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アフターコロナで、若者が学校に登校できなくなる理由 夏休み明けに若者が自殺をする危険性との類似点 孤立者は孤立を選ぶようになるメカニズム [進化心理学、生理学、対人関係学]



令和5年6月4日、NHKスペシャルで、「アフターコロナが到来 人と接するのがツラい 世界で広がる対人不安 脳の異変を科学で解明」という番組がありました。興味深かったです。脳の画像データを使った話はとても説得力がありました。まさに対人関係学でした。

コメンテーターのおひとりに、明和政子先生がいらっしゃっていろいろお話をしていただきました。私は先生の影響を受けていると自負していますので、予備知識をもって番組を見ることが出たということはあると思います。

この番組では、アフターコロナで、大学生がそれまでのリモート授業が終わって出席が求められるようになったけれど、2割くらいの学生が出席できなくなっているという現象に焦点を当てました。ここに何かあるはずだという視点はとても素晴らしいと思いました。

<孤立の不安の出どこ>

先ず、人間は孤立を恐れており、孤立を自覚すると集団の中に入ろうとすることを進化の過程で獲得したということを述べています。これだとやや誤解を受けるかもしれないので勝手に補足しておきます。何百万年もの間、集団でいないと肉食獣に食べられてしまうという現実があり、そのために集団の中にいないことに不安を感じて集団の中に入ろうとするようになったという説明の仕方がされたように思いました。

ただ、進化の過程で獲得した主体は個別の人間ではなく、総体の種としての人間です。突然変異で、そのような孤立を嫌がり、集団の中にいたいという「心」を持つ者たちがたまたま表れて、こういう心を持ったために集団を形成するようになった、集団を作ったら、肉食獣にも対抗でき、食料の獲得もスムーズになったために生き残ることができた。逆にこういう「心」というシステムを持たなかった人間は、飢えて死ぬか、肉食獣の餌食になって死ぬのかはともかく、群れを作れなかったので死滅してしまった。こうして「心」を持つ者の子孫だけが生き残ったので、人間はそのような心を持つという特徴を持つようになった。
という説明の方が誤解を招かないでよいと思います。

<本来リアルに会話をしたいのが人間当科学的根拠>

そして脳の血流など画像検査によって、様々なことがわかってきました。

ある実験は、食べ物を食べさせないで一定時間おいた人間が食べ物を見て食べたいと渇望するよりも、
一定時間孤立した環境において、その後人間集団を見たときに仲間に入りたいと渇望する方が、より大きな感情になるということが示されました。

また、人間は直接会って会話をしていると感情の同機(話者同士の感情が同じように変化する)が脳内で起きるけれども、リモートでの会話では感情の同機が生じないということも示していました。
<問題提起>

それでは、アフターコロナでリモートが終わって、直接会って会話ができるようになったにもかかわらず、大学生の中で大学に登校できなくなる人が2割くらいに上るが、それはどうしてか。
という疑問が出てくるわけです。
<孤立の有無で分けて考える>

番組は膨大な論文を分析して、アフターコロナの影響を、常日頃孤立を感じている人と孤立を感じていない人と分けた論文を紹介していました。ここは素晴らしい視点だと思います。

実験以前から孤立を感じている人は、人と会えない時間を作って集団の写真を見せても、孤立していない人に比べて、それを求める脳の活動が少なかったとのことでした。
日常の中で孤立を感じている者は、積極的に他者の中に入っていこうとする通常の欲求が起きないということです。

また、孤立をしている人は、火山の爆発などの写真よりも人間通しの対立の写真(暴行の写真)を見るほうが、恐怖心が強まるということも示されていました。

日常の中で孤立している者は、「人間というものは警戒するべきもの(危険なもの)である」と感じているようです。だから、これから新たに人間関係を形成することを考えると、嫌なことばかりが想定されてしまうために、人間とかかわりたいと思わなくないということのようです。つまり、人間の中にいるデメリットの方が、孤立しているデメリットよりも大きいと感じてしまっているのでしょう。

<他者への軽快を解除する通常のパターン>

明和先生は、人間にとって他の人間とは、仲間になりたい半面、恐れを感じているというそういうアンビバレントな存在だというようなことをおっしゃったと思います。これは大変奥行きのあるお話です。短時間だったので十分な説明ができなかったのだと思いますので、勝手に補足したいと思います。

先ずは、明和先生のおっしゃるように、人間は矛盾した気持ちを他者に抱いているということは真理だと思います。こう考えるといろいろなことが説明することができるようになります。

人間は基本的に、他者を怖がるということを真理だとしましょう。ではどうやって社会を形成できるようになるか。どこかで怖がることを部分的にでも解除しなければ人間関係は形成できません。それは赤ん坊の時に自分の親(親的立場の人)との信頼関係を築いていくことから始まると思います。親という自分以外の他者に対しての安心感、自分の要求を実現してくれる存在だという認識、安心感を育てていくのだと思います。

そして親子関係というベースキャンプを少しずつはみだし、近所の人とか、良く合う人、幼稚園や保育所の友達や先生と人間関係を広げていくわけです。このためには、それらの人が自分に対して悪いことをしないということを学習していく必要があります。必ずしも順調に広がるわけではないにしても、少しずつ安心できる人間を増得ていくことが通常の社会です。そこから先は個性によってだいぶ違うのですが、人間は基本的に信頼できる、安心できる存在だと学習を続けして、誰とでも打ち解けて話ができる人ができる場合もあるでしょう。あるいは、打ち解けることができる人と打ち解けてはいけない人がいる等と部分的に警戒心を解かない場合と、そのバリエーションが生まれていくわけです。

