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迷惑動画はなぜアップされるのか 「そこまで考えていなかった」その1 [進化心理学、生理学、対人関係学]



飲食店などの迷惑動画やいじめや虐待の動画がアップされることがあります。そして案の定、警察沙汰になるわけです。どうして自分の恥を世間にさらして、再起不能にさえなりかねない動画をアップするのだろうと不思議になります。
<つまり>
1)どうして恥ずかしくないのだろうか。
2)どうして他人が苦しむことをしてしまうのか
3)後で自分の不利益になることを心配しないのだろうか。
という3点の疑問です。

例外的な変わり者がアップしているのであって、そうそうあんな動画をアップする人はいないだろうなんて考えていると、同じような動画がアップされて逮捕されたなどのニュースが飛び込んできます。例外的な話ではなく、ことによると社会現象となりつつあると考えるべきかもしれません。疑問について考えてみましょう。

一言で言えば、彼ら、彼女らは、自分が社会的な評価を受けたいという希望があるのだと思います。

通常我々は社会的評価を受けたいというと、何かを成し遂げて称賛を浴びたい等自分の実績に対するプラスの評価を受けたいということを意味すると考えます。これは彼らも彼らなりにプラスの評価を受けたいという気持ちもあるのでしょうが、それ以上にある意味純粋に「社会から自分の存在を認識してもらいたい」という気持ちがあるのだと感じます。

評価の物差しは、彼らにとってはあくまでも再生回数のようです。一度再生回数を気にしだすと、再生回数を増やすことだけが目的となってしまいます。再生回数が増えればアップした動画に対する批判のコメントも来るでしょうが、どうやらコメントの数が増えることで手ごたえを感じていて、アンチのコメントもそれほど苦にならない人も多いようです。

このように物差しが一つになってしまうという現象はよくあることです。視野が狭くなるという言い方をすることが多いです。もしかしたら「依存」という概念と近いのかもしれません。おそらくいつもは自分の動画は多くの人からは相手にされない状態なのに、不道徳なこと、気持ちの悪いこと、犯罪まがいのことをすれば、多くの人が再生してくれる。そうするとこれをもう少し過激にやれば、もっと多くの人が自分の動画に注目するようになるという意識でより過激な動画を上げ、思った通り再生回数が増えることに恍惚感を覚えるようです。

では、どうして、そんなに大勢の人から自分の存在を認識してもらいたいと思うのでしょうか。

どうやら人間は、自分が関わっている人間から仲間であると思われたいという意識が働くようです。仲間であると思われたいということは仲間として尊重してもらいたい、無視されたくないという気持ちと考えて良いでしょう。

迷惑動画を上げる人たちは、自分のスマホの向こう側にいる人たちであるネットユーザーが、自分とかかわっている人間だと思ってしまっているのだと思います。ネットユーザーといっても、単にインターネット端末を操作する人という共通点しかありません。どこの誰かもわからないし、性別も年齢も考え方も性格もまるっきりわからないのです。また、それらの人から一時的に関心を向けられたところで、通常は何の得もないはずです。自分が困っているときに助けてくれるわけではありません。ただ再生をして、評価をする人はして、コメントをする人はするだけです。ネットユーザーがどういう思いで再生しているのか、興味があるのかないのか、感心しているのか馬鹿にしているのか、まるっきりわかりません。多くは暇つぶしで何となく見ているのだとは思います。

それでも自分が多くの人間から注目をされているという感覚があり、それが再生回数という数字で表れてくると、どうも人間はその数字を挙げることが自己目的化してしまい、数字をあげさえすればどんなことをしても良いというように考えてしまう生き物のようです。テレビ局で言えば視聴率ですし、新聞などであれば発行部数でしょう。企業も利潤を追求することが目的の団体ではありますが、利潤の幅が意味を失ってとにかく数字を上げるという目標になってしまっている場合があるのではないでしょうか。数字の物差しのために、なりふり構わないということは何も今に始まったことではないのかもしれません。

物差しが再生回数一つしかないということは、その他の恥ずかしいからやめようとか道義的問題があるからやめようとか、犯罪になるからやめようとか、自分の就職がだめになるからやめようとか、別の物差しが入ってこなくなるということです。数字以外のことについて、考えた上で、それでも良いやとして動画をアップしているというわけではなく、そのことまで考えが及んでいないということがリアルなようです。

誰かが不愉快な気持ちになるとか、誰かが経済的にも迷惑を受けるとか、それによって誰かが解雇されるとかという他人の将来を考えないだけでなく、自分の就職が無くなるとか、警察に逮捕されるとか、莫大な損害賠償を支払わなければならなくなるという、そういう自分自身の先のことまで考えられなくなる心理状態のようなのです。

だから彼らは注目されたいという自分本位で他人に迷惑をかけているというよりも、どちらかというと数字の魔力の奴隷になっているようなそういう状態です。

どうしてまっとうに生きることで人間としての喜びを感じることができないのか、どうして見ず知らずのわけのわからない人から注目浴びたくなるのか、そこに何があるのかの分析についてはこのシリーズの最後(3回目かなあ)に私なりの考えを述べたいと思います。

それはそうと「人間として」道義的に許されないことをしたという評価も正しいですが、自分が逮捕されるかもしれないという警戒ができなくなるということは、「生物として」深刻なことなのではないでしょうか。

どうやら最近の若者の傾向としてあるようなのです。自分の思い描く将来像というものを持てない若者がいるようです。社会的に活躍することが善だと思い込まされているけれど、その機会を与えられないと感じているようです。社会的に名声を得たり、経済的に成功しなければなることが価値があることだけど、それができない自分に価値を見失っているという痛ましい状態があるようです。社会を知る年齢になると、夢を見られなくなるということがあるようです。今から10年までの小学生の会話で、将来の夢は社会保険が付いた正社員になることといいあっていることは目撃したのですが、それがさらに深刻化しているようです。それはそうでしょう。好転するような社会事情は何もないように思われます。

私の考えたことのとおりならば、どれほど逮捕者が出ても、どれほど就職や進学が不意になっても迷惑動画のアップは減らないことになる気がします。もっと過激化が進む前に対策を立てる必要性があると考えます。厳罰化は因果応報は良いとしても、防止策としてはあまり役に立たないと思っています。

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