家族の機能② 群れを作るツールとしての「こころ」と群れを作るメリット [進化心理学、生理学、対人関係学]
前回の記事で、ヒトは、ヒトとして成立した時にはすでに小集団で生活していたと述べました。ただ、現在の家族のように父母を中心とした家族は第二次世界大戦後に一般的になり、これまでのヒトの歴史(200万年間くらい)の大部分は必ずしも血縁関係があるわけではない集団だったと述べました。でも、昼間それぞれが行動をしても、日暮れごろになるといつもの集団の中に帰ってきて寝食を共にするという関係があったということが前回の話でした。
言葉もない時代に、どのようにしてその様な集団生活ができたのかについては、これまでもこのブログで述べていたように、「こころ」というツールを獲得したからだということです。
いつものメンバーと一緒にいたい、いつものメンバーから追放されることは怖い、追放されそうになるとたまらなく不安になり、自分の行動を修正する、いつものメンバーに対しては役に立ちたいと思う、いつものメンバーの味方をしたい、いつものメンバーを守りたい、尊重したい、
これは現在心理学的には、単純接触効果と呼ばれる効果であったり、人間の根源的な要求(バウマイスター)と呼ばれたりしています。私としては組織の論理、組織バイアスも、この「こころ」からくるものだと考えています。洗脳もこの「こころ」を利用して行うわけです。
どうしてそういう心を持つようになったかという問いは間違っており、そういう「こころ」を持つ個体だけが、群れを形成し、命を長らえ、子孫を作ることができたというだけの話だと私は今は考えています。「こころ」を持たなかったヒトは、それができずに死滅したということです。
なぜ群を形成すると生き延びることができたかということも整理しておきましょう。
即物的理由とメンタルの生理的理由があると思います。
<即物的理由>
脳の活動を維持するための栄養素を確保するため、ヒトは小動物を狩るようになったそうです。初期の段階では特に道具も持っていませんから、何人かで動物を追い続けて、動物が弱ったところで確保したようです。小集団を作らなければ脳の活動を維持できなかったと言えるでしょう。
また、小動物もこのような原始的な方法ですから、逃げ切ることができることもあったでしょうし、そもそも小動物が見つからない時もあったでしょう。その時に備えて、同じ小集団の別グループが食べられる植物を採取していたそうです。小動物の狩猟と植物の採取を別々の構成員が行うことで生き延びる栄養素を確保できたわけです(「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ) 。
また、他の動物と比べて超未熟児で生まれる人間の赤ん坊を世話するのは母親だけでは足りません。出産自体がたいそう危険なものでした。このため、群れを形成して赤ん坊や弱い者を守る人数がいることが必要でした(それに伴う人間の特性は明和政子「まねが育むヒトの心」岩波ジュニア新書)。
頑丈な家も無く、移動式の生活様式であったことから、けっこう肉食獣に対しては無防備だったわけです。しかし、ヒトという中型動物が、比較的大きな群れを作ることで、肉食獣もおいそれとは手出しできない状況を作っていたと思います。肉食獣だってリスクがなるべく少ない方法で獲物を獲得したいわけです。ここから先は私の一人説ですが、おそらくそれでも集団の中に獲物を求めて襲ってきた肉食獣もいたと思います。その場合は群れ全体が、自分が襲われているかのように、我が身が傷つくことを忘れて、怒りにまみれて肉食獣を袋叩きにしたはずです。獲物を襲っている動物は無防備な状態ですから、袋叩きをされることが一番の弱点だったという袋叩き反撃仮説というものです。(今それを見ることができるのは、プロ野球のデッドボールで両軍がグラウンドに飛び出してくる様子です。)
即物的な意味で群れを作ることで生き延びてきたということは、なんとなくわかりやすいのではないでしょうか。
ただ、そればかりではなく、メンタルというか生理的な問題というか、そういう観点からも群れを作ること、群れの形態がとても有利であったというお話は次の記事で行いましょう。
前回の記事で触れた、家族の機能としての、安全と保護ということは、ヒトがヒトとして生まれたときから行っていたことなのだなあと改めて気が付きました。
2025-01-08 11:56
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