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戦争の条件とマスコミの貢献、私たちの心の中で戦争の準備は既に始められている。「この世界の片隅で」を観て [事務所生活]

「この世界の片隅で」を観ました。
おそらく、「単なる反戦映画」
というものは存在しないのだ
ということを改めて感じています。

この映画を観て、
喜びや悲しみという人間の当たり前の在り方を
根底から奪う戦争というものに対して、
当たり前のように絶望を押し付けてくる戦争に対して、
それを起こさないという人間としての役割を
自分が与えられているということを自覚しました。

怒りという浮ついた感情より深く
人間の精一杯の生の営みを
仲間である人間として支える
そういう役割です。

「ぼーっとしたまま一生を終わりたかった。」
といったすずの叫びを忘れることはないでしょう。
映画を観て泣けたならもう少し苦しくなかったでしょう。


現代の戦争は、
為政者だけの判断で起こすことはできません。
ある程度の大衆の支持が必要です。

日本の為政者も、明治以来
国民を戦争支持へと誘導し続けてきました。
いくつかあるうちの誘導の方法の中で、
国民感情ということについてお話ししたいと思います。

国民感情とは、戦争を支持する
漠然とした世論です。
どの程度の人数の
どの程度の強さが必要なのかは
よくわかりませんが
そういう支持が見られてきました。

支持とは熱のようなもので、
熱に浮かされている国民がある程度存在すると
冷静な国民は黙らざるを得なくなるようです。

私の父と伯父は
太平洋戦争末期、10代の半ばを過ぎていました。
既に特攻隊が出動しており、
報道もされていたようでした。

父と伯父は特攻隊を知り、
祖父に対して、自分も特攻隊になると志願したそうです。
祖父は、死ぬことだけがお国のためになることではないと
一喝したそうです。

感受性の強い子どもたちが、
戦争の熱に浮かれており、
年配の者は、比較的冷静に見ていたのかもしれません。
しかし、既に戦争を支持する国民感情は
完成されていたわけです。

戦争支持のためには「怒り」の感情が
優位になっていることが必要です。
相手国の人間を殺害することを厭わないためには、
どうしても「怒り」という感情が必要です。

親が子どもを見殺しにせざるを得ない状況
兵士にも親があり家族があるということを厭わない状況
家族や夫婦、恋人や友人が
死別していく状況
体を不自由にされて一生涯苦しむ状況
心がすさんでいく状況

ありとあらゆる戦争にまつわるその人の状況について
何も気にしないという戦争当事国の
国民感情を支えるものは「怒り」の感情です。

「怒り」は、自分に降りかかった危険を
回避するための脳内の反応です。
これによって、脳がホルモン分泌を促し、
交感神経が活性化し、
脈拍、血圧、体温の数値を上昇させ、
筋肉を動かしやすくして戦いやすくするわけです。
その時の自覚している気分が怒りです。

さらに怒りの状態では
思考の焦点は、戦闘が終了したか否か
勝ったか負けたかという
二者択一的なものとなり、
極端な思考の視野狭窄がおこります。
相手に対する配慮などということは
起きにくくなるわけです。
そうすることで、生存率が高まる
ということになります。
「怒り」は生物としての生きるための仕組みです。

この視野狭窄のために、
戦争相手の人間に対する思考が停止し、
相手方の苦しみなどについて
考えが及ばなくなります。

国民の中に多少の戦争反対の動きがあったとしても、
そもそも戦争をするべきかやめるべきか
という思考が生まれてきませんから、
議論にならないことは当たり前なのです。

では、国民の「怒り」は作ることができるのでしょうか。
それには、まず、「怒り」の成り立ちを
お話ししましょう。

「怒り」は、危機に対する反応だと言いました。
この場合の危機は、実は何でもよいのです。
例えば、害虫を見て、害虫を攻撃するような
危機の所在に対して適確に対応するよりも、

別所からの危機に対して
他方に攻撃をしてしまう、
いわゆる八つ当たりということが多いということが
「怒り」の特徴です。

例えば、職場で上司に激しく叱責されて
職場内の自分の立場に危機意識を持っていると
帰宅してもイライラした感情が続き、
何気ない家族の言葉に敏感に反応してしまい、
些細な言葉(些細な危機感)に対して、
不相応の強い攻撃をしてしまう
ということがよくあることと思います。

人間は、身体生命の危機だけでなく
対人関係の危機においても
同じような反応をします。

これが、自分より強い相手で
まともに責めても勝てないということが
初めからわかっていると
「怒り」という感情は起きにくいです。
「勝てるという判断」が「怒り」
を起こしやすい条件ということになります。

ちなみに勝てないという判断は、
不安や恐怖という気持ちになって現れます。

勝てない相手が原因の危機意識は
相手に対して「怒り」の感情を形成できませんが、
危機意識は持続しているわけです。

この時、勝てる相手が原因となっている危機意識が生まれれば、
勝てない相手の危機意識も合わさることによって
大きな「怒り」が形成されてしまうわけです。

第1の結論です。
国民に「怒り」を持たせるためには
危機を与えればよいということなります。

危機は対人関係的な怒り、
即ち、自分が所属している群れの中の
居場所がなくなるかもしれない(立場を失う)とか
自分だけが損をしているというような意識も含みます。

つまり、
失業、いじめ、パワハラ、
ほしいものが「自分だけ」手に入らない
低収入、将来に対する不安
家族や職場での不信感、疎外感
そういうものが人為的に作ることができるのであれば
潜在的に「怒り」を形成する火種を作ることができるわけです。


