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不安と宗教、マインドコントロールが成功する仕組み(不安解消要求と迎合の心理) 信教の自由の外縁を画する。自由意思と特別法による取消権規定の創設 不安シリーズ2 [進化心理学、生理学、対人関係学]


特定の団体の行為がすべて公序良俗違反となるなどで民事的に違法無効、行政的規制の対象となるとするのは、その団体が宗教的言動をしながらその実が犯罪集団ないしは教団幹部の私的利益を目的としているとでも認定されない限り難しいことだと思います。

ただ、いくつかの個別の勧誘やグッズの販売、献金などにおいて、裁判例などでも違法を認定された事案があり、違法無効とするべき事案があることも事実のようです。ここで被害者救済だけを旗印にして一切を規制してしまうと、不当に信教の自由を害する事態が生じてしまいます。だから、どこまでが信教の自由の範囲で裁判所の判断が及ばないのか、どこからが裁判所が介入できるのか限界を画する必要があります。

この限界を考えるにあたって、自由意思、マインドコントロール、そして不安の3点の関係を理解することが大きなヒントになると思います。
私の家は典型的な日本型宗教観ですから、その日によって宗教が変わります。葬儀・埋葬、盆、彼岸は仏教ですし、正月や結婚式は神道ですし、クリスマスはキリスト教というわけです。だから、一つの宗教を正式に信仰するということはとても不思議なことでした。

高校時代、信仰を持った友人がいましたので、信仰を持つことが特別なことではないということがおぼろげながらに感じられました。

無責任な断定的な仮説ですが、宗教の本質は、人間に必然的ついて回る不安の解消にあると思っています。そしてそこに正当性というか存在意義もあると考えています。

色々な宗教は、その時代的制限、地域的条件がありますから、昨今の科学的知見から見れば、信じることがなかなか難しい個別部分もあると思います。しかし、時代的制限や地域的条件を取り払って、本質的な部分を再構成すれば、現代でも多くの日本人も無理なく信仰の対象となりうると思っています。

世界三大宗教が生まれたころの不安は、主として病気や死に対する不安だったのかもしれません。現代社会は、対人関係不安が慢性的、多発的に生まれています。また、生理的な不安としか言いようのない漠然とした不安も起きています。

シリーズ1で述べたように、人間は生まれながらにして不安とともに生きる動物であると考えています。そして、人間は不安を感じると、不安を解消したくなり、不安を解消しようとする行動をとります。不安の根本原因を探し当て、この原因を除去できれば不安が合理的に無くなります。しかし、例えば死の不安のように原因を除去することができない不安もあります。また、漠然とした不安をはじめとして、原因がどこにあるのかわからない不安や、不安であることをそれほど自覚できないけれど苦しんでいるということもあります。

合理的に解決する方法が無い不安の場合は、価値観を転換するとか、考えないようにするなどの方法で不安を回避するとか、何らかの感情的処理をして不安を感じにくくするという方法が取るほかはありません。

このように合理的な解決を図れない不安の回避の一つの方法として宗教があると思うのです。

但し、不安解消としての宗教には2種類あるようです。
1種類目は、修養による哲学的な人生観の到達によって、死の恐怖に打ち克つという方法です。
2種類目は、死んでも自分という実態は無くならない、つまり天国であったり来世であったり、「自分」というものが消えてなくなることなく遺るということをただひたすらに信じるという世俗的宗教観です。世俗的宗教観とは、厳しい修養などをせずに、宗教に人生のすべてをささげるわけではなく、日常生活を営みながら信仰を持つ場合という意味合いです。

大きな宗教は、前者をきちんと持っているとおもうので、その本質は現代でも通用すると、勉強をするたび感じています。ただ、時代的制限や場所的条件でどうしても後者も含まれてしまうようです。

いずれにしても、不安回避という効果をもつという意味では同じことかもしれません。

だから、その人の不安が強ければ強いほど、宗教に専心していくエネルギーは強くなるでしょう。そして、不安の根源を、世俗的な物の所有、世俗的な人間関係の存続などに執着することにあるという教えであれば、不安解消のために物を手放すし、人間関係を絶つわけです。このような物理的な側面、外形だけを見れば、どんな宗教にも一定の共通項として存在するようです。すべての物や世俗の人間関係を捨てて、修養を積み高い境地に向かうという要素は宗教にはつきもののようです。だから、全財産を宗教団体に寄贈するということや家族と関係を絶つということをもって、信教の自由を否定することは難しいと私は思っています。

純粋な宗教は、時の支配者から見れば、秩序を乱す存在であることは間違いがなく、その歴史において国家や社会から弾圧される経験を持つ理由となっています。但し、国家からすれば、その影響力の強い宗教の利用方法を獲得すれば、これほど支配の道具となり得るものもないわけですから、国家に利用されていくということも宗教の定めなのかもしれません。但し、国家に利用される段階では宗教の純粋性は論理的に失われているということにはなるでしょう。

