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人類の不安の始まりと不安の機能、現代社会が慢性的・多発的不安の温床になっているという意味 家族を意識的に心地よいものにする必要性 不安シリーズ1 [進化心理学、生理学、対人関係学]


弁護士の仕事をして、社会病理や紛争の背景を考えていったところ、
「人間は不安を抱く動物である」
という結論に行き着きました。

人間関係上に起きる紛争、犯罪、離婚、自死、破産等、何らかの形で「不安」が根本的な理由となっていると感じるのです。これから、それら各類型において「不安」がどのようにかかわっているか、現段階の考えを述べていきたいと思っています。ただ、今回は、人間の不安は、人間が人間である以上宿命的について回るということについて、説明したいと思います。

つまり、現代社会では人間は人間である以上何らかの不安を抱え続けているということです。

初めてこのブログをお読みする方々のために、何度も出てくる説明を行うことをお許しください。

人間型が動物と区別されるべき特徴として、①「群れを作ること」を上げることができると思います。但し、群れを作る動物は人間以外にも多いのですが、どのようにして群れを作るかというところは人間としての特徴があります。それは、②「不安」という「心」を用いて群れを作ったということです。

もう少し具体的に言うと
A) 独りでいると不安になり、他の人間と一緒にいたいと思う心
B) 群れから外されそうになると不安になり、群れにとどまろうとする心

この二つが大きな原理だと思います。この二つの原理は、以下の心の作用があることによって成立することができます。

・ 目の前には存在しないもの、将来的な成り行きを想像することができる心あるいは能力 
不安というのは将来的に何か悪いことが起こるのではないかという「予期不安」が本質ではないでしょうか。将来的な考察をする能力が無ければ、「現在」の状態がすべてであって、まさに今現在という極めて限定的な時間的のポイントだけが考察の対象となるはずです。このため、目の前にない将来を考える力、現在がその将来に影響を与えて関連すると考える力が必要だと思います。

・ 他者の心情という複雑な事象を理解できる心あるいは能力 共感力
自分の行動が他者からどのように見られているか、評価されているかについて、他者の気分、感情を読み取る能力が必要です。この能力が無ければ、めいめいが好き勝手なことをして、他者を傷つけたり、他者の利益を害したりしても、何も気になりません。群れから外される不安が生まれることなく、群れの中も弱肉強食の状態となり、群れを形成することは不可能だと思います。
ここで言う他者の心情の「他者」とは、親族に限らないということが、人間の特徴です。血のつながりのない個体の心情に共鳴ができるというのは、他の動物にはほとんどないと言ってよいでしょう。

・  自己の要求を制御する力
自分の欲求を制御する能力、あるいは、「自己の欲求を充足する利益」と「群れに帰属し続けるという利益」を天秤にかけてどちらかを選択する、つまり、群れに帰属することを優先とする場合には自己のしたいこと希望を制御する能力があることが不可欠になるはずです。

・ 不安を解消したいと思う心あるいは能力=不安には勝てないという限界
不安を抱いても、「まあいいか」と思えるなら、自分の好き勝手なことをやり続けてしまいますから、やはり群れは崩壊してしまいます。不安を抱くと、それを解消しようとする意思が生まれることによって、自分の行動を修正しようとするわけです。不安というものが、人間にとって他の行動原理に勝る強い行動原理になることを意味すると思います。他の利益を犠牲にしてまでも、不安を解消しようという行動選択、あるいは、動機発生としての不安があるわけです。裏を返せば、不安を抱き続けることが、人間にとってはとてつもなく苦痛であるということを示していると思います。このような精神構造が人間が群れを維持する原動力となっていたと言えると思います。

 これらの要素を持った「不安」を感じる能力を有した個体だけが、群れを作り、自分の生存を安定的に維持し、子孫を遺すことができたのだと思います。

 群れを作ることによってはじめて、小動物の狩りが可能となったようです。肥大化した脳を維持するためのエネルギー摂取が可能となりました。また、群れの中で狩りの部隊と、植物採取の部隊を分けることができたため小動物の狩りができない場合でも致命的な飢えからまぬかれたようです。