さて、「怒り」にはもう一つ特徴があります。
実は、相手に勝てないと判断しても
「怒り」を形成して戦いを挑む場合があります。
それは、仲間に対する攻撃があった場合です。
人間が群れを形成する動物としての本能として
仲間、特に弱い仲間を助けようとする
行動をするというものがあります。

この本能は、自分が無謀な戦いに挑むという行動だけでなく、
弱い者に対して可愛いという感情を持ったり、
弱い者を助ける行動に自分の喜び、達成感を抱いたり、
他人の行動に称賛をする感情を抱いたりします。

心が勝手に反応することが
本能の本能たるゆえんなのです。

誰かのために戦うものが強い理由がここにあります。

母熊が子どもを守るために攻撃的になる理由もそうです。
但し、人間は母子の間だけではなく、
血縁関係のない仲間に対しても
守ろうとする意識を持ってしまいます。

自分はともかく、自分たち、自分の仲間が
危機になることを許さないという意識です。
「正義感」という言葉の多くが
このことを指すのではないでしょうか。

戦争末期、私の父や叔父が特攻隊に志願した理由も、
おそらく、母親や姉や妹といった女性、
自分より年下の子どもたちを守ろう
という意識だったのだと思います。

父が私に繰り返し伝えていたメッセージが
この「弱い者を守れ」というものでした。

このような仲間を守る意識は、
本能的に、自分が死ぬ恐怖すらも忘れさせます。

「憲法9条を守ろう」と主張する人たちに対する
少なくない人たちの潜在的な反発、不信感は、
弱い者を守ろうという意識に支えられているのです。
これは意識的な意識であることも少なくありません。

第2に、「怒り」は、自分たちを守ろうとする本能が
刺激されて怒るということでした。

そうすると、
いま私たちが、自分たちの日常を離れて
「怒り」を誘導されていることが多いことに
気が付くことと思います。

ひところ、SNSで、
ちょっといい話として、
妊産婦や障碍者、老人等が攻撃を受けているという設定があり、
それを女子高生や、バスの運転手、一人の老人が
攻撃者を追い込めてしまう
というような「事例」紹介記事が増えていました。
おそらく、フェイスブックなど反応がわかる媒体を通じて
どのようなシーンが人々の怒りの共感を広げるか
解析することができたと思います。

今、それがテレビ番組とまでなっています。

「誰かを攻撃したい」ということが
危機の八つ当たりの特徴です。
そして、攻撃感情に後ろめたさを持たないために
攻撃対象が悪であることが必要なのです。

相手を悪と塗りこめて、
悪だと叩いて喝采する
自分たちの持っている危機意識を
幾分解消する
こんな勧善懲悪が流行しているようです。

戦前直前以外の日本においては
就学以前の子ども向けとされていたはずの勧善懲悪が
大人の間で流行しているという状態なのです。

報道でも同種の手法が
反省もなく繰り返されています。

一つはいじめの報道です。
いじめの起きた学校を、突き止め、
記事では匿名にしながら、
校舎の写真を掲載したり放送したりして
どの学校でそれが起きているか
捜させようとしているわけです。

不特定多数人がどの学校で起きたかを知ることは
いじめの解消には無関係です。

その報道で何が起きるでしょうか。
その校舎を知っている人が学校を特定し、
学校内部の事情を知るものが、
いじめられた生徒、いじめた生徒
担任など学校関係者などの
実名や写真をインターネットで公表するのです。

全く無関係な人の実名や写真も
被害者加害者として流されることもある上、
その学校の生徒全員が
加害者扱いされています。

全く無関係な学校の地域の住民までが
罪悪感を抱かされています。

何にも関係のない人たちが
正義感を振りかざして、
漠然とした対象を攻撃しているのです。
まさにこれこそが「怒り」の構造です。

先日このブログでも紹介しましたが、
教師の不適切発言が報道されました。
言葉だけが切り離されて報道されたということ、
報道の内容と学校、教育委員会の対応に
警戒するべきだと言わせていただきました。

今日はその後日談をお知らせしたくて
書いているものです。

生徒たちに対する説明会の数日後
保護者に対する説明会があったそうです。
夜に開催されたにもかかわらず、
100人以上の人たちが参加したようです。

かなりの人数の保護者の方々が発言したとのことですが、
全員が、加害者だと報道された教師を
擁護する発言だったとのことでした。

新聞に情報を提供した人の主観でもって
学校や教育委員会が振り回されて、
教師を悪者扱いにして、
学校や教育委員会が不適切な対応をしたために、
かえって当該子どもが、友達から浮いてしまっている
というのです。

学校側がマスコミからたたかれるという危機意識を
当該教師に対する攻撃に転嫁させて、
それで保護者に納得してもらおうという
「怒り」の共有を形成しようとした意図が
保護者から見透かされて、逆に攻撃を受けた
ということでした。

それにしても、当該教師は
生徒たちや保護者からの信頼が厚く、
「ほかの先生だったらよいけれど」というわけではないでしょうが、
よりによってその先生が生徒を虐めたと
攻撃されることが納得できない
というような感情が校長と教育委員会を除く
生徒と教師と保護者の総意だったようです。

(これを書いているときにも私の心にも
 校長や教育委員会に対してかすかな攻撃意図があり、
 保護者たちの対応に喝采しているという
 「怒り」の構造があることを自覚しなければなりません。)

それにしても、このひどい報道
被害者とされる保護者の主観に意図した報道は、
あたかもそれが真実行われたような印象をまき散らし、
その学校に通う生徒たちの圧倒的多くを傷つけました。
保護者達に危機感を与えました。
当該子どもは、友達の中に戻れないまま冬休みを迎えました。

