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オープンダイアローグの統合失調観 対人関係学の窮地 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

オープンダイアローグというのは
フィンランドのラップランド地方で発祥し、
実践されている、
統合失調症の急性期の治療で、

患者が病院に行くのではなく、
家族のいる患者の家に、
医師や心理士、ケースワーカーなどが来訪し、
チームで、患者自身や家族、
患者の親しい人たちと
オープンに治療方針などを話し合う治療法です。

これは、公的負担で行われます。
通常の統合失調症治療のような投薬をしない場合もあり、
オープンダイアローグが最初に施術されることによって
後に薬物治療や入院をしても
回復が良好だという統計結果もあるようです。

かなりの割合で回復し、
社会復帰を果たしているという治療方法です。

しかし、これが治療方法だというのであれば、
困ってしまうのが、
統合失調症の治療は薬物療法しかない
と主張している医師と、
吾らが対人関係学です。

われわれが困ってしまうというのは、
対人関係学は治療をしない
ということをうたっているからです。

対人関係学の自死支援の主張の中に、
当事者が生きる力を取り戻して支援が終了するのではなく、
安全なコミュニティに帰属して完結
という主張をしています。
(たとえば、「自殺問題と法的支援」日本評論社 2013年)

安全なコミュニティに帰属すること自体は
治療ではなく、むしろ治療効果をあげたり、
治療機会を確保すると
健気に主張しています。
(たとえば、2015年自殺予防学会)

それはそうと、このように対人関係学と
極めて近似な主張をする(我田引水的に言えば)
オープンダイアローグは、
統合失調症をどのように見ているのでしょうか。

もっとも統合失調症の確定診断のためには
幻覚妄想が、1カ月続くことを要しますので、
それ以前に寛解させるオープンダイアローグは、
厳密な意味での統合失調症ではないことを
お断りしておきます。



先ず、統合失調症における幻覚には
「それに先立つ極限的なトラウマ体験が
 そこに含まれている側面がある。」
と考えられています。
「オープンダイアローグ」日本評論社
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7076.html


これは、すべての統合失調症に共通ということではないでしょう。
少なくとも幻覚型の統合失調症についてと聞いておいてよいと思います。
これは、対人関係学の主張と共通しています。

オープンダイアローグと対人関係学、不安に対する手当の手法 
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-25

もっとも、統合失調症が心因性の疾患だと主張しているのではなく、
根本原因は別にあるとしても、
症状を発症させる引き金となる出来事がある
という主張です。



その上で、
「オープンダイアローグは、患者の精神的発話
 私的で内的な声、幻覚的徴候の内に
 とどまったままになっている経験を
 共通の話し言葉へと育てることで
 治療を行おうとする」
とのことです。

幻聴、幻覚について、なかったことにされるのではなく、
患者にとって、
自分の不安とみんなが向き合ってくれる
という体験をすることができるということになります。

実際、
「チームがなすべきことは、すべての参加者が
 患者にどのようなことが起こったかについて
 もっと話すよう促すような(励ますような)
 対応をすることである。」
としています。

統合失調の奇妙な体験が、
自分の不安の表現だったり、
自分の不安を解消するための活動だったり
ということであれば、
それを一概に否定されるよりも、
その原体験だったり、
現在の不安感を
承認してもらった方が
安心することは間違いないでしょう。

それらを否定されることほど
傷ついたり、尊重されていないという感覚を持つ
大きな原因になるはずです。



もっとも、幻覚をすっかり肯定するわけではありません。
まず幻覚を見ていること自体を承認するわけです。
そして、それを語っていくうちに、
具体的な言葉を見つけていくうちに
その正体を語りだすし、
患者自体がその深い部分を語りたがっている
ということがあるようです。

根源の不安や、原体験を
承認されて、いたわられれば、
奇妙な幻覚を語る必要が
患者から消えてしまうということなのでしょうか。



「オープンダイアローグでは
 患者にとって重要な社会的関係を持つ人たちが
 ミーティングに参加する。
 それゆえ、そこで生じる新たな理解は、
 初めから社会的に共有された減少となる。」

