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トラブルを自ら作ってしまう人々 疑似パーソナリティ障害と対人関係学的理解  [自死(自殺)・不明死、葛藤]

以前に和解が成立したケースです。

トラブルの発端を作った人は相手方でした。
トラブル以前はお互いを強く信頼していたようです。
最初のトラブルは、相手方が起こしたものでした。

この時点で、適切な対処をすれば、
Aさんは、被害者としての側面が強く、
世間からも同情され、共感されたはずでした。

ところが、Aさんの報復が強烈であり、
さすがに世間も引いた状態となり、
お互いの関係者も巻き込んで
裁判所を舞台として
訴えたり、訴えられたりという泥沼に入っていきました。

裁判所が舞台となり、
それまで支援していた人も引き始め
弁護士を探していたのですが、
報復が強烈だったことと
精神疾患で通院していること
経済的事情等から
地域で代理人を引き受けてくれる弁護士が見つからず、
はるばるわが事務所まで訪ねてきてくださいました。

だいぶ話し込み、
相手方とは別々の道を歩いて
今後一切干渉しないという結論に達したので、
代理人を引き受けることにしました。

この結論に至った道筋は
とても尊敬できることですし、
その結論に至る思考過程も
目を見張るほど健全でした。

相手方及び関係者の代理人と連絡を取り、
和解の話を進めました。

あっさり解決するかと思った直前、
小さな事情の変化が次々と起こってしまいました。

Aさんは、その一つ一つに過敏に反応してしまうのです。
例えば、自分とあまり関係のないところで
相手方に新たなトラブルが起こったという事情を聴けば、
相手方が自分に対して報復活動を起こすのではないかと
心配するのです。

心配するだけでなく、予期しているだけの相手方の報復活動に
怒りをもって対抗する活動をしようとしてしまうのです。

ちょっと例えがわかりにくくて恐縮なのですが、
その事案では、理屈を考えれば、
Aさんの心配が100パーセントないとは言い切れない
しかし、常識的に考えれば
心配する必要はないことだし、
圧倒的多数の人はそこで心配しないでしょう。

仮に心配したからと言って、
カウンター行動を考えたりはしないのです。

情緒不安定型パーソナリティ障害(境界性パーソナリティ障害)は、
認知や感情抑制に障害があり、
衝動性と自己抑制の欠如という問題が生じ
社会生活を送ることに支障がある障害類型だそうです。

これが真正の障害となれば
全方位的に行動全般がそのような特徴を備えるのでしょう。

なぜ、そのような障害が起きるかということは
あまりよくわかられていないようですが

共鳴力共感力の欠如とか
計画性の欠如や先行きの見通しの暗さをみると
アントニオダマシオの指摘する
前頭前野腹内側部の機能不全も考えられそうです。

ただ、ダマシオは、彼の言う「二次の情動」は
後天的に獲得するものだと指摘しています。
文化的、慣習的な影響を受けて育まれるというのです。

そうだとすると、
よく指摘されているように
虐待などを受けていたり、親の愛情を受けられないで育ったことにより
特定の能力が十分育っていないということも
あり得る話のように思えてきます。

即ち、
一般の人たちは、
自分の行動を叱られたり、褒められたりする中で
人間相互の構築方法を学習していき、
どういう行動をすれば自分が相手に受け入れられたり
どういう行動をすれば排除されたりする
ということを学習することができる。

自分の窮状に救いの手を差し伸べてくれることが
どんなにうれしいことがわかり、
自分の好きな人に同じように手を差し伸べることによって
互いに尊重される関係を築くということが
身に染みるように獲得していくわけです。

そうして、意図せずに、
自然な感情として他人を助けたり、
励ましたりするということができるようになるわけです。

ところが、何かの事情で、
身の回りに十分手を差し伸べてもらえずに育ってきた人は
そのような学習、体験をすることができません。
自分がしてほしいということも、
生物として生きていくために必要なことは理解できますが、
人間の仲間としての感情を理解することができません。

自分が仲間として受け入れられるということを
理解できないのです。
自信もないことになります。

虐待、気まぐれな攻撃を受け続けていると
自分の行動と相手の感情の関係を学習することができません。
逆に、
相手が自分に攻撃することは
避けようのない宿命だと学習してしまうことになります。
常に自分が攻撃されるのではないかという
危機感を持ちながら生きていくことになるかもしれません。

もうひとつ、全く叱られなかった人も
自分の行動によって、他人が不愉快となり、
結局は自分が排除されることになる
ということを学習することができません。

自分が疎ましがられている
ということさえ気が付かないで
自分の意思を押し通そうとするでしょうし
何でも言うことを聞く両親が自分の外部の者の特徴だという
間違った概念は、
自分の主張を否定する他者がいるという現実を
受け容れられなくなるでしょう。