そのような、誰かが傷つく、不利益を被るということを
少しでも推測できる能力があるならば、
いたずらに「正義感」をふりかざすことは
できないはずです。
これがインターネットの私的なブログならばともかく、
新聞報道でなされることの
なんと愚かしいことか落胆せざるを得ません。

昨今のこの新聞の学校攻撃は異常だと思います。

(また、そのような記事に対して、
 教育委員会は抗議や申し入れをする予定はないと
 説明会で述べていたそうです。)

これは、当該新聞社が
戦争協力を始めているか否かにかかわらず、
弱い者が攻撃されているということを印象付け
真実か否かにかかわらず「怒り」を拡散しているわけです。
マスコミという、要請されたインテリジェンスに照らして厳しく見ると
戦争に必要な条件づくりをしているということです。

マスコミの戦争犯罪は
大本営発表の虚偽の事実を報道したり
必要な事実を報道しないこと以上に、
国民の危機意識をあおり、
「自分たち」の防衛を意識付け、
他国に勝てるという情報を提供し、
「怒り」をあおったことにあります。

そうやって、国民の多くに戦争支持を誘導したのです。

まさに、この報道は
現在のマスコミの状態が
戦争前の程度まで低下していることを示すものだと
思えてなりません。

21世紀の私たちは
素朴な怒り、素朴な正義感こそ
警戒するべきだと思います。

「あなたは悪くない」という絶望の押し付けからの面会交流を通じての子連れ離婚母の回復とは [家事]

離婚をすると、子どもがいる場合、子どもは、
父親か母親かどちらかと同居し、
どちらかとは別居することになります。

子どもにとって離婚は、
健全な成長に悪影響を与えますが、
別居親と定期的に会うことによって
この悪影響が改善されるということが
様々な調査によって明らかになっています。

しかし、実は、面会交流は、子どもだけでなく
親にも良い効果が期待できます。
もちろん別居親に良い効果が期待できることは
想像がつくことですが、
同居親こそが、面会交流が必要だ
ということがわかりました。

特にこれが当てはまる典型なケースとして、
役所などの「支援」によって
子連れ別居をして離婚したお母さんにとっては
劇的に良い効果が現れます。

役所などの「支援」がどのように行われるかについては
以前書きました。

「後に裁判所でDVはなかったと認定された事例の
公文書に記されていた役所の「DV支援」、
家族引き離しの実態 女の敵は女 1 」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-12-09

先ず、役所は、女性に対して、
「このまま一緒にいると命の危険がある。」
「子どもを連れて逃げなければならない。」
と言うのです。

女性は、10年間一緒に暮らして子どもがいるにもかかわらず、
「自分はとても怖いところで長年暮らしていたんだ」
と思うようになります。

大体こういうお母さんは、
常日頃、不満をもっても、
自分が悪いからかもしれない
と思って過ごしているようです。

夫に改善を求めませんので、
夫は行動を修正しようという気は起きず
何もよくなることはありません。

悪く言えば物言わない批評家です。

だんだん嫌な思いを続けて、
嫌な部分だけを相談しますから、
役所や警察は、
「あなたは悪くない」
と「支援」をします。

そうして、逃げることを勧められます。
初めに居場所を隠します。
これは徹底していて、
共通の友人にも話してはいけない
という指導が入ります。

警察庁などの通達
https://www.npa.go.jp/pdc/notification/seian/seiki/seianki20131220.pdf
これの4頁から記載されています。

そうすると、妻は、
自分は、居場所を徹底的に隠さないと
命の危険があると
だんだん思っていくのかもしれませんね。

必死に逃げてゆきます。
やがて、一緒にディズニーランドや水族館に行ったこともすべて忘れて
嫌な気持ちになったその気持ちだけが思い出されるようになります。

逃げて行けば見つかるのが怖くなります。
かくれんぼというか、逃走中というか
見つかったからと言って何か悪いことがあるわけではないのに、
見つからないようにドキドキしてしまうのですが、
あれも逃げるから怖くなるのでしょう。

この気持ちは5年たっても、10年たっても変わりません。

街中に出ると見つかってしまうかもしれないと思い
地域に引きこもって暮らすお母さん、
街でよく似た背格好の人を見るだけでパニックを起こすお母さん
10年たっても手紙が届くと怖くて警察に駆け込むお母さん

とても幸せだとは思えません。

90%以上「支援」の問題だと思います。

支援は継続しません。
幸せになるための支援ではなく、
何件相談に乗った
何件離婚させた
何件逮捕した
という統計上の数字をあげるための支援
なのではないかと勘繰りたくなります。

離婚して少したつと
女性の支援者ほど、支援に飽きてしまうようです。
女性の支援者ほど、女性の曖昧な
煮え切らない態度を非難します。

この「支援」は、女性にどのような効果を
与えてしまうのでしょうか。

一言で言って絶望です。

自分が安心して生活していた家庭が
実は危険のるつぼであった

自分が息苦しさを感じていたのは、
夫が自分を虐待するからで、
夫が自分を虐待するのには
夫がそういう人間だからだ
理由は存在しない

「自分は理由なく攻撃を受けていた」
これが、人間にとって
最も有害な考えなのです。

この絶望を回避するために
人間は、色々合理化をしようとしますし
最終的には自分が悪いという自責の念を持ちます。

自責の念は持たない方が良いのですが、
絶望を感じることを回避するための
防御反応ですから、最後のよりどころです。

それなのに
「あなたが悪いわけではない」
という「支援」は、
この最終防御反応すら奪い、
絶望にさらすという
極めて過酷な働きかけになる可能性があるのです。

本当の支援者は、この自責感情にも寄り添わなければいけません。
「心的外傷と回復」ジュディスハーマン 79頁

「支援」によって、絶望を押し付けられた女性が、
回復ではなく、恐怖の固定化に陥ることは
必然でしょう。

しかし、この恐怖や不安は、虚構のものです。
ここからの回復もできると私は思います。

第1に、自分が苦しんだ元夫の行動の
メカニズムを理解することです。
この時、「良い悪い」という観点を捨てることです。
物理学のように、事象、因果関係として
過去を観察するのです。

