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少年、少女よ、大志を抱くな 立派になることよりもまっとうに生きることに価値を置くということ(そこまで考えていなかった3 完結) [進化心理学、生理学、対人関係学]



迷惑動画をアップする人や闇バイトに応じる人たちの具体例を見た範囲では、彼らは、必ずしも生活ができないほどの貧困に苦しんでいるというわけではないようです。どちらかというと、なりたい自分、思い描く自分になることをあきらめてしまい、その結果、自分を大切にできなくなり、自分の将来を考えての現在という見通しを持つことができなくなっているようです。

結論はそれでよいのでしょうが、時系列的に、一度なりたい自分の夢を見た⇒なれないと判断した⇒あきらめた。という流れではないようです。夢を見ることができない、願望を持つことができない、将来を考えないようにしようと無意識に将来の自分を考えることに蓋をしているようなそんな感覚を受けてしまいます。

内心の心の動きを読み解こうとして見ると、「立派な自分になることが世間的にプラスの価値だと思っている。自分には何も立派になる要素がない。だから、将来の夢など見ることができない。自分は価値の高くない人間だ。将来を考えることをしたくない」という流れのようなのです。

「そこまで考えていなかった」というようりも
将来のことを考えることが怖くてできなかったということが正解なのかもしれません。

もし、この心配が当たっていたならば、それは間違っているということを言いたいわけです。

人間の価値観があまりにも偏っているということです。この「立派な人間」というのは、どうやら社会的評価が高い人間、世間から注目を浴びる人間というように考えられているようです。職業的に評価されるとか、評価される職業に就くとか、財産を築くとか、そういうことのようです。

元々日本人は、そんなものにそれほど価値を感じていなかったと思います。そんなものとは名声とか、社会的地位、社会的評価、あるいは経済的成功についてです。明治より前の時代では、人口の圧倒的多数が農業従事者で、自分の集落を中心として生きていました。農業を行うにあたって必要な能力がある人が便利がられて、それなりに評価されたと言ってもそれだけのことです。

都市部の商工業従事者であっても、一発当てて地位と財産を築こうとしている人がどれだけいたことでしょう。いたとしてもごくごく例外で、変人扱いされていたと思われます。
人物評価の物差しとなったのは、「まっとうに生きているか」ということに尽きていたと思います。つまり、酒やばくちにおぼれていないか、荒っぽい行動をしていないか、人のものを盗んだりしていないか、返せない借金をしていないか、能力に応じて勤勉に働いているか、浮気などをしないで家族を大切にしているかというそういうことが評価の対象だったわけです。

ごくごく例外を除いて、日本人の圧倒的多数は、大志を抱いて社会の注目を浴びる人間になるなんてことはおよそ希望とはなっていなかったはずです。

今言いたいのは、その頃と現在とどちらが人間にとって正しいのか、どちらが人権が尊重され、個人として尊重されているかという比較ではありません。
 現代の価値観は、自然なことではなく、作り出されたものであること、そして、そのような価値観を持たないことこそが多様性の意味であるということをいいたいことと、まっとうに生きるということにもっと大きな価値評価を与えるべきだということなのです。

作り出されたと言いましたが、それは二つの理由があります。
一つは、戦争を遂行するための明治政府のイデオロギー政策として意図的に作り出されたこと、
一つは、文明が情報流通を促進したことにより、ほぼ無関係の人に対して近しく感じる傾向が生まれたことです。

戦争遂行のイデオロギーというのは、明治時代の前までの集落中心主義の日本人の意識では、日本という国の利益のための他国の見ず知らずの人を殺す戦争に積極的に参加しようとする雰囲気が生まれないため、兵隊が質量ともに不十分のままであり、およそ外国との戦争ができないという現実を背景としています。

このため明治政府は、かなり早い段階から、尋常小学校を整備しながら、「勧善懲悪」と「立身出世」に価値があるということを国民に徹底して刷り込んでいきました。お国のために命を捨てるというのはかなり末期の段階です。また、その考えのベースになったのも、この勧善懲悪と立身出世の刷り込みです。簡単に言えば、桃太郎のように悪を倒して名声と財産を手に入れようとあおったわけです。