では、違法な宗教的外観の行為と信教の自由の保障を受ける宗教行為の違いがどこにあるのでしょうか。わたしは、一人一人の契約などの意思表示や、金銭の支払いや贈与のような行為が、自由意思に基づいていると言える場合は信教の自由の保障の対象であり、自由意思に基づいていると評価できない場合は民事的な違法であり、取り消しうる行為にするべきだと考えています。自由意思という言葉が大きな問題となっていますが、もともと自由意思ではない契約は、無効とされています。ところが、その売買や贈与が自由意思ではなかったということはなかなか証明できないことです。

このため、マインドコントロールが行われた外観がある場合は、自由意思ではないとして、献金や代金の支払いを取り消すという特別法が作られればよいと考えているのです。

どのような場合にマインドコントロールが行われるか、マインドコントロールはどのように行われるか、そんなに簡単に行われるものか、どうして他人の言いなりに行動してしまうかということを説明していきましょう。実はそれほど難しいことではないのです。

特定の宗教団体に限らず、また宗教に限らず、マインドコントロールは起きるようです。マインドコントロールが解けてしまえば、どうしてあんな話を真に受けてしまったのだろうとか、あんな活動をして親を泣かせてしまったのだろうなどと同じ一人の人間でも価値観が全く異なった考えを持ってしまいます。

例えば、詐欺なども一種のマインドコントロールが利用されています。解けてしまえばどうしてそんなあり得ない話に乗ってお金を出してしまったのだろうということになります。

例えば、最近裁判が始まった事件では、誰かから思考を支配されてしまって、誰かの望む行動をしようとする余り、自分や自分の子どもでさえも継続して虐待をして死なせてしまうこともできてしまうようです。これもマインドコントロールによる行動であり、完全な自由意思による行動ではないと評価できる場合がありそうです。

マインドコントロールは案外簡単な方法でできてしまいます。

1 ターゲットの不安を強くすることです。

不安が強くなると、不安から逃れたいという要求も大きくなります。この要求が高まってしまうと、最終的には何でもいいから不安から解放されればよいという状態まで不安を高めます。不安から解放する方法にどんなものでも飛びついてしまいたくなるようです。

不安が高まってしまうと複雑な思考ができなくなります。逃げるか戦うかという二者択一的な単純な思考で物事を評価、決断してしまいます。必要な情報を丁寧に評価することもできなくなるし、問題設定自体がおかしいということも気が付かなくなります。また、早く「正解」なり「結論」にたどり着きたいという焦りも生じます。放っておくと悲観的な考えになり、ますます不安が高じてきます。

2 睡眠不足に陥らせます。

 人間は睡眠不足になると、複雑な思考がますますできなくなります。ケアレスミスも増えていくことはご経験がおありでしょう。

3 空腹の状態にとどめます。

空腹の状態の場合、自然と危機感が高まり、思考も単純化し、悲観的な思考になじみやすくなるようです。

4 権威者からの否定評価が行われます。

人間はシリーズ1で述べた不安という心によって群れを形成していたと述べました。これが変化したものとして、群れが強く、持続的なものであろうとすることから、群れの中に権威を作り、その権威に従おうとする修正があります。
迎合の心理と名付けました。こうやって群れの秩序を作るわけです。
「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-04-21

権威者とは、特別の修養を積むとか、研鑽をするという必要はありません。周囲が、その人が権威者だとか、そのルールが正しいルールだという行動を示せば、案外単純にその人、その決まりに権威が生まれるようです。

まず社会と隔絶された空間を作ります。外部の人間が入ってこない建物で、外部の人間と電話などで連絡が取れない状況に起きます。そうすると人間は自然と近くにいる人間と仲間でありたいという気持ちになっていくようです。

ターゲットに何らかの行動や発言をさせ、権威者がそれらをことごとく否定していきます。周囲もそれに同調をすれば、ターゲットは急激に無力感に陥っていきます。同時に、不安も生じます。何とか集団、特に権威者に肯定されたいという要求が高まってしまいます。親に電話一本して状況を説明すれば、「早く帰っておいで」という一言で解けるようなバカげた否定がなされるのですが、不安、睡眠不足、空腹、社会からの隔絶と否定評価によって、ターゲットはこの仲間(マインドコントロール集団)から見放されたくない、肯定されて安心して仲間でい続けたいという気持ちに勝手になっていくのです。

そして具体的にやるべきことを指示します。
このやるべきことは、托鉢のような比較的複雑なこともありますが、体操のような体を動かすこともあるでしょうし、歌を歌わせたり、文章を読ませたりすることもあるでしょう。一心不乱に何かをやることによって、否定をされない状態を作るということなのかもしれません。こうして考える時間を奪っていくわけです。

そして、時期を見て、なんでもいいから理由をつけて、承認、肯定を存分に行います。肯定されることに飢えていたわけですから、これはターゲットにとって何物にも代えがたい救いになります。

結局、冬にストーブをガンガン炊いてアイスクリームを食べるとうまいと感じるようなそんな感じです。低めておいて高めるそれだけのことなのです。あるいは、物語の冒頭でいじめられていた少年が魔法の力で難事件を解決するというか。