そうすると、妻側の無意識の言動を
夫が悪く感じて、防衛行動を起こしていることが
理解できるでしょう。

双方が、自分と相手の区別を十分つけておらず、
相手に対して無理な希望、期待を持っていることがわかるでしょう。
現実の相手の心ではなく、
自分の理想
自分の道徳
自分の価値観
を押し付けていたことがわかりだすと思います。

夫が、あなたを嫌っていたのではなく、
いつまでも一緒にいたいけれど
その自信がなかったことがわかってきます。

「あなたが悪いわけではないけれど
 あなたの苦しみには原因があった。
 だから、そのことを繰り返さなければ
 あなたは幸せになれる」
概ね、これが真理だと思います。

法則を理解することによって
人は自由になれるわけです(ヘーゲル)

第2が面会交流です。
安心して子どもを相手にあわせるまでは、
第三者の、同居親と別居親に対する
支持的なサポートが必要ですが、

少しずつ、馴れていくことが有効です。
最初はメールのやり取りでよいでしょう。
事務的なやり取りを双方心掛けるべきでしょう。

愚痴や非難めいたことは書かない
というルールを作るべきです。

それから、どういうことが非難めいたということか
具体的に指摘していくことが大切です。
相手にも学習してもらうのです。

メールから、電話、
子どもの引き渡しに現れる
だんだん接近をしていき、

自分が心配している悪いことは何も起こらない。
再婚するわけではないならば
特に心配することはない
ということを少しずつ認識していくのです。

いわゆる馴化(じゅんか)ということです。

「相手と接触しても悪いことが起こらない」
これを繰り返し刷り込むことによって、
少しずつ安心を取り戻していきます。

人間関係はそれほど難しいことではない
ということを双方が感じるようになれば、
もはや逃げる必要はなくなります。

現在の子ども連れ去り離婚型の
お母さんの恐怖は、
怖いから逃げるというより、
逃げるから怖い、不安だという
逃走中の逃亡者の意識だと思います。

そして、「あなたは悪くない。」
という絶望を押し付ける悪魔のささやき
があります。

幸せになるために離婚をするなら、
先ず修復を試みてみましょう。
それで修復ができなくても、
あなたが10年たっても恐怖を抱き続ける
ということが無くなることと思います。
無駄なことでは決してありません。

一般の方に向けた相続セミナーで話すべきこと 亡くなった人の借金を返さなくてもよい方法とそれが使えなくなる場合 [家事]

相続案件は、あまり手掛けたくないのですが、
これまで手間が多くて重い案件を多く担当しています。
だから手掛けたくないのかもしれません。

相続セミナーというものが開催されているようです。
いろいろな方が、色々な場所で、
それぞれの目的をもって行っていることなので、
すべてのセミナーでこれをいうべし
ということはありません。

むしろ、一般の方向けに
法律的にややこしいことをお話しても
かえって混乱して、間違った対応をとる
ということもあり得るので、
細かいことを正確に話して知識を持ってもらうことよりも
この分野に来たら専門家に相談に行ってほしい
ということを言うべきだと思います。

そういう意味で、一般の方や
特に悩みの相談に乗る方々にお話しする場合、

法定承認ということをぜひお話していただきたいと
思っています。

法定承認とは、
相続が開始された場合に(誰かが亡くなった場合)、
本来、放棄をすることもできるのです。
ところが、相続人が、ある行為をすると
放棄ができなくなってしまう
そのある行為が法定承認なわけです。

ここで、少しおさらいです。

相続は、誰かが死亡した場合、
法律が定める相続人が、
その財産上の地位を譲り受けてしまうことです。

預貯金とか、不動産とか
目に見える財産があるだけなら、
ウエルカムということが多いでしょう。

ところが、そのような積極財産だけでなく、
借金返済や、代金返済など
債務も譲り受けてしまいます。

そうすると、数十万の預金はあるけれど
数千万円の債務もあるならば、
相続したくないですよね。

そうすると、相続放棄の出番です。
相続放棄をすると
数十万円の預金も相続できませんが、
数千万円の債務者の地位も相続しなくて済むわけです。

いつまでも相続放棄ができるわけではなく、
相続の開始を知ったとき、つまり
1)自分が相続する人が死んだこと
2)死んだ人に、何らかの財産(債務も含む)がある事
この2つを知ったときから3カ月だけが
放棄が許される期間ということになります。

但し、この3カ月は、事情があれば
ある程度伸ばすことができますので、
(熟慮期間の伸長)
3か月じゃ足りないという時は、
なるべく早めに弁護士に相談に来ることが肝要です。

法定承認は、
3か月たたないのに、
相続放棄ができなくなるという制度です。

これを知らなかったばっかしに
本来負わなくてもよい莫大な債務を負って
自己破産などをしなくてはならないという悲劇が
いくつもあります。

法定承認になってしまう一番の事情が、
債務の弁済です。

例えば、父親が亡くなったとします。
亡くなった父親には、借金があったとします。
貸主からは、
「お前の父親が借金したのだから
 子どもか変わって返すのが人の道だろう」
なんてことを言われるわけです。

