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積極的人権概念の必要性と試論 令和3年文化の日表彰記念 [弁護士会 民主主義 人権]



私は人権擁護活動に対して、令和3年11月3日付で宮城県から文化の日表彰を受けました。表彰に対して感謝の気持ちを表そうとこの文章の構想に入ったのですが、既に一年以上が経過してしまいました。あまり肩ひじ張らずに、人権啓発活動の中で感じたことをまとめてみるだけにすることとしました。

1 人権の具体的な積極的概念の必要性

人権啓発活動をする際に高いハードルを感じるのは、一般の方には「人権」という言葉の意味がわかりにくいということです。大学の法学部における人権という言葉の説明として、人が生まれながらに持つ権利とか、国家権力をしても奪えない固有の権利とか、あるいは、自由権や社会権があるとか、そういう性質的なこと、側面的なことは説明がなされています。しかし、肝心の何が人権で何が人権でないかということを考えるにあたっての道具となる定義というか、人権概念というものが曖昧で、少なくとも一般の方に向けて「一言で人権とは」ということができなくて困っています。

憲法上保障されている人権カタログを列挙して、これに類するものという説明の仕方はあると思いますが、一般の方向けのせいぜい1時間くらいのお話の中で、そのような説明をしていたら時間が足りません。啓発研修は人権の勉強会ではなく、相互の人権を尊重しあって、具体的な生活の場で人権が充足されるきっかけとするということが目的です。人権ということを法学部的に説明していったら、目的にそう肝心の話ができなくなります。

特に自治体での人権啓発の場は、「家庭の中の人権」とか、「職場(学校、医療、福祉)の中の人権」、「学校の中の人権」ということがテーマになるので、ダイレクトに私人間で相互に人権を尊重すること、その実践可能で具体的な方法を述べる必要もあります。

いっそのこと人権という概念によらずに、道徳とか優しさとか善とか別の概念を用いようかとも思うのです。しかし、それでは税金で構成される予算を執行する地方自治体という公的な機関の活動としてはやや問題があるようです。法の執行という特質を反映するためにはやはり人権啓発、人権の普及という活動という枠を維持する必要があります。また、人権ということで、家庭の中の人権を尊重するということから始まり、やがて様々な人間関係の中で、人権というツールを用いて、広く相互尊重をする社会を作るという理想もありますので、やはり人権という概念はどうしても必要だと思われます。

「世界中の人間には人権を守るという大きなコンセンサスがあります。人権ということはこれこれこういうことです。まず家庭の中の人権について考えてみましょう。そしてその人権尊重を家庭の外にも押し広げていきましょう。」と、わかりやすく言えばそういうことです。だからどうしても「人権」とは何かをわかりやすく説明する必要があるのです。

2 特に積極的な概念としての人権概念の確立の必要性

人権が確立していく歴史からすると、確かに特定の人間に対する攻撃、被害があり、それをさせないために人権という固有の権利を作り上げて、人権侵害を防止し、侵害された人権を回復させるという文脈で人権概念が構築されてきたと思います。つまり侵害されてからそれが人権だから今後は侵害されないようにしようという人権概念が確立されてきたのかもしれません。

おそらく、それぞれの個別の人権概念が確立した際には、その確立した時代の考え方があり、侵害された利益を人権として擁護しようということが、最終的には権利であり、その中でも人権として社会的に承認がなされ、高められやすい素地がその時代のその社会にはあったものと思います。

憲法の人権カタログは、そのようにして尊い犠牲や権利として尊重するという運動によって整備、充実されたのでしょう。

ところが現代社会では、様々な人間関係が形成され、人間関係相互の関係も複雑に影響しあっているという意味で、人間関係が複雑になってきていると言われています。また、特に私人間の関係では、ある時は弱者になる人たちもある時は強者となり、逆もまた真なりです。過去の時代において強者としてカテゴライズされていた人たちが、現在のある局面においては弱者になるということもよくあることです。

また、それぞれの行為を、人権侵害として評価して、負の評価に固定化することも帰って解決を妨げる結果となることも経験しています。

侵害の文脈でしか説明できない人権概念は、どうしても私人間の対立が激化していく方向に働いてしまうという弱点があるようです。特に家庭とか、職場、学校等、継続する人間関係の中での相互尊重というツールには不適格な場合も多いように感じています。人権侵害が一度でもあれば、程度や行為の意図等にかかわらず加害者と被害者として当事者を対立させるという手法は、加害者の排斥という結論になりやすいために継続的人間関係においては実務的ではないと思うのです。特に日常を継続的に共にする私人間においては、威嚇により侵害を止めるという手法よりも、理想、行動心身の実践の充実感や安らぎ、安心感によって相互尊重を進めていくべきことが多いように感じています。

侵害の文脈ではなく、目指すべき理想、実現するべき概念としてという意味で、積極的な人権概念の確立こそが、日常の生活の中で相互尊重をする暖かい人間関係を形成することためには、必要なことだと感じています。

