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いじめ事案の子どもダメージは、主に教師の対応によって深くなる [弁護士会 民主主義 人権]



これまで、何件かいじめ不登校やいじめ自死の事件を児童生徒と保護者側の代理人と担当してきました。その範囲でみると、学校でのいじめ事案(法律用語のいじめの中でも激しい不祥事と言える事案に限定して取り上げて説明します)で、いじめを受けた児童生徒の精神的ダメージが大きくなるのは、いじめの内容以上に学校側の不適切な対応によるという実感があります。

実際に事案の不適切な内容を例示します。
我が子がいじめられていることによる保護者の切実な相談を相手にしないでいじめではないと強弁する。心配し過ぎなどという。
担任が休憩時間などわざと加害者側といつもべったりと過ごしている。
児童生徒がいじめを訴えてもかばってくれない。逃がしてもくれない。
重大な加害行為をしているのに、謝罪をさせて終わりにしようとする。謝罪によって、さらなる報復攻撃が起きます。
保護者の申し入れを、伝書鳩のようにホームルームで児童生徒に伝達するだけ。これによっても報復攻撃がおきます。
よくあるパターンです。

国は、児童生徒の自死を予防するために、児童生徒にSOSの出し方を教育するという方針を掲げていますが、笑えないブラックジョークです。全く若者の自死の実態を把握しないで政策を立案しているということがよくわかるエピソードです。いまだに若者の自死が減らないことには理由がありそうです。

子どもは無条件に大人を信用してしまいます。ましてや、先生と呼ばれる職業の人たちは、正義感があり、いじめをやめさせる能力があると純粋に信じ切っています。

それにもかかわらず、「自分には何もしてくれない。」ということから「自分は、当たり前の児童生徒とは思われていない。」という被害的意識が生まれてきて、「先生でさえ見放したのだから、今後生きていても誰も自分を助けてはくれないだろう。」と将来的に自分が救われることが無いという絶望につながっていくようです。

もっとも今のフローは、上記の言葉で意識をしているわけではありません。時間が経過しても自分の不安解消要求が受け入れられないという心理の持続によって、無意識に感じ取ってしまうということです。被害意識が増大していき、最後の砦と思われる先生からも見放されたということを時間をかけて体感していくうちに絶望が生まれるようです。

また、先生に言うとさらなる報復が来るということを学習すれば、先生にいじめの事実を伝えることもできなくなってしまいます。

絶対的孤立と手段が無いという絶望を感じることは当然だと思います。

ある小学校の事案ですが、日常的に一人の子が激しい暴行を受けていました。他の児童が、なんぼなんでもこれは危ないということで、教師を連れてきて、教師がいじめのシーンを目撃しました。その現場が先生のいた場所とどのくらい離れているかわかりませんが、かなり長い間暴行が続いていたことがわかるエピソードです。

教師は、十分調査もしないで、謝らせて終わりにしようとしていたようです。

これを感じ取った児童は謝罪を拒否しました。

ここで学校が行うべきことはどういうことだったのか。

先ず、認識としては、その加害児童が、元々乱暴者でだれかれ構わずに執拗に暴行をする児童であれば、今後の新たな被害を防止するために然るべき措置をとるのが学校の安全確保義務(仙台高等裁判所)ということになるでしょう。

その加害児童がだれかれ構わず暴力をふるう子どもではないとするならば、特定の子どもだけが攻撃されているといういじめを想定しなければなりません。そのような長時間暴行をふるい続けた理由は何か、理由が理解できない理由であれば(要するに理由のない暴力であれば)、そのような暴行が日常的に繰り返されていた可能性を探求しなくてはなりません。様々な調査が必要になります。

特別な指導をする必要性を検討しなくてはならないはずです。
長時間の暴行が、すれ違いざまのいざこざと同じように謝罪をして終わりにできるはずがないわけです。謝罪を受けるのも、被害者としてはとても怖いことです。また根本が解決されていなければ、謝罪をした後報復で新たないじめが起きる蓋然性もあると言わなければなりません。

その児童は、この後すぐ不登校になりました。

別の案件で自死企図した中学生もいじめのことを再三訴えて、せめて同じ教室で授業を受けたくない、保健室に活かせてほしいということを何度も担任などに訴えましたが、何もしてもらえませんでした。

いじめがあったのに学校側から放置されることが、いじめ以上に精神に深いダメージを与えて絶望に向かわせているということがほとんどではないでしょうか。

昭和の小学校教師のことを思い出しました。昭和の教師は、いじめのようなことがあると、「えこひいき」という教師にとって致命的な評判を受けることを厭わず、徹底的にいじめられている子どもをかばい続けました。子どもたちは教師のそのような姿を見て、いじめることはいけないことだという規範意識を育てられたものです。

今の教師の少なくとも何人か(多数でないことを祈るのみ)は、いじめを無かったことにしようとしているようです。管理職を含めてです。そうして保身をしているつもりですが、現代においてはすぐに手痛いしっぺ返しが襲うことになるはずです。そうなる前に、法律と教育倫理に基づいて真剣に調査をすることをお勧めする次第です。

自分たちの行動で被害児童の人生が台無しになることはもちろんですが、加害児童の指導を受ける権利も奪い将来に禍根を残すということを自覚されるべきだと思います。

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