子どもがまじめであればあるほど、
それはそうかもしれないなと思い、
債権者からは
「あなたもお父さんが亡くなったばかりだから
 一度に返せとは言わないから
 まず、千円だけでも入れてくれれば、
 店長には俺からうまく言っておくから」
なんてことを言われて、
どうもすいませんなんてことで
千円を財布から出して払ったとしたら、

弁済行為ということになってしまうわけです。
これは、「私は父の借金を返すことにします」
と言ったことになるとして、
後に放棄をすることが許されなくなる
ということです。

一人住まいをしているアパートの
延滞家賃とか、難しいですよね。

こういう場合どうしたらよいか。

「亡くなった人の借金を返す前に
 まず最寄りの弁護士会に相談」
ということをまずもって覚えてください。

借金の返済を請求するのは
金融機関に限らず
市役所などの自治体のケースも多くあります。

早めに、無料相談などでもよいですが、
どうやら、他の職種ではなく、
弁護士に相談することが間違いないようです。

中学校の「つぶしてやる」報道と教育員会、校長の対応には警戒しよう!解決は生徒たちに納得のゆくものを! [事務所生活]

先日、中学校教諭が
自分が顧問として指導している中学生に
「県の指定強化選手に選ばれたのをつぶしてやる」
と言われて、学校を休んだということが報道されました。

教師は、発言内容を認め
「強化選手として頑張れという意味で言ったつもりだったが、きちんと伝わっていなかった。軽率で短絡的な言葉だった」

と謝罪したと報道されています。

地元紙は、さらに保護者の言い分を掲載し
教諭がその他にも不適切な行為をしたと
読む者に印象を与えています。

(保護者からすると、
 そのように攻撃的になることは当然です。
 私が父兄であれば
 もっといろいろと表現を尽くしたことと思われます。
 それが家族としてあるべき姿だと思います。
 しかし、それをそのまま報道するかは
 全く別問題です。)

それだけの情報ならば、
その教師に対して怒りがわいてくる方が多いと思います。
私もそうでした。

この時、怒る人の脳内では、
自分が過去において、体験したり目撃したり等
したことを思い出して、
「その時の事実」が、
その中学校で起きていると
無意識に置き換えているのです。

実際は、教師がどういうシチュエーションで
そのような発言をしたのか
われわれはわからないのです。

勝手にこうだろうと思いこんで
怒っているわけです。

われわれの怒りの構造は
まさにDV夫だと妻から申し出があった場合の
行政の対応と一緒です。

ネットなどでは、
「頑張れという意味で言うなんて
 言い訳にならない」
ということが叫ばれています。

これだけの報道の情報であれば
言い訳にならないと判断するのはやむを得ません。
しかし、それは、想像力がないだけの話です。

私の亡くなったおじが、
社会的正義感の強い人で、
良くも悪くもそういう人で、
常日頃敬遠していました。

死期を悟ったおじと
話をする機会があったのですが、
もし私の仕事のスタイルが変わり、
弱者を食い物にするような人々の味方になるような仕事をするなら
いつでもつぶしに来る
と言われました。

化けて出てやるということです。

嫌な気はしませんでした。
むしろ、身内を意識した瞬間でした。
まさに、頑張れと励まされた思いでした。

もっとも、
教師が謝罪したように、
教育の現場で、つぶしてやるという言葉は不適切です。
言ってはならないことです。

しかし、教師の発言は
シチュエーションによっては、
頑張れという意味で言われたということも
(教師の主観として)
ありうることです。

さらに、その教師と
生徒たちの日頃の接し方によっても
意味が変わるものです。

SNSのいじめの問題に取り組んでいて痛感するのですが、
人間は言葉だけでコミュニケーションを
とっているわけではないのです。

言葉だけを取り上げて厳しい処分をしたり
さらし者にすることには
抵抗があります。

攻撃モードになると
そういうことは見えてきません。

もう一つ見えてこない場合があります。
逃走モードです。


この報道で、もっとも疑問が生じ
ふと我に返らせたのが
「今回の問題を受けて、この教諭は部活の顧問を辞め、
 男子生徒の授業を担当する際には
 校長や教頭が立ち合っているということです。」
という記事の部分です。

怒りにとらわれていると
そのばかばかしさに気が付くことができません。

この記事を読んだ生徒たちは、
自分たちの授業に、
校長や教頭が立ち会うという異様な光景を
その目で見ているのです。

ここでさらし者になっているのは、
教師ではなく、
被害者とされる生徒自身です。

おそらくいたたまれない気持ちになっていることでしょう。

要するに、このパフォーマンスは
生徒のために行われているのではなく
「学校は対応をしている」というアッピールのために
行われているわけです。

生徒の気持ちは不在だと言わなければなりません。
そういう意味で茶番です。

被害を受けたという生徒と
先生を慕う生徒たちの気持ちは
踏みにじられているのです。

こんなくだらないことを
教育委員会だか校長だか
教育をつかさどる人たちが
思いついて実行しているのです。

逃走モードのあまり
子どもたちの気持ちよりも
何か対応しているということを示し
批判をかわそうとしているとしか思えません。
学校や教育委員会も
追い込まれているのでしょう。

それに対して批判する論調がない
という嘆かわしい事態がこの国の実態なのかもしれません。
こういう時に冷静に、合理的な解決方法を考えるのが、
国力、民度というものだと思います。


私の知る限りということなので
それほど確からしい話ではないのですが、
引きこもりの多くが、
生徒間のいじめよりも、
学校側の対応に原因があった
可能性があるケースが多くあるようです。

