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離婚理由に見るジェンダーバイアスがかかった女性側の主張  [家事]



1 子育ては女性がするもの
2 家に収入をいれるのは男性の役割
3 夫婦仲を安定、改善させるのは男性の役割。女性は男性が作った人間関係を享受する立場である。
4 DVを行うのは男性であり、女性は被害者である


ジェンダーとは「歴史的・文化的・社会的に形成される男女の差異」を言うのだそうです。数十年前からジェンダーという言葉が弁護士の業界の中でも、こなれない形で使われ始めたのを覚えています。詳細は省略しますが、その時の使われ方の印象が悪かったため、ジェンダーという言葉に良い印象を持てないままなのかもしれません。

さて、弁護士実務としては、離婚の際に、ジェンダーバイアスがかかった主張が妻側の女性弁護士から多く出され、あまりにも自分たち以外の女性を馬鹿にしていると常々思っているので、ここで女性の側から出されるジェンダーバイアスがかかった主張を提示して問題提起をしてみたいと思います。

第1は、子育ては女性がするものだという主張です。
 女性という姓は子育てをする性であることを、別居にあたって子どもを連れて出て行くということを正当化する根拠にしているように感じられます。ただ、さすがにあからさまにそのような主張するのではなく、工夫離されています。裁判所は、子どもが意識を持ち始めてからいつもそばにいた親に親権を与える「継続性の原則」をとっていますので、弁護士としては、子育ては女性がするものという主張はせずに、継続性の原則を主張しているような言い方をします。通常妊娠、出産の直後の乳児期は、母体を休ませるという意味合いもあり、母親は仕事を休んで子育てにつきっきりになりますので、継続性の原則を主張しやすいという事情はあります。
しかし最近は、継続性の原則に照らしても一義的に親権者を選択できないケース(父母ともに子どもに同程度《あるいは父親の方が多く》関与している場合が実際には結構ある。)が増える傾向にあります。こういう場合、継続性の原則がいつの間にか子育ては女性がするものという主張が顕在化してきます。
さらに継続性の原則で親権者を決めることについてももう少しち密に見直す必要があるように思われます。継続性の原則は、乳児期やその直後の時期の場合等妥当する場合もあると思います。しかし、例えばゼロ歳児から保育園に預けていて、その後は比較的同じような時間父母が子どもに接していて、子どもが就学時期に達していたりその直前の場合は、継続性の原則の妥当性はだいぶ薄弱になるように思われます。しかし、裁判所は、父母のどちらが親権者としてより妥当かという判断をしたがらないため、継続性の原則という逃げ道にすがっているという印象があります。

もっともこの問題は主たる監護者をどちらに決めようと、どちらの親とも子どもが比較的自由に交流できるようにすることで解決することが本則であるとは思っています。子どもが他方の親と同じ時間を過ごすための法制度が整備されていないところが問題の所在だと考えています。

実務の実情は、それまでの経緯をあまり吟味せずに母親に子どもをゆだねるべきだという主張があまりにも多いのが実情ではないでしょうか。実際は子育ては女性がやるべきだという考えに立っているという批判も可能だと思います。
この考えをさらに進めた考えが、子どもに関しては母親が決定権を持っているという子ども支配の論理です。子どもの独立した人格や感情などは一切考慮されていません。子どもが友達や父親、親戚、それだけでなく住み慣れた家や遊び道具からも突然切り離されることになっても、そんなこと重大なことではないとして子どもの利益をかえりみない主張も多くみられています。

ちなみに授乳期を過ぎた子育ては母親がするものだということは、人間に限っては生物学的にも誤りです。人間以外のほ乳類にはそのような育児がよく見られますし、ニホンザルやチンパンジーなども子育ては母親が行っていることはその通りです。しかし、ホモサピエンスに限らず人類は、妊娠出産、授乳を例外として、子育ては群れが行うという方式に進化しました。子どもは母親以外の大人たちからも子育てをされ、群れの大人たちの影響を受けて成長するのが人類の特徴です。
母親が主として子育てをするべきだという考えは、戦争遂行を主眼として明治期に国によって作り上げられたまぎれもないジェンダーバイアスです。

第2は、外で働いて収入を得る責任は父親にあるという考え方です。
私は専業主婦という考え方自体は、ありうる考え方であり、それ自体がジェンダーではないと思っています。専業主夫ということもあるわけです。子育ては、現代社会では極めて慎重に丁寧に行う必要があり、一人の大人がつきっきりで行うことにふさわしい一大事業だと思っているからです。
しかし、離婚訴訟などで主として女性弁護士から出される主張としては、子どもを連れ去って別居した場合に、その子どもが小学校以上になって、母親が十分就労できるにもかかわらず、母親の収入がないことを前提に婚姻費用の額を決めようとする主張です。男性だけが就労しなければならないという理屈はありません。女は家で子育てをするという考えも、実は明治期から戦争遂行のために作り上げられた意図的に作られたジェンダーの考えそのものです。明治期なども日本の圧倒的多数である農民は、男女の関係なく朝から晩まで働いていたわけです。男は外で働いて女は家を守るなんて言うことは、日本国民のコンセンサスにはなりようがなかったものです。