社会に出ると、自分はなんて不幸なのだと思うことになるでしょう。

それでも人間は、群れの中で協調して生存したいという
本能的な要求を持っていて、
これが満たされないと心身の不具合が発症するといわれています。

彼らは、なかなか協調できないために、
職場や学校、あるいは家族の中でも
安心することができません。

いつ、自分が追放されるかわからないからです。
どうすれば、安心してそこにいることができるか
その方法がわからない。
しかも、自分が何か行動をすると
嫌がれるという体験はしているわけです。

常に、「自分は、相手から受け入れられないだろう」
「相手はやがて、自分を攻撃してくるだろう」
という不安に襲われ続けていることになります。

このような、対人関係的不安が常態である自体が
情緒不安定型パーソナリティ障害の方々の特徴だと思います。

このため、何か変わったことがあると
あるいは些細な言動が
自分を攻撃してくる予兆だととらえてしまうようです。

不安に過敏になっているために
何気ないことに不安を掻き立てられるようです。

ちょうど、怪我をしてなければなんともない刺激なのに
けがをした後の傷口に触れて
飛び上がって痛がるようなものなのだと思います。


(統合失調の方も同じように不安を抱いていますが、
 対人関係上の不安というように、
 ある程度特定できないところに特徴があるような印象を受けます。)

感情の制御が効かないということがよくいわれています。
そうなのかもしれません。
ただ、一般的には大したことではない危機が
当人にとってはパニックを起こしてしまうような
重大な危機ととらえているような印象を受けます。

中心は、物事のとらえ方の問題ではないかという印象を受けます。

しかし、
これらの問題は、多かれ少なかれ誰でも持っていて
私自身もそのような自覚があるようなときがあります。

考えてみれば、よっぽど楽天的な人以外
人間関係に自信があるという人はいないのではないでしょうか。
大事に思える人間関係ほど、その中に安住できるのか
不安があってもおかしくないと思います。

不安を解消するために
自分の安心できる論理だったり習慣だったりに
逃げ込む行動をとると思います。

例えば、正義、ルール、効率性等です。
これらは、我々が、自分が仲間から受け入れられるために
有効であったということを学習してきた結果です。

正しいことをすることによって仲間から尊敬されたり
ルールを守ることによって、受け容れられる、
あるいは要領のよいことをやって褒められる
勉強やスポーツで優秀な成績をとることによって尊敬される
ということなのでしょう。

この思考、行動の問題点は
家族であったり、学校であったり、職場であったり
それぞれによって、重要視される価値観が異なるのに、
例えば働いて稼げば受け入れられるはずだとか、
家族の誤りを正すことが自分が受け入れられる方法だとか
無意識に思い込んでしまっているということです。

本当は相手の気持ちに共鳴共感して、
相手の弱点を補い、責めずということなのに、
自分のアンカー(逃げ場)に固執するあまり、
対人関係の不具合が生じていることに気が付かないし
修正することができないという現象になるのだと思います。

最終的に、安心を得る、即ち群れの中で尊重されたいために、
相手を支配することを志向するようになってしまっていきます。

この対人関係的仕組みを把握すると
人間に対するものの見方が変わり
解決策が見えてくることになります。

さて、Aさんです。

Aさんは、特に相手方に関係すること以外は
対人関係的な問題がないようです。
過激な報復活動も
誰かからそうするべきだという手段を提示されたり
そのことをするべきだという後押しがあったようです。
狭い人間関係の中で完結してしまい
広い視野に立つことが阻害されていました。

おそらくAさんは、全方位的に障害があったわけではないと
思います。
私と話すときは、感情的になっているとき以外は
健全な思考をされていました。
むしろ魅力的な人です。

ただ、かつて築いた相手方との信頼関係は
極端に言えば、その後の人生を共に歩むというほど強固であり、
そのプロジェクトにすべてをかけていたという
物心とも絶対的な利益がありました。
そのプロジェクトのために生まれてきた
というような意気込みだったわけです。


それがあっさり裏切られてしまいました。


これまで学習してきた人間と人間との関係も
当然と思われたアンカーも全てが否定され、
すべてに自信が失われ、ゼロに戻ってしまったようです。

自分の人生において積み重ねてきた学習成果によっても
自分は排除されるという強烈な新たな学習をしてしまったわけです。
こういう事情があれば
疑似的な情緒不安定型パーソナリティ障害の
様相を呈しても不思議ではないということになります。

程度の差はあれ、
およそ、弁護士が扱う
対人関係紛争のなかでは、
疑似的パーソナリティ障害の状態に
クライアントや相手方なっていても
全くおかしくないという事情になると思われます。