部活動に問題がある事が多いようです。

この事件の報道を見て、
「私の子どももおんなじだ。」
「私の子どもはもっとひどい。」
と言い出す親たちが続出するかもしれません。

今回の、逃走モードの対応を見ていると
このような指導上の構造的な問題を解決しようという
そういう気概はないのだろうと思います。

収拾のつかない混乱の入り口になる可能性があると思います。


最後にいじめの学校対応と当事者目線で見続けている者から
言わなければいけないと思うことがあります。

どんな学校の対応も、
生徒たちは注目しているということです。

学校や教育委員会が
保身に走って、すべてを隠蔽している姿も
逆に
父兄の不安と真摯に向き合わないで
ただ追随して
不合理な切り捨てをする姿を
すべて見ています。

子どもたちに
説明のつかない行動をするべきではありません。

一番大事な視点は
マスコミの視点でも、教育委員会の視点でもなく
子どもたちの視点です。

それを裏切ることは
取り返しのつかないことです。

どんな事件に接しても
子どもたちは驚くほど公平公正に
見て、判断しています。

もし、今回の発言だけで
これまでの教師と生徒たちの信頼関係を
考慮しないで
重い処分が下されるのであれば、
生徒たちの大人への失望を招き、
取り返しのつかないことになると
私は思います。

支援による子連れ別居は、女性に10年たっても消えない恐怖を植え付ける  女の敵は女2 [家事]



「連れ去り」という言葉はだめなんだそうです。
子どもを連れて夫の元を去るということなので、
特に悪意が込められているわけではないと思うのですが、
抵抗があるそうです。

こういう声に耳を傾けると
見えてくることがあります。

今日はそのお話。

結論から申し上げますと

支援による連れ去り離婚をしたお母さんで
幸せになった方をあまり見ていない
ということです。

極端な例かもしれませんが
離婚して10年も経とうかというのに
離婚から何年も実家で過ごしてから、
要するに離婚から10年たってから引っ越しをして
その住所に夫から手紙が来ただけで
110番してしまうほど
怯えて暮らしている人もいらっしゃいました。


こういうケースでも
夫と同居しているときは、
いろいろ不安や不満がありながら、
それなりに楽しいこともあり
(忘れていることが多い)
一緒に人生を送られているのです。

子連れで別居して、
色々手続きを取って
晴れて離婚して
子どもとの生活を送っているのに、
元夫を病的に恐れて
夫に似た人を見るだけでパニックになるので、
ばったり会うのが怖くて街中も歩けない
というお母さんが多いのです。


せっかく、夫を独りぼっちにして
自由を手に入れたのですから、
もう少し幸せそうに、
晴れやかな生活をしていてもよいと思うのですが、


このことを考えだすきっかけがありました。

先日ある離婚訴訟で
子どもを連れて別居した
妻の本人尋問がありました。

それまでは、怒りや呆れ、あきらめがあり
幸せではないという自覚があったようです。
ぼんやりと自分に何か悪いところがあるのだろうか
と思っていたそうです。

ところがあるときから
夫を恐れるようになったそうです。
そのあるときというのが
女性の権利の相談を受けたときからだというのです。

「あなたは悪くない。」
と言われたそうです。
「ああ、自分は悪くないんだ。」
ということなので、
一見良いことをしたように思うでしょう。

ところが、実際は、
それまで怒りの対象だった夫が
恐怖の対象になったというのです。

こういう方は少なくありません。

先ず、夫の顔が見れなくなります。
裁判所ででもそうです。
中には、うつ病になり仕事にも行けなくなる人もいました。
カウンセリングを受け続けてる人もいます。

これが、いわゆる虐待とでもいうような
ひどい目にあった人たちならばわかるのですが、
必ずしもはっきりしたことのない人たちでも
見られるのです。

それで、この記事の前の記事で、
「どういう支援を受けていたのだっけ?」
ということでおさらいの意味もあって、
整理したら、
そのひどさに改めて怒りがわいてきました。
そうして、なんとなくわかったような気がしました。

要するに、役所が行う
不安を持っている妻に対する支援は、
一言で言って、
「直ちに子どもを連れて逃げなさい。」
ということに尽きるというものです。

しかし、それまでの何年間
いろいろと不満はありながら
同居してそれなりに
外食をしたり、旅行に行ったり
家族として生活していたのです。

しかし、妻が何か反論をすると
「DVはなおりません。命の危険があります。」
とくるわけです。

しかも、親身に聞いてもらっていますし、
自分の味方はこの人たちだ
と思うようになるのかもしれません。

自分が悪いのではなく
1から10まで夫が悪いんだ
というアイデアに、アヘンのように
依存していくものかもしれません。

だんだん良い思い出にふたをして
その日まで同居していた夫から
逃げ出して、居場所も隠す
子どもも連れていくという結論から
逃れられなくなるのかもしれません。

<どうして夫が怖いのかの考察>

一つには、支援を受けることによって、
夫は、自分を支配しようとする
「典型的なDV夫」だと
思うようになるのではないでしょうか。

「知らないうちに、自分は
 とんでもない悪い人間と
 夫婦になっていた。」
という背筋も凍るような思いをしているのかもしれません。

自分が一緒に住んでいたリアルな夫像は
自分の認識の甘さだということで、
記憶も入れ替えられているのかもしれません。

別の理由には
私は後ろめたさがあると思います。
だって、自分が体験した事実と違うことを
夫の印象だったり、出来事だったり
こちらが訂正しないことを良いことに
「支援者」たちは勝手に決め付けて
どんどん、別居と離婚を進めてしまうのです。

そんなに夫が悪い人だろうか
ということを思うことは許されません。
しかも、圧倒的多くのケースでは
子どもは父親を嫌ってはいません。
父親も子どもを愛しています。
そのことを妻は知っています。

