なぜ学校はいじめの事実を隠そうとするのか 当たり前の先の「ふてほど」を考える [弁護士会 民主主義 人権]
いじめと学校、教育委員会の件を担当していますが、さらに続けざまに2件、相談が来ています。いじめ関連は宣伝していないのですが、同種の事件って、続け様に担当することになるということは結構あるあるです。
いじめ防止対策推進法については、宮城県いじめ検証第三者委員だったこともあり、分厚い資料を使って叩きこまれましたし、同じ委員の研究者の方々と事例研究などもやって鍛えられました。これ、弁護士枠ではなくて、人権擁護委員枠で委員になったことが面白いところです。
その後いじめで亡くなった生徒さんのご両親が、私のご近所さんだったことから支援として関り、ある町の重大事態の第三者委員として活動し、先般ある事案で遺族側代理人となり、第三者委員会の立ち上げを教育委員会に働きかけた事案もありました。その時も同種事案がありましたが、そちらは信頼できる人に任せることにしました。この時も2件同時にいじめ被害者の家族(どちらも当時は生存事案)から相談を受けていました。
この秋から冬にかけても2件、ほぼ同時に相談が入りました。今代理人をしている第三者委員会設置事案よりも、相当悪質で、隠蔽の意図があからさまな事案で、いじめ防止対策推進法の知識云々前に、正義感や弱いものへの配慮という当たり前の感情が感じられない事案です。
どうして学校はいじめを隠すのでしょう。
「不祥事だから、保身のためにいじめを無かったことにしたい。」ということは当たり前だろうと思っている方もいらっしゃると思います。
変な話ですが、いじめは不祥事ではないこともあるのです。厳密に言うと、不祥事になるいじめと不祥事にはならないいじめがあります。それは法の定義するいじめの意味が、日常用語とは異なり、余りにも広すぎるからです。
法律の定義は
児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
となっていて、簡単に言えば、
学校で誰かからされたことで、嫌な気持ちになればそれがいじめだ
ということです。
私も日弁連も定義が広範過ぎて弊害があるという考えですが、あえて擁護すると、いじめかどうかを厳密に区別してしまうと、「これはいじめとまではいわない」ということで放置してしまい、働きかけがなされないおそれがあるため、あえていじめを広くとらえて、何らかの関与をしていき、不登校や自死という重大事態を防止していこうという考えだということができると思います。
だから、法律のいじめに該当しても、我々がいじめと言われてイメージする悪質なものと、成長期の児童生徒が、十分に考えを巡らせない行為で誰かが傷ついてしまったという教育によって解決するべきいじめと二つあるのです。不祥事ともいえないいじめは、子どもたちの集団生活の中で存在することが当たり前で、だから教育が必要なわけです。
ところが、現在の学校は不祥事ともいえないいじめも隠そうとしてするようです。不祥事とは言えないいじめを隠すことは、悪質ないじめも勢いで隠そうとしてしまうのです。なぜ、不祥事ではないいじめも隠そうとするのか。
第1に、いじめ防止対策推進法をよく知らないということが一つです。法律も10年たって、その意義・目的や内容を忘れられているようです。「いじめ」という言葉のアレルギーに、まず学校がかかっているわけです。これでは、子どもたちの未熟さを理解して指導することはできません。
第2に、世論です。いじめ問題に関わる人ですら「いじめ」イコール不祥事になる悪質ないじめだと思っています。その人たちを重宝するマスコミは、不祥事でないいじめも不祥事だという論調で報道しているのです。いじめ認知件数が報告されるたびに、いじめが増えた減ったと深刻ぶって報道する新聞やテレビの大手マスコミは。このいじめ防止対策推進法に逆行し、いじめ防止対策を阻害している張本人だと思います。問題はそんなに単純ではないことだけは間違いありません。
いじめがある以上悪だ、学校や教育委員会や行政を糾弾しなくてはならないという勢いができてしまえば、学校がいじめを把握して、きちんと対応をしていくことができなくなるでしょう。いじめを隠そうとすることに一役買っているということになるし、現になっていると思います。
最近の流行語大賞は、「ふてほど」という不適切報道が取り上げられたように聞いています。いじめに関する報道も、人々の正義感をあおり、攻撃的な論調を掲げている報道が目に余ります。まさにふてほどの典型だと思えてなりません。
2024-12-10 10:50
nice!(1)
コメント(0)
コメント 0