「相手の言いなりになっている」と考えてしまうことのデメリット 家族再生を望むのであれば [家事]
家事事件に限らず、一般事件もそうなのですが、和解の話を進めるとき、よく出てくるのが、「それでは、相手の言いなりではないか。納得できない。」という言葉です。離婚事件では頻度が高いように感じられます。
弁護士が入って和解をする場合、実際には相手の言いなりに和解をするということはめったにありません。相手の言い分をずいぶん削っていることが多いのですが、削った点についてはご認識いただけないことが多いようです。
例えば、妻が子を連れて別居しました。離婚調停が申立たてられました。親権者は母、財産分与は例えば500万円、慰謝料220万円、プラス離婚という訴状だとします。あとは、父親の子どもとの面会交流は拒否されている現状だとします。
離婚と親権は妻側の言いなりなのですが、和解では、金額の点について総額300万円に抑えられ、面会交流は月1回3時間がすでに定期的に実施されているとします。
ここで、最終的に面会交流現状通りであれば、金額300万円であれば和解が成立するとします。
もちろん納得のゆく結果ではありません。これまで同居していた我が子と、理由も良くわからないで、月に一回短時間しか面会できないということは、当然納得のできないことです。
この例示事例で和解しなさいという話しではないのです。「相手の言いなり」という考え方ではデメリットが出てきてしまうということなのです。
「相手の言いなり」 ⇒ 「納得できない。」 ⇒ 「和解しないで判決」
となると、
① 300万円以上の支払いが命じられる可能性が出てきます。
② 特に家族再生を目指している場合、どちらが勝っても負けても遺恨となり、相手に対する敵対的感情が高まっていく可能性があります。
③ 感情的対立が高まれば、面会交流に協力的ではなくなる可能性も出てきます。
そうなれば、一番の被害者は子どもになってしまいます。
メンタル的なデメリットもあります。
つまり、「こちらはメンタルも経済的にも大変苦しんでいるのに、自分の支払うお金で相手方は楽しく、何も悩みなしで生活を続けている、この格差はあまりにも不合理だ。」という敗北感に打ちひしがれることが多いのです。しかし、相手方は、要求が削られて、しかも裁判手続きが何カ月も続き、「こんなはずではなかった。もっと早く離婚できて解放されると聞いていたのに。」と考えているはずなのです。そうではなくて、自分だけが一方的に苦しんでいるという観念は、自分で自分を苦しめてしまいます。
これでは家族再生のモチベーションは消えて行ってしまうでしょう。
子の連れ去りという家族の危機は厳然と存在しているということをしっかり認識する必要があります。ここから再生がスタートするのだという意識です。「相手の言いなり」だと感じてしまう人はこの点の意識が弱いです。だから、家族の危機を無かったことにできるのではないかと、無自覚にですが前提として考えてしまっています。
だから、強引に連れ去り前の家族に戻りたいと無理を通そうとしてしまうのです。だからうまく進まないのかもしれません。状況を見誤っているということです。
逆に、「前進面もある。相手もかなり譲歩をしている。」と認識することができると、心にはないけれど、相手に対する感謝や謝罪、思いやりの言葉の一つも発することができるようになり、この先の家族再生につなげる第1歩が踏み出せるかもしれないのです。
自分の思い通りに相手を動かそうとすることは、人間相手の場合はとても難しいことです。相手にも意思があるからです。この意思をどう変えていくかということ、どう家族再生に誘導していくかということを考えるのは、通常は連れ去られた側しかありません。同居中と形は変わったとはいえ、子どもがいる限り家族だと私は思います。この家族というチームをどう作り上げていくかという視点をもつことが大切です。チームリーダーとして、ある時は相手の言い分を承認し、ある時は修正の提案をし、ある時は自分から相手が同意しそうな案を提案していくという作業が、家族再生には不可欠だと思います。自分の意見を通そうというのではなく、結果として家族再生に近づくためにはどう立ち回るべきか、相手の言いなりになれば家族再生に近づくなら、多少無理をしてでも言いなりになった方が良い場合もあると私は思います。
2024-11-27 09:20
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