「支援者」たちが子どもも
夫から遠ざけるのですが、
結局は自分が夫の元から
だますような形で子どもを連れて行ってしまうのです。

後ろめたくないわけがないと思います。

だからこそ、言い訳をするのです。
「自分が幸せでなければ子どもが幸せではない」
「このまま夫婦がいがみ合う姿を見せていたら
 子どもに悪い影響が起きる。」
「子どもを手放すわけにはいかない。
 子どもに母親が必要だ。」

でも、心のどこかで
言い訳だとわかっているのです

だから、これを「連れ去り」とズバリ言われると
グサッと来るので
言葉にものすごい抵抗を示すわけです。

離婚できて、別々に暮らしているのに
常に、元夫が自分を探しているのではないか
どこかの街角でばったり会うのではないか
そんな心配は終わることはありません。

自分がやったことの報復を心配するわけです。

夢の中では、
夫も含めた家族で
普通に旅行に行っていたりしています。
朝起きて、汗をびっしょりかいている
そんなこともあるのでしょう。

この恐怖の理由はわかりやすいです。

元夫を、「そこから逃げる対象だ」という意識付けが
そういう予期不安による恐怖を作り
固定化していると言って矛盾はないでしょう。

だから、そういう「支援」をする役所に尋ねたい。
自分たちの「支援」で離婚した妻や子どもたちが
その後どのような生活をしているか、
元夫の影におびえていないか
追跡調査をしているのかということです。

別れさせて終わり
相談を受けて、直ちに別居して
家庭裁判所で話し合いなさい
(離婚調停ですから離婚にしか向かいません)
というアドバイスして終わりではないでしょうか。

それでは、このような「支援」は
女性を幸せにすることが目的なのではなく
離婚させることが最終目的だと
結果としてそうなると私は思います。

経済的に苦しくなる
男手がなくなる
それだけではないのです。

妻の心にも有害なのです。

「子どもを笑顔にさせたい」
そんなことさえ忘れてしまうような
そういう生活になってしまうかもしれないのです。

私はそんなことにならないように
夫婦の生活が快適になるような方法を研究していますし、
離婚が避けられない場合でも
子どもと相手親との面会交流を頑張っている
お母さんのお手伝いをしています。

問答無用で人の人生を破壊することに
断固反対しています。

後に裁判所でDVはなかったと認定された事例の公文書に記されていた役所の「DV支援」、家族引き離しの実態 女の敵は女 1 [家事]

後に裁判所によって、妻が主張する夫のDVは
存在しないと認定された事件があります。
それにもかかわらず同じ事実を、警察や区役所は、
妻の主張を鵜吞みにしてDVがあったとして
「支援」をしていたのです。
その内容が、公文書に記されていました。

ケース1

警察署において、警察官が被害届を出すよう説得している様子。
警察官:
「私(警察官)からはDVの特徴について話しましたが、
個人的な見解として、今までの経験上
DVが治ったという例はありません。」

一警察官の個人的見解として、
DVは治らないので別れろと説得しているわけです。

警察官:
「本日からシェルターに入ることが可能かどうかの確認を行い、
被害者に対しては、シェルターでの生活内容の説明、
及びシェルターへの入所の希望を聞きました。
また、警察署内相談室を相手方との話し合いの場所として、
警察官立ち合いのものができることについて説明を行いました。」

ここで妻は、夫ともう一度話し合いをしたいと
警察官に告げています。
それに対して、警察官はその考えは改めろと説得します。

警察官:
「再度、DVの特徴を話し、相手方から離れるように説得したが、
 納得はしませんでした。」

妻は、翌日警察官に同行されて
区役所に行きました。
区役所では、女性職員が三人で
妻を説得しました。。

妻には受験をして合格した娘がいます。
夫と別れたら合格したのに通えなくなる
から、妻は、別れたくないと言いました。
それに対して

区役所職員:
「あきらめるしかないですね。自分や子どもの命の方が大切ですよ。」

(繰り返してお断りしますが、裁判所では夫のDVは否定されています)

区役所職員:
「今すぐ戻るのは危険ですよ。
 かえって二人で話し合っても命の危険があるから、
 それはだめです。
 家庭裁判所の調停を使って話し合いをしてはどうですか。」

妻は、子どもが父親に会えないと不安になるということを説明しました。
それに対して

区役所職員:
「優しい時期もあるけど我慢しているんです。
 それでイライラがたまって暴力をふるう。
 DVの典型的な例ですよ。また一緒になっても結局同じ結果。」

「とにかく別居したほうがいいですね。相手は変わらないと思います。」

「新しいスタートになると思いますよ。
 離れて暮らした方がいいと思います。
 子どもがいますので母子寮もあります。」

この理屈は、レノア・ウォーカーの
DVサイクルの理論を
なぞっていると思われます。
現在日本以外では、この説は
根拠がないということが定評になっているのです。

職員のいうようにこのケースが典型的なDVなの
ではなく、
「DVというのは典型的なケースしかない」
という区役所職員の貧困な発想からの決めつけで、
そのような発言がなされていると考えるべきです。

裁判所では、暴力がないだけでなく、
妻が夫を恐れてもいないことを
証拠によって認定しています。

暴力も精神的虐待もない事案で
夫から何も事情を聴かないまま、
家族分離が進められていくのです。

この妻は、本当は、
話を聞いて慰めてもらいたかっただけでした。
親身になってもらえる人が近くにはいない
という意識のあった方でした。

ちょっと相談しただけで離婚
という思いもかけない方向が、
自分の意思を超えて進行しているとこの妻は感じたようです。
そのため、その後役所などからの電話に一切応じず、
その後妻から連絡をすることはありませんでした。

