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「私」の創り方 創るのは私  [進化心理学、生理学、対人関係学]


これを読んでいるあなたが、もし、今のご自分だけが不幸だとか、不運だとか、みじめだとか、存在意義に悩んでいるという場合に何らかの参考になればよいなという気持ちで書いています。

こうあるべきだとか、こうするのが正しいということを言っているわけでありません。一つのサンプルとしてお読みいただければ幸いです。

私はこうありたい、こういう風に生きたいという「なりたい私」があるのに、それになかなか近づけないということで苦しまれている方もいらっしゃるかもしれません。

なりたい私になろうとすることは良いのですが、そのためには自分だけを鍛えればなれるわけではない場合が多いようです。
というのは、「私」だと考えているものの実態は、実は私以外の人からの「私に対する評価」や、人間関係の中での「私の役割」や「私が結び付いている人たち」だという可能性があるということです。

この「私以外の人」(との人間関係)は、実は様々で、子どものころは家族しかいませんが、徐々に成長につれて友達とか先生とか増えていきます。若者は、一足飛びに社会に目を向ける傾向があり、社会の中の自分ということでなりたい職業とか、入りたい学校とかを考えるわけです。新しい人間関係を作ることに意欲を持てるということは若者の特権かもしれません。繁殖行動としての側面もあるように思われます。

歳をとると、新しい人間関係を作ることにおっくうになり、いつものメンバーの中での自分の立場を守ろうとするだけということはありうるかもしれません。

ただ、社会の中の自分を求めるということは、それほど古い歴史があるわけではないようです。江戸時代までの日本人の職業構成は圧倒的に農業でした。農業従事者たちはそれほど国家とか社会の中での自分ということを意識しなかったと思います。海外に目を向けた幕末の林子平は変わり者とされたわけですから、極少数派だったわけです。鎖国という問題が強調されますが、外に目を向ける人が少数だったということを物語っているエピソードだと私は思います。

江戸時代までの多くの日本国民が、「他者」と言えば自分の家や集落を意味していた時代が続いていました。この考えが変化したのは明治時代の富国強兵政策です。戦争の準備のために国は立身出世、勧善懲悪を幼いころから国民に教え込み、男子であれば兵隊になって出世して悪い外国を懲らしめるものだと教え込みました。各地から一般国民が徴兵され、日本国という大きなユニットが人々の意識に上るようになりました。日本一を目指す人が増えてきたわけです。

戦後は男女平等ということで、この社会という大きな舞台を女性も意識するようになりました。ただ、人によっては歓迎することも人によっては迷惑なわけです。家事を一生懸命やるのが自分だという考え方を公にすることがはばかられる風潮があると思います。しかし、現在女性が輝くということで、この女性に社会性を意識させようとする政策がすすめられていますが、結局、煽られた結果に行く着く先は低賃金労働だという落ちがあるのかもしれません。

戦後すぐに社会を意識させたものはテレビですが、最近はインターネットです。自分の動向を不特定多数人に向けて発信する人が増えて、SNSを利用することが当たり前のようになってきました。有益な情報もあるのですが、概ね知らなくても良いことを読まされているのではないでしょうか。その結果、これまでなら考えなかった、自分と他人を比べてしまって自分の状態に落ち込むこともあると思います。

それらのいわば社会性、不特定多数人の中での自分に対する価値評価を否定するわけではありませんが、本当に乗りこなせているのか考えてみた方が良いということなのです。

そして、家族や固定した友人関係の中で、安心して暮らすのが「私」ということでよいじゃないかと思うのです。その考えを誰からも非難されないような風潮こそ持続可能社会なのではないかということだと思います。どうも、大きな誰かの利益のために、無理やり社会という規模の他者を意識しなければならないように仕組まれているということが歴史的な流れを見て思います。

わたしにもまだ野望はありますが、意識は狭い人間関係に傾くようになっています。例えば家族の中の自分の在り方を意識して創っていくということも私の作り方なのではないでしょうか。家族とはいえ、なかなか手ごわいわけです。

若い人が社会に対してチャレンジをすることはとても素晴らしいことです。しかし、私を創る舞台は、必ずしも社会という大きな舞台だけではないし、大きな社会だけに価値があるわけではないと私は思います。どんな時でもどんな場所でも、自分のできる範囲で自分の居場所をカスタマイズしていく、周囲と円満に暮らす、周囲から頼りにされるし、周囲に大切にしてもらうということが、幸せの一つの形だと私は思います。

いつからだって、どこでだって、創ることのできる私でありますし、創ることにできる幸せなのだと思います。他人の価値観をうのみにしないで、「私」見つめることさえできれば幸せはそれほど難しくないのだと思います。

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