「患者の人生に非常に重要な人たちの間で
 新たな理解を持つ社会的コミュニティができあがる」

ということです。

これは強いことだと思います。
ダイアローグという手法は、
医師も、心理士も、患者も家族も
みな対等な関係ですし、
誰の主張も否定されません。
(このあたりの技術が興味あるところです。)

この一つの効果として、
自分の意見が否定されず、
意見者が尊重されるということになります。

そして、誰も、他人の指図を受けない
という図式も成立するわけです。

どんな優れた施術者も、
患者を前にすると、
あれこれ指図をして、
患者を自己の判断に基づいて
行為をさせたり、考えさせたりするわけです。

患者は他人の意見に従わなければなりません。
それが支援であっても治療であっても
そのような側面があります。

これを徹底的に取り除いたのがオープンダイアローグの
手法なのでしょう。

あくまでも、コミュニティーの共同作業なのです。
しかも患者は、その中で特に尊重される重要な主役なのです。
それは居心地が良いでしょう。

ただ、そのようなモノローグ的な施術の中でも
箱庭療法などの芸術療法では、
それが成功した場合に、
共同作業の関係、対等なコミュニティが成立する場合があります。

そのような説明はないのですが、
オープンダイアローグが成功するのであれば、
共通項となるのはコミュニティーないし共同作業
だという可能性もあるのではないでしょうか。

しかし、このような療法が成功したとしても
致命的な結果があります。
それは、施術が終われば
医師や心理士との関係が終わるということです。

また元の孤立した、ストレスを与えるコミュニティーの中に
統合失調症患者として戻らなければならないことです。

これが、オープンダイアローグでは、
初めから解決してしまっている
ということです。



このオープンダイアローグの思想から見た
統合失調症患者に優しいコミュニティーというものが見えてきます。
人を尊重するということ、弱点を責めないという
やさしさの手法が見えてきます。

これは、統合失調症の患者さんにとって優しいならば、
健常者にとっても優しいはずですし、
あるべきコミュニティだということになりますが、
これまでも語っているし、長くなりますので
ここでは割愛します。

対人関係学の主張とオープンダイアローグの実践が
見事に重なり合うし、
これまでの学問と異なり、
むしろオープンダイアローグの方が
具体的かつ技術的ですので、
大いに学んでいかなければなりません。



いろいろな技術的なことを述べてきましたが、
もしかして一番大切なことは、
オープンダイアローグの技法の以前に、
まだ、統合失調症の確定判断が可能となる以前に
国費で、専門家集団が
一人の患者さんに対して手を差し伸べる
というシステムが功を奏しているのではないかと
考えています。

我が国ならばどうでしょうか。
身内が幻聴、幻覚を述べたとしたら
先ず、なかったことにされるのではないでしょうか。

次に、無理やり、
精神科病棟に行って鍵をかけるという発想しか
出てこないということはないでしょうか。

誰も支援をしないで、
連れて来たら治療しましょうという
社会体制ではないでしょうか。

統合失調症に対する差別は
病態よりも、その治療過程にも根源があるようにも
感じられてきます。

遺伝など原因不明で
治らない病気だというイメージも出てきてしまいます。

これが逆に、治る病気であるし、
治療過程の中でも、否定的な評価をされない
という態度をとられるのであれば、
家族も、本人も、幻覚幻聴を隠す必要がなくなります。

オープンダイアローグは、
治療者と患者とのオープンな関係だけではなく、
患者とその家族と社会とが
オープンな関係にあることで
成立しているところに、
早期介入が可能となる条件があり、
治療効果が上がる重大な要素があるような
そんな感想を持ちました。

日本ではまだまだ遠い存在だろうと思いますので、
対人関係学が治療だといわれる日は
なかなか来ないことと寂しく安心している次第です。