 群れを作ることによって、人間は肉食獣などから「自分たち」を守ることができるようになったようです。そこそこの大きさを持つ人間が何人か群れることによって、襲う方も襲うことによって自分の命が危険になると感じますので抑止力になりますし、一人に襲い掛かってきても、後先考えずに群れの仲間が助けに入って肉食獣を攻撃すれば、肉食獣も人間への襲撃を停止して逃げざるを得なかったと思います。そうでなければ、木に登れない、走れない、もちろん飛べない人間はすぐに滅亡していたはずです。滅亡しない理由として、このような袋叩き反撃が人間の修正であると私は思うのです。

 もう一つ大事な群れの効果があります。それは夜に休むことができるという効果です。
人間は他の動物に比べて長生きをしなければなりません。というのは、人間の生殖適齢が生まれてから十数年以上経過してからであることです。また、生まれてから親の保護が必要な年齢もかなり長いです。親は例えば18歳くらいで子どもを産んでも28歳くらいまでは生き続けなければなりません。最低でも30歳くらいまで生き続けなければなりませんので、他の動物に比べて相当寿命が長くなければなりません。

 これを可能としたのは、概日リズム(サーカディアンリズム)です。つまり、昼間は外敵から身を守るとか、小動物と戦って狩りをしなければなりません。交感神経が活性化して、逃げたり戦ったりする能力を活性化させるわけです。そうすると血管などが微妙に傷つきやすくなり、子細に見れば傷つきます。夜に副交感神経を高めて、微細な傷を修復しやすくする必要があります。本来夜こそ外敵に襲われやすいのですから、緊張をするように考えられますが、人間は群れを作ることによって、安全を確保して、副交感神経を活性化しやすい条件を作り出したわけです。これで人間のある程度の寿命を確保して、子孫をのこすことを可能にしたと思われます。

このような心が成立した時期は、認知科学や進化生物学では、約200万年前だと言われています。人間が数十名から100名を上回る程度の群れを作って、狩猟採取をして生活したと言われています。

進化生物学的に言えば、人類は進化の過程で不安という心を獲得したということになると思います。

当時も人間関係はいろいろあったと思うのですが、現代社会と決定的に違うのは
・ 群れは単一のもので、取り換えが利かないものであった
・ そのため生まれてから死ぬまで、一つの群れ同じ仲間と生きていたということ
・ 完全に運命共同体であり、他人の利益と自分の利益に区別ができないほどだった、つまり利害対立は起こりにくかった。
・ 弱い者を守ろうという意識が強かった。そうではないと、弱い者から死んでいくので、結局は群れ全体が滅亡していく。

だから、
自分が群れの誰かを攻撃しなければ誰も自分を群れから排除しようとは思わなかった。構成員のチェンジという発想自体が無かったと思います。

頭数が命なので、誰しも群れの大切な構成員という意識で平等に扱われた。

自分の弱点、欠点、失敗は個体の特徴であり、そのことを理由に排除をされることは無かった。

つまり「群れの仲間は自分を決して見捨てない」という絶対的な安心感を抱いていた。不安とは生命身体の不安が大部分であった。ということになろうかと思います。

それはあくまで、一つの群れの人数が人間が個体識別ができる範囲、つまり少人数であること、そして自分が属する群れが自分が知る人間のすべてであるという二つの条件を満たす環境の中で成立しているわけです。

このような人間関係のストレスが圧倒的に少なかった時期は、人間の心が成立して約200万年くらい続きました。二つの条件が崩れ始めたのは、大体1万年くらい前の農耕が始まった時期からです。
そうだとすると、脳の構造、心、不安の仕組みは、200万年間ほぼ変わっていないと推測できます。また、せいぜい1万年2万年程度では、脳の仕組みも変化はしません。つまり、人間は、人間関係という環境が劇的に変わったのに、不安を抱く脳の機能、仕組みは、200万年前のままなのです。