二宮金次郎の銅像が学校に建てられたのも、農業従事者であっても勉学に励むことで立身出世が可能になるというサクセスストーリーの象徴を刷り込むためです。

立身出世には競争原理が伴います。立身出世に価値があるという考えが浸透していることは、競争で勝ち抜いたものが栄光を勝ち取るということに疑いを抱く人はあまりいないことでよくわかると思います。

戦争準備というのは、こうやって国民の意識を変えるところから準備をすることなのです。こういう肝心なことに目を向けずに戦争反対とか言い続けることは疑問です。その結果、戦争反対と言っていながら、ロシアの侵攻には国際的な社会制裁をしろというのでは、勧善懲悪による戦争遂行の手前まで国民を手繰り寄せることになるように感じるのですがどうでしょう。

また、新聞やラジオ等情報が質量ともに向上していくと、全く知り合いでも何でもない人に、親近感を抱いたり、尊敬心を抱いたり、敵意や嫌悪感を抱いたりしてしまいます。なんとなく、日本というくくりで語られると、「自分たち」の利益ということで考えてしまい、その中で自分ができることは何か等という発想でものを考えるようになったと思います。

戦後もこの傾向は反省なく進められました。子どもには大志を抱かせようと、偉人の伝記などが子どもに与えられます。あたかも誰でもが学者や発明王になり、誰でもがスポーツや芸能の大スターになるかのような希望を強制的に与えられ続けました。

しかし、伝記などに登場してくる人たちの実生活上の問題点については子どもたちに何も知らされません。このため、普通の人たちが普通に努力すれば社会的な成果を上げることができるように宣伝されてきたのだと思います。

情報については、現在インターネットの普及によってますます無関係の人と関係があるかのような錯覚を与えられます。全く接点のない人からの自分の評価を気にしてしまい、落ち込んだり、不機嫌になったりしているわけです。自分が誰かから見られているのではない、自分が社会的に注目されるような存在でないとして低評価を受けているのではないかとイライラするわけです。そして自分の低評価を感じなくするために、誰かを攻撃して、誰かの評価が低下したことで安心したりすることもあるのではないでしょうか。

現代社会は、あらゆるところでインターネットを使ってのつながりを作ることを利益誘導などで半ば強制されているような、誘導されているような感があります。弊害については十分に考えられているようには思われません。

但し、情報、文明については、後戻りをすることは現実的ではないようです。それならば、別の価値観を意識的に導入していく必要があるようです。
それがまっとうに生きるということです。まっとうに生きることに伴う道徳が、競争原理の価値観の中で、日本人には細々とではあるものの受け継がれていると思います。この水脈が枯れないように、水路を作って水を流すという作業が必要なのではないかとふと思いついたのです。

大志を抱いて社会的評価を受けたり、財産的成功を収めることよりも、まっとうに生きることに社会的価値を置くべきだという考えです。

実は、これを言ったのが、クラーク博士です。少年よ野心家であれと言ったすぐそのあとで、名声や財産を追及するなと厳しく戒めています。まっとうに生きながら、自分の目標を名声や財産と関係なく一つのことに打ち込めということのようです。自分を評価するのは自分であり、国家や社会や他人の価値観に照らして評価するのではないということらしいのです。時は明治時代ですから、キャッチ―な最初の部分だけが都合よく喧伝されたのでしょう。

イデオロギー政策や文明という、無自覚に自分の考えに影響を与えることから自由になることはなかなかできません。ただ、今若者を苦しめているものの正体を見極めてその対極の価値観を提示することは私たち老年者の役割ではないでしょうか。自分のできることをやることを喜びながら行い、自分自身に対して他人の目を気にしないで挑戦し続けるということは、若者だけの問題ではなく、私たち老年者も生きていくために必要なことだと思います。それによって楽しく生きていけるならそれに越したことはありません。挑戦することに喜びを見出し、失敗してもまたやり直すなら楽しいだけだと思います。

若者が劣化した等という言葉を聞くことがありますが、それは20世紀に子どもだった者が恵まれていただけであると思います。20世紀に子どもだった者たちは21世紀の明るい未来を思い描くことができたという幸運に恵まれていました。それは、私たちが子どもの頃の大人たちが作ってくれたことなのだと思います。





児玉雨子「46億年LOVE」より

夢に見てた自分じゃなくても
まっとうに暮らしていく いまどき

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