また、専業主婦の離婚理由として、十分な収入を家計に入れないから虐待だというものがあります。妻からは配偶者暴力センターに相談に行ったらそれは経済的DVだと言われたと主張があることも多いです。しかし、その場合に多い実態は、夫が低賃金だから、それしか家計に入れようがないということです。誰が見てもその収入からは精一杯のお金を家計に入れていると評価できることがほとんどです。また、お金はほとんど引き落としか夫が支払っており、妻に渡していた金額は妻の小遣いであったということもよくあります。何万円以下の場合は経済的DVだなどと家計に入れる絶対的金額を主張されても、それはあまりにも不合理で実態を見ていないケースがほとんどです。家計に多額のお金をいれられないことは、むしろ低賃金にあります。企業の責任を不問して夫だけを離婚理由として責めているのは、昨今の主張を象徴しているように感じられるところです。不思議なことにこのような主張をするのは、専業主婦の女性だという傾向がみられるように思われます。

第3が最も問題とされるべきです。妻が何も夫に働きかけないで、ずいぶん年月が経ってから、夫の嫌なところはこういうところだと抽象的に、おおざっぱな時期も特定せずに夫非難を展開し、だから婚姻は破綻している等という主張が、離婚訴訟の圧倒的多数のように感じます。

ずうっと不満だった。たまりにたまって爆発した等とよく表現される主張です。しかし同居期間中にその不満を夫に具体的に言ったことは無いようです。建設的に改善を促していたということも主張されることは少ないです。

妻は、夫の行為に不満を持ち、それを夫に告げず、夫はこれまで何も言われていないためにまさか妻が自分に不満を持っていたとは思わず理解すらできません。

結局、この種の女性の主張と言うのは、「夫は妻が何も言わなくても妻の不満を察するべきであり、その上で夫が改善するべきだ」というということを主張しているようにしか思えません。つまり、女性の機嫌は男性が作るという主張ではないでしょうか。この主張は、「女性は自分の置かれている環境を自らの働きかけで改善するのではなく、すべて夫に依存している存在なのだ」ということを言っているにほかならないのではないでしょうか。当事者の妻ご本人は、離婚手続き時は葛藤が高まっているから、このような主張になることについて気が付かないのですが、第三者であるべき弁護士がその姿勢を無批判に追随していることはなんとも情けないと思います。

ただ、なかには、実際はいろいろと妻側が関係修復の努力をしていたり、関係修復の努力ができない事情がある場合もあるのです。私は、弁護士は当事者から丹念に事情を聴取し、一度好きあって結婚して子どもまで設けたのに離婚を決意した事情というものがあるはずだという姿勢で、当事者の方の実情を、ご本人も自覚できないものも含めて言葉に編み上げるのが仕事だと思っています。このような丁寧な仕事をせずに離婚訴訟を出してしまうのは、弁護士こそが女性の幸せは男性に依存していると考えにとらわれて、それ以上の調査や考察をはじめから行わないところにあるのではないかとにらんでいます。

そのような理解をするためには、人間についての十分な勉強に基づいた考察と理解が必要です。それにもかかわらず、端的に言えば暴力についての効果について勉強していないとか、あるいは人を恐れる原理、嫌悪する理由などについての考察が全くなされていない等きめ細やかな人間の感情に興味を持っていないように感じられてなりません。単に「男性は支配欲求があり、支配のために暴力をふるうのだ」というようなあまりにも浅はかなステロタイプの志向に基づいた大雑把な主張をしているとしか感じられません。マニュアルのようなもので離婚事件を「処理」しようとしているように感じてしまいます。

フェミニズムを自称して離婚事件を担当する者が、ハーマンやウォーカー、あるいはイルゴイエンヌの原著(もちろん翻訳で構いませんが)も読んでいないのは私には信じられません。本来には認知心理学や発達心理学、及び最低限の医学的、生理学的知識が必要であると常々実感しているところです。

このような大雑把な「当たらずしも遠からず」みたいな主張が改まらないのは、裁判所がこの程度の主張でも離婚を認めるからに外なりません。つまり、離婚原因があって、離婚原因を作ったのは誰かということを丹念に検討するということをしません。あくまでも別居の事実が長く、一方当事者に復縁の意思がないということで離婚を認めてしまうところが問題です。

裁判に勝てばよいやと言う考えであれば、当事者の方々の苦しみに理解をせずにも裁判所に受け入れられるような主張を脚色すればそれでよいと考えれば、それ以上の努力を人間はしないようです。

第4は、いわゆるDVを行うのは男性であり、女性は常に被害者であるという考えです。

これは、行政などでは徹底しています。男性の被害者相談が設けられているのはまだ少数なのではないでしょうか。DVは、精神的虐待も含まれるということになりました。精神的虐待の案件は、男女差は無いはずです。また、配偶者からの攻撃によって自死に追い込まれるのは男性の方が断然多いと思います。それでも男性の被害救済はほとんど実現しません。

結局、苦しんでいる人を救おうという発想ではないのです。DV相談は、結局離婚を進めることが多いのではないでしょうか。しかも、十分な事実調査を行いもしないのに、「夫の妻に対する虐待があり、妻には命の危険がある。」という認定をするというのが、私の離婚事件の相談センターの例外のない活動です。つまり事実に基づいて苦しんでいる人の苦しみを取り除くというのではなく、相談に来たら離婚をさせるという出口しかないということです。税金を使って離婚をさせるための機関のような感覚さえ受けます。不満があれば離婚を勧め、快適でなければ離婚を勧める。

そこに女性が社会の中で自立して自己を実現していくということに対するエンパワーメントの視点も、女性一般の社会的地位の向上も考慮されていないのです。ただ、離婚先にありき、女性を夫婦という人間関係から切り離すという方針ありきという印象がどうしてもぬぐえないのです。

女性の社会的地位の恒常とか、女性の視点を社会の人間性回復に活かすとか、世界平和に影響与えるという視点はおそらく言い出したら笑われることなのでしょう。

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