こうやって、その権威者から褒められることで脳の報酬系を刺激してしまします。それだけで達成感、恍惚感を味わいやすくなってしまいます。権威者に褒められようとする行動傾向を作り出すのです。権威者に認められればこのような脳の快楽が発生するということを学習してしまうので、その快楽を再び味わおうとする力は強大なものです。抵抗することができないのは、この点です。これが依存です。脳への働きと依存行動は、麻薬と同じ原理です。

また不安があおられて作り出されていますから、権威者に肯定されることは不安を回避するための手段でもあります。権威者に肯定されれば不安を感じない状態を作ることができるという体験は、不安解消の具体的な方法を示されたということですから、飢えた者が水を飲むように権威者に肯定されようとして行くわけです。このようなモデルケースでマインドコントロールが行われれば、多くの人は加害者の思い通りに行動をしてしまうでしょう。権威者だけが本当の自分を理解していると思い込まされるということはこういうことです。不安回避も人間は抵抗できません。その上に報酬系の刺激があれば、この快楽を選択するしか方法は無くなると思います。

あとは、権威者が、自分で権威を壊すことなく、ターゲットに要求を行い、ターゲットを動かしてゆけばよいわけです。

不安をあおる論理や、不安を救済する論理なんでずさんなもので構いません。すべて善解するでしょうし、権威を疑うことは報酬を得られず、不安を高めますから自分を守るために行うことができなくなります。

だから、マインドコントロールは、ひとたびかかってしまうと、なかなか解けることができないわけです。権威を否定する親族などは、自分を攻撃する者という意識になっていますから、敵対的な考えに支配されてしまっています。理屈でマインドコントロールを解くということも、薬でマインドコントロールを解くということも難しいと私は思います。宗教団体以外の事例を見ていると、巻き戻しをしている例が多いと思います。ひたすら安心させること、決して責めないこと、自分こそがターゲットの仲間であり、自分はターゲットを決して見捨てないことを少しずつ実感してもらうことが行われているように感じています。

さて、マインドコントロールの元では、とにかく権威に迎合することが第一の行動原理になってしまっています。しかも、のどが渇けば水を飲むとか、熱い物に触ったら手を引っ込めるというような、動物的反射行為のように権威者に迎合しようとしています。そして権威者に肯定され、評価されることで、不安が解消し、脳の報酬系も刺激されます。

あたかも、麻薬中毒者に、全財産を出せば麻薬を打つとか、親と連絡を取らなければ麻薬を打つといわれて言いなりになっているようなものです。
このようなマインドコントロール下の行動や意思は、自由意思に基づくものではないと評価できると思います。但し、本当にマインドことロール下に完全に入っていたかということまで証明しなければならないと、救済は難しいということになると思います。

私は特別法を作って、以下のように立証責任を軽減するべきだと考えています。

場面としては、自由意思を奪った相手、その関連団体との間で法的効果を否定するということです。マインドコントロール下で無関係な第三者に対して被害を与えた行動について、第三者が被害を全部かぶるということは公平とは言えないだろうと思います。

前提として
A 虚偽の事実を述べるなど何らかの錯覚を起こさせて、不安を抱かせたり、不安を増大させたりした場合は、通常に詐欺を原因として取り消すことができる。
B 例えばそれが宗教団体を自称していても、宗教自体が、信者の心の安寧を計ることを目的としておらず、教祖や一部の幹部の利益を図ることを目的としている場合(それが証明された場合)は、宗教活動に伴う行動、意思表示は無効としてよいと思います。

そうではない場合でも以下の外形がある場合は、マインドコントロールのかかり具合を証明することなく、本人または3親等内の親族は行為を取り消すことができるとするべきではないかと考えています。但し、一つでもその外形があれば取り消されるというわけではなく、逆に全部その外形が無ければ取り消されないというわけでもないように考えてはいます。この辺りは決め方ですね。

1 宗教勧誘ないし宗教的行動、献金の誘因が目的ないし行為者側の想定があるにもかかわらず、宗教行為であることを隠してターゲットに働きかけて人的関係を形成すること
2 ターゲットがすでに有している不安以上に高度な不安を与える働きかけを行うこと
3 働きかけが、22時から6時30分までの間の睡眠を妨げたり、一日6時間の睡眠を妨げた上で形で行われた場合
4 働きかけが、宗教団体の施設、関連する施設で行われ、48時間以上、親族や友人との連絡を妨げて行われた場合
5 働きかけが、食事の自弁購入を妨げられた場合
6 働きかけにおいて、ターゲットの人格を傷つける行為、暴力などがある場合
7 働きかける場に宗教団体の関係者、及びターゲット群しかおらず、ターゲットが中立的人物と相談ができない状態にある場合
8 ターゲットに思考力が低下する薬物などを投与した場合

上記の時間とか要素の具体的内容については、これから議論が必要だと思いますが、マインドコントロールの成立に役に立つ行動をする場合、自由意思だという反論を封じるということが眼目です。

宗教に限らず、マインドコントロールの実態などを調査研究することによって、建設的な議論が行われることを期待します。様々な場面で役に立つ研究になると思われます。

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