そのような積極的な人権イメージが確立されれば、人権のイメージがもっと明るくなり、人権啓発に訪れる方々も明るく参加することができると思います。具体的なヒントを提起することで、人権尊重の活動をしてみようと研修会に参加した方々の人権擁護活動の実践の契機にもなると思われます。

3 啓発における積極的人権概念試論

人権擁護委員会のスローガンとして、相互の尊重という言葉があります。考えてみれば、人権の侵害が問題になる場面は人間関係の中での場面です。もっとも、この「人間関係」はさまざまであり、家庭や職場の同僚、学校の同級生等という私人間の人間関係もあれば、職場と労働者、生徒と学校という団体と個人という文脈もあります。また、自治体、国家、社会、あるいは地球規模という大きな人間関係もあります。そのいずれの人間関係でも人権問題は生じる可能性があるわけです。

そうすると、人権問題は人間関係の中で生じるということに着目できると思います。人権侵害は、人間関係の中で人間として尊重されないことであるという言い方が可能であると思われます。

次に、人間として尊重されるということはどういうことかという、その意味を明らかにする必要があるということになります。

おそらく、人間は、他の人間から人間関係の中で尊重されて生きていたいという本能的な要求を持っているということなのだろうと思います。対人関係学は、このことを主張しています。

要約すると、文明発祥以前から人間は群れを作って生活してきたために絶滅をまぬかれた。群れを作る原理は、心である。即ち、群れの中に所属していたいという根本要求がある。この要求は、裏を返せば、群れから外されそうになると不安を感じるということで、自分の行動を修正してでも群れにとどまろうと行動を起こす。
群れから外されそうになっていると感じる方法を一言で言えば、群れの仲間として認められていないということを感じ取ることによってである。群れの仲間として認められていないということは、群れの仲間であれば当然受けるべき態度を盗られないということである。
群れの仲間であれば当然受けるべき態度とは、かけがえのない仲間であり、いつまでも群れの仲間であり続けてほしいという態度である。健康を気遣われ、体面を気遣われ、痛い思い、苦しい思い、悲しい思い、寂しい思いをさせたくないという扱いを受けることである。
これに対して、気遣われないということは、積極的に群れの仲間がこのような負の感情を引き起こす行為を自分に対してすること、自分がこのような負の感情を抱いているのに、仲間によって放置されることということになる。(要約終わり)

今から2万年以上くらい前までは、群れの仲間も数十人から百数十人程度で、生まれてから死ぬまで基本的に同じ仲間とだけ生活していた運命共同体だったものですから、仲間と自分の区別がつかないほど群れは大切なものだったと思われます。このような人間の性質、心があったために、群れが強固に結束し、助け合うことができ、群れが存続し、文明を持たなくても人間は厳しい自然環境を生き残ることができたのだと思います。

問題は、人間の脳の進化はこの段階からあまり進んでいないことです。現代の人間は、特に都市部においては敵でも味方でもない人間にあふれています。一日で家から職場からあちこちに動き回って多くの人間と接触しています。インターネットを含めると到底把握しきれない人間と何らかのかかわりを持っている状態です。それにもかかわらず、考え方、つまり心は数十名の群れで一生過ごしているときとあまり変わらないのです。

だから、相手を仲間だと認識してしまうと、自分に対して気遣いを期待してしまい、気遣いがないとか相手から攻撃を受けてしまうと、不安や焦り、ときには恐怖を抱くようになってしまうわけです。

現代社会の人権カタログもこの原理から説明できるように思います。但し、人権カタログは、国家、社会との関係で問題になることがほとんどですし、心外の程度もある程度大きなものであることが必要だと思います。
そして、人権の侵害がある場合には、制裁や補償によって侵害の回復が求められることになります。

対人関係を小さくして、継続的な対人関係を念頭に置いて考えた場合、家族、友人、同僚等の場合、侵害がなければ良いというわけではないと思います。制裁や補償の対象にならなければ多少の侵害が許されるというわけではないと思います。また、侵害をしたという方が一方的に侵害をするというよりも、どちらかと言えば双方がそれぞれ将来に向けて行動を修正するということで解決するべき案件もあるのだろうと思います。

問題は、どの人間関係に起きていることなのか、どの程度の侵害があると言えるのかというところだと思います。

特に人間活動の基盤になるような人間関係においては、侵害を防止するよりも、広い意味での人権の充足が図られるように提案していくことが必要ではないかと思うのです。

「人間関係の中で、仲間として尊重されること」を人権ととらえることを提起いたします。特に身近な仲間の中では、人権が侵害されないといういわばマイナスの出来事を防止することを目指すのではなく、ゼロの先のプラスを目指すべく、つまり、お互いに意識して尊重しあうような人間関係を形成していくことを目指すことを提起することが人権啓発の手法としてふさわしいと考えております。

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