライラを持ってしまうという悪循環に陥るようです。この2つは、放っておくと無くなります。定期的に点検をして、共有をすることが必要だと思います。
  また、本来職場というものはそういうものだという意識を持っていくことは、取引先や一般市民を相手にする場合にもプラスになりますし、本当の意味での永続した生産性向上を保障するものだと思います。一番弱い者を守るという意識は、人間らしい好ましさを周囲にも印象付けますし、自分たち同士の結束にも役に立ちます。
4 健常者の中の聴覚障害者の孤立
  今述べた、二つの人間らしい態度をしない場合は、聴覚障害者にとって過酷な職場となります。つまり、聞こえたはずなのに聞こえないと言っている「ずるい奴、卑怯な奴」という意識をもって扱われたり、レスポンスが悪く、口頭で説明したのに覚えが悪いという意識を持っていたら、聴覚障害者の些細な言動でもイライラしてくるものです。まじめに仕事をしていないと感じたり、ちょっとしたミスをしてもしつこいくらい叱責したり、あるいは言わなくてもいい「馬鹿」とか「なにやってんだ。」とか「言い訳するな」とか、端的に「卑怯な言い訳をするな」とか言ってしまうきっかけになってしまいます。典型的なパワハラを行うきっかけになってしまいます。だんだんと不真面目な仕事の取り組みをして、言い訳ばかりする部下だという気持ちになってくるわけです。周囲指導することは上司の責務であるし、正義の観点からも許せないという気持ちになりますから言動が厳しくなることを抑制することも難しくなります。
 パワハラの被害を受ける労働者は、常にその労働者に落ち度があるわけではありませんが、ミスが多かったり、反論をしないことをもって攻撃しやすくなって攻撃をしてしまうということがあります。障害を持っている人たちは、攻撃されやすいと言えるかもしれません。もちろん障害を原因に叱責しているという意識を持つ人はいません。正義とか合理性とか社会的常識を理由にした感情形成なのです。致命的な話としては、そこでは障害が無かったことにされているということです。
 障害者から見れば、どうして自分が叱責されているかわかりません。このために、「実は障害に対してイライラしているんだ」ということには気が付きにくいのです。できて当然のことを自分ができないので叱責されているという意識になることが通常です。健常者に対するパワハラも同じ構造で自分が悪いから叱責されていると思い込まされています。イライラからつい言ってしまう、「馬鹿」とか「何やってるんだ」とか、「まじめにやれ」という言葉は字面通りの意味として受け止めてしまいます。障害に対してイライラしているだけなのに、自分が人間的な問題で上司から疎まれている、嫌われているという意識になることは当然です。上司から嫌われているということだけで、人間は職場全体から嫌われているという受け止め方をしてしまうものです。
 上司だけでなく、同僚も障害に無理解の場合は、同僚も上司からの障害者に対する叱責やパワハラに共感してしまいます。誰も上司を止めようとしないことが起こりますし、さらに上司の叱責の後で「ひどいよね。」とか、せめて「大丈夫?」とかいう人間も現れないことが多いです。上司が無理解であれば、部下に理解を促す人がいませんので当然でしょう。さらに職場全体から嫌われているという気持ちが強くなる大きな事情です。不思議なことですが、通常であれば「部下がミスをしたからと言って、上司は部下の人格を否定する言葉を発してはならない。」という意識を持てるのですが、聴覚障害によってミスをして仕事が遅滞したり、同僚が自分が変わってやらなくてはならないなどということが重なれば、「上司がそのようなことを言ったのは、その人がミスをしたから仕方がないと思う。」等ということを平気で言うことが多いのです。パワハラの同僚に対するアンケート調査なんてそういう恐ろしい発言のオンパレードです。
 そもそも聴覚障害者は、同僚と交わることが苦手です。前に言った通り集団で雑談をすることができない人が多いからです。自分以外の人たちが打ち解けて話しているなということはわかるのですが、自分はその中には入れないというあきらめの気持ちを多く持っています。
 会社ですから、全体に向けて話さなければならないことも多いと思います。一対一で話治すということができないこともあるでしょう。そういう場合でも聴覚障害者に対して顔を向けて話して、健常者には話だけ聞いてもらうなどの工夫が必要だと思います。また、補助的に聴覚障害者に対して個別に説明をする人を配置することも検討するべきです。
 日本は、安倍内閣の時に障害者差別解消法という法律を作って、障害者に対して合理的配慮をすることによって、差別を解消し、障害者の社会参加を促そうとしています。ところが、肝心の職場の合理的配慮が、公的な職場においても極めて不十分な状態です。障害を持った方々は、健常者に混じって働くことによって、精神的に深いダメージを受けることがあるようです。かえって仕事をすることによって精神的に傷ついている可能性があるのです。
 もっと障害者の研究が行われるべきです。どういう障害があり、その障害をカバーするためにはどうするかという研究です。そうして、障害があることを克服できるような体験をもっともっと共有するべきです。
 もう一つ言わせていただくと、差別とは、違いを理由に攻撃しようとして攻撃する行為だけではないということです。障害があり、その人に言っても不可能なことを強制してしまうこと、その結果相手が困惑してしまい、どうしようもない状態にされてしまい、そしてその場の人間関係の中で孤立してしまい、仲間として尊重されることが不可能だと思わせられる、そういう結果が生じることが差別なのだととらえなおすべきです。
 そうして、弱さを持っている人間に対しても仲間として尊重していく、そのためにはどうしたらよいかという知識をしっかり身につけるということが差別のない人間関係なのだと思います。そしてそれは、障害者だけでなく、仲間全体に居心地の良い空間を作るし、仲間全体を無駄に苦しめていることを排除し、全体の目的に役に立つことであることを勉強しました。報告します。


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