安心体験が変化していくことによって、その時その時の人間観というものが形成されていくのだと思います。これは主として、他人に対してどの程度危険性を感じなくなるか、つまり安心感の獲得によって警戒心を解くという「馴れ」が生じるということで説明できるのではないかと考えています。

馴れと言っても単純ではなく、例えばここまで言っても大丈夫で、それ以上言わなければトラブルにはならないとか、ニコニコしていれば攻撃されないだろうとか、その人なりの条件を無意識につけながらも、警戒心を緩めるのだと思います。

そうして通常は、一度築いた人間関係であれば、相当期間会えない時間が続いても、警戒心が解除されたままになっているので、久しぶりに出会ってもすぐに打ち解けて話せるし、話せることを予想していますので、できるならば会いたいという渇望も強くなるのだと思います。

<孤立を感じている人の人間観>

今回の実験で孤立を感じているか否かで分けて考えたことは素晴らしいのですが、結局孤立をどうとらえていたのかよくわからないところもあります。一口に孤立と言っても、別の概念が一緒くたになっていないか警戒するべきポイントでもありました。

先天的に他者とのかかわりが怖い、警戒心を解いていない場合もあるでしょうし、赤ん坊のころ、あるいは社会性を身に着けたころ、あるいは小学校入学時以降に警戒心を強めなくてはならない事情がある場合等、様々な孤立感の理由が考えられます。

元々人間は他の人間を怖がっていて、学習によって警戒心を解くというのであれば、警戒心を解いたことで痛い目にあったという経験をすれば、人間は警戒するべき存在だという元の感覚に戻ってしまうということは、孤立者は孤立を選ぶということを良く説明できると思います。

孤立感と、実際に孤立しているかどうかは、必ずしも連動していません。それなりに、友達と仲良くやっているように見える場合でも、実際は孤立感を強く抱いている場合もあります。

この場合は、友人に対する警戒心を解かないまま、相手から自分が拒否されないように常に慎重に行動をしていた場合が想定できます。もちろん、それなりに友達と笑いあったり、一緒に行動して楽しんだりしているのですが、本人はそれ自体も努力をしていて、しんどさも感じているような場合です。友達の仮面を努力でかぶり続けているわけです。

また、原体験が無くても友達付き合いがしんどいと感じる性格というものもあると思います。

もしかすると、現代日本では結構大きな割合の子どもたちが、このように苦労と努力をして友達関係を維持しているのかもしれません。

警戒心を維持しているとしても、常に一緒にいれば、流れの中でそれなりに折り合いを見つけて、表面的には平穏な日常、学校生活を送っているのかもしれません。しかし、リモートなどの交流だけが続くと、人間関係に気を使って生活する必要が無くなりますので、警戒心に基づいての人間関係の工夫をする必要が無いので、いつしか忘れてしまいます。工夫をしていた、無理をしていた、気を使っていたという記憶だけが残り、また一からこういう関係を作らなければならないと考えることは、それはしんどいことだと思います。

うまくいっていた事情の記憶が無くなっていて、うまくいかなくなるのではないかという不安や、うまくいくために相当神経を使わなければならないのではないかという不安ばかりがわいてくるわけです。

つまり友達と一緒にいるときに警戒心が解かれるのは、一緒にいるという生活が継続しているからこそ可能になると思うのです。一緒にいる時間が無くなれば、元の他人に戻り、警戒感も戻ることはそれほど異常なことではないように思うのです。通常ではない少数派かもしれませんが、人間としてはむしろ正常だと思います。

私が子どもの頃の夏休みに、ちょうど中間の日が登校日になっていましたが、それなりの理由があって登校日が作られていたと今になると思います。馴れを復元する効果があったのだと思います。

<再会のしんどさを増大させるいじめ体験>

孤立感を感じている要因として想定するべきことはいじめ体験です。原因のはっきりしないいじめである場合はなおさら、他者に対する警戒心が固く維持されるようになってしまいます。

普通に見えるように対人関係の折り合いをつけることを、いじめを体験していない場合に比べて、相当強く努力し、神経を使い、考えています。相当精神力を消耗してきたわけです。

リモートで日常に戻って、安心できる家族との生活に慣れきってしまうと、またあの努力を一からしなくてはならないというしんどさに加えて、またいじめられたらどうしようという恐怖を伴った不安を感じてしまうことも当然のことかもしれません。

単なる疎外ではなく、周囲から一斉に攻撃される恐怖、味方が誰もいないという恐怖はかなり強烈なものであるはずです。

いじめには追い詰められる孤独の強さの大小はあるにせよ、いじめ体験のある子どもたちは想像以上にいるようです。一度強いいじめの経験をした子は、その時すでにいじめが止まっていたとしても、人間関係の再構築がとてもしんどく感じるようです。夏休み明けやゴールデンウィークあけに子どもたちの自死が起きる原因に、このような警戒心の再構築のしんどさがあると私は思っています。もっと時間が空いたアフターコロナでは当然そのような再会についての拒否感情が生まれているはずです。

小中学校であればなおさらなのですが、高校や大学であったとしても、リモート授業から実際の面談授業に復帰する場合は、警戒心を解くための何らかの安心感を獲得するためのアクションが必要な時代になったのかもしれません。

警戒心を解けない子どもたちは、その子どもたちの成長が未発達であるという自分に責任があるのではなく、それまでの人間関係のトラブルの結果であることがむしろ多くなっているのではないでしょうか。社会的な対応が求められる時代になったと言えるのではないかと考えています。

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