現代社会の人間関係は、学校、職場、ボランティアなどの社会的活動や、趣味のサークルに至るまで、
序列が決められ

決められた序列の下の方は尊重されません

失敗や不十分点があれば容赦なく不利な立場に落ちてしまいますし、

役に立たないだけで群れから外されてしまいます。

家族でさえもかけがえのない、取り換えの効かない人間関係ではなく

その人の弱点によって嫌われたり攻撃されたりします。

現代社会は、誰か他人がそばにいたとしても安心できることがありません。むしろ、緊張、ストレスの原因になっているようです。
一つ一つの人間関係が、ほとんどすべて、自分が群れの中にとどまるサバイバル状態です。関係が増えれば増えるほど、関係からの離脱の不安を感じる割合が増えていくようです。

インターネットという実態の怪しい人間関係でさえも、攻撃をされると、離脱の不安が発生して強いストレスになるようです。

また関係が希薄であるために、弱い人、不条理に苦しんでいる人とあなたは利害関係のかかわりがありません。その人を助けることによって、その人間関係や、他の人間関係で何らかの不利益を被るかもしれません。

希薄な人間関係では共感力が十分働きませんので、他者の苦しみをみても、それほど自分自身の心も動きません。自分の不安を感じにくくするために他者を攻撃しても何も気にしないということも起こりうるのです。

そうだとすると、現代人は、自分が攻撃されたり不利益を受けないために、他の人間から自分を守るということが必要になります。攻撃を受けたことがある人は、攻撃に過敏になりますから、勘違いで反撃に出ることも出てくるでしょう。ますます自分を守る必要性が高く、多くなります。

書いていて気が滅入るのですが、つい1万年くらい前まで群れを作り、それによって生き残ることができたという不可欠なツールが、現代では苦しみの温床になっているという、環境と心のミスマッチが決定的に生まれているようです。

つまり、関係のある人間関係の数だけ不安が生まれる要素があって、かかわる人間の数だけ不安が生まれる可能性があるということです。このかかわりというのが単なるインターネットの匿名のかかわりでも不安を与える要因になるということですから、不安の種は尽きないわけです。

もちろんこの他に身体生命の不安というものもなくなっているわけではありません。

私は、すべての人間関係が円満に営まれて、身体生命の不安以外の対人関係的不安が無くなるということは当面ないものだと覚悟するべきだと思います。多発的な対人関係の不安に対してはどのように対応するべきでしょうか。

結局
「大事な一つに人間関係を決めて、
その人間関係の中で努めて円満な人間関係を形成するということ」
が一つの解決策だと思います。そして他の人間関係は、取るに足らない、いざとなれば自分から離脱すればよい人間関係であり、代わりの効く人間関係であると強く自覚することが必要だと思います。

そして多くの人がコアな人間関係として、意識的に良好な人間関係を築くべきなのは、家族だと思います。

経済的一体性があり、近くで過ごすことが基本で、就寝を共にする人間関係、つまり、狩猟採集時代の群れに一番近い人間関係が家族だからです。

簡単に言えば、家族は変わりが利かないし、生まれてから(結婚してから)死ぬまで同じ家族であり、相手の失敗、弱点、欠点を理由に否定評価しない、家族が苦しんでいたら我が身を捨てても助けに行く、こういう1万年前から200万年前の人間関係を形成するということが答えだと思っています。

ただ、複雑な人間関係や識別不能な人数の人間関係の影響で、家族の関係も悪い影響を受けています。ほおっておけばよくなるということはありません。意識的に人間の本能的に望む人間関係を形成する行為をする必要がありそうです。
これが対人関係学の出発点です。

ところが、現代社会、特に日本では、家族を壊すことに力を入れる大きな力が動いています。この問題だけはどんなことがあっても解決しなければならない問題だと思っています。

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