「支援者」側は、妻の本当の心の葛藤、
援助を求めたいポイントを探究することなく、
自分のカテゴリーの中に妻をあわせようとしていたことがよくわかります。

だから、本当はやり直したいという気持ちを汲み取ることができず、
ウォーカーの被害を受ける女性の典型的な、
暴力夫から離れられない心理があったとしか解釈できないのである。
人をマニュアルに当てはめようとした典型的な「支援」と言えます。

ていねいに聞けば、やり直せるという自信が妻にはあったはずです。
また、その根拠を尋ねることもできたはずです。

「支援者」は、DV被害女性は、
既に夫から洗脳されているダメ女性であると見ている
こともうかがわれるでしょう。

また、いまさら「DVは、
私の思い込みかもしれません」
ということは許されない雰囲気に
なっていることもわかると思います。


<ケース2>

このケースも、後に裁判所で妻の主張
(夫の児童虐待)は妄想である可能性が高い等として、
真実は虐待は存在しないと認定されたケースです。

やはりこの妻も、
自分の不安を誰かに相談したかったのですが
頼る相手もなく、警察の相談があることを聞いて
親身に話を聞いてもらいたい
という気持ちで相談に行ったと思われます。

虐待の被害届を出したくないと妻が言っているにもかかわらず、
1時間半にわたり警察官が被害届を出すように
「鋭意説得」したと公文書に記されています。

子どもが
「被害に遭っているわけだが、
 何もわからない子どもを理由に届け出を渋るのではなく、
 親が子どもを守るため被疑者と同居することで
 再被害に遭う危険性がある
 子どもを守るためにあなたがすべきことは、
 今すぐ被害申告して警察を動かすことだ。
 養育費をもらう生活を得ても、子どもの心の傷は容易に癒えない。
 保護命令を出してほしいほど
 (保護命令の要件にはなく、妻の主張が真実でも
  保護命令の問題にはなりません。)
 悪い現状で、一緒に過ごさせて安全とは言えないのではないか。
 被害申告をするのであれば、明日の朝にでも夫を逮捕する準備が警察にはできる。」

これを延々1時間半やられても、
妻は被害届をその時は出しませんでした。
それは、そのような虐待は、裁判所の認定通り存在しなかったからです。

しかし、夫は警察に別件逮捕され、
警察は
マスコミに対しては逮捕の事実と
虐待をうかがわせるようなコメントを発表しました。
夫の実名と住所も発表して報道されたために
子どもは元の小学校に通い続けることができなくなり、
転校を余儀なくされました。

このマスコミへの警察の情報提供からも
警察が、別に
主として子どもの立場に立って
行動しているわけではないことが
理解できると思います。

ところで、憲法違反の集団的自衛権が法定された理由 [弁護士会 民主主義 人権]

集団的自衛権という言葉、
今年はあまり聞こえてきませんが、
PKOは容赦なく始まりました。
法律は通っちゃったわけです。

どうして明らかな憲法違反の法律が通るのか、
刑法に矛盾するうえ大義名分のないカジノ法案が
成立しそうな状況で気になり始めました。

いろいろな問題点があるのですが、
現政権を批判してばかりでは次につながりません。
憲法秩序という国の秩序を維持する側としては、
自分たちの行動の修正を検討することによって
あすにつながると思っています。

<戦争法案というネーミング>

一つの切り口として
「戦争法案」というネーミングに
問題の所在があったと思います。

もちろん、戦争法案というネーミングは
戦争反対を主張する人たちをひきつけた功績もあると思います。
若者たちの政治参加を実現したワードだったかもしれません。

ところが、冷静に見ると、
実は戦争に賛成ではない人たちを
ひきつけることはできなかった要因があると思います。

理念的に抑止論や自衛のための戦争論を否定したとしても、
現実の日本の有権者の多数は、
中国や北朝鮮の軍事的脅威、あるいは、もっと漠然と
何も防衛手段を持たないことの不安を感じている
ということを認めなくてはなりません。

この絶対的多数派である素朴穏健派は、
「他国から攻め込まれたらどうする」
という問題提起には逆らえないという
心理的事情があります。

さらに、政権側は、
当時の防衛法である
周辺事態法の存在を意図的に隠し
「集団的自衛権を法制化しなければ
 他国やテロの餌食になる。」
というキャンペーンを張ったわけです。

これに対する正しい回答は、
「周辺事態法、日米安全保障条約の下
 自衛隊を主体として祖国を防衛する手段は
 すでに整備されている。」
というものだったのです。

「だから、それを超えて海外での戦争に加担する
 集団的自衛権は必要ない。」
という論理の流れであれば、
穏健的多数派も納得してくれていました。
あれ?集団的自衛権って何?
と疑問を持ってくれていたのです。

ところが、政治家たちは、
政府キャンペーンに対して
侵略はされないとか
自衛のための戦争などない侵略戦争の口実だ
というだけで、
素朴的穏健派とのコミュニケーションを
自ら断ち切ってしまったわけです。

集団的自衛権に反対すればよいのに、
戦争反対の主張を繰り返し、
まんまと政権のキャンペーン戦略に
はまってしまったのだと思います。


<こちらこそ体制派>

素朴的穏健派は、
安倍首相を支持するというより
現在の体制を維持しようという
群れの論理で動くわけです。

あの時、何も戦争反対の持論を
主張するべき政治的情勢ではなかったのです。
むしろ、歴代の自民党政府を支持する
という態度を鮮明にするべきだったともいます。
われらこそがトラディショナル日本政治だとして
安倍政権こそ、異端であると
錦の御旗を奪うような戦略が
必要だったのだと思います。

論点がずれていたわけです。
また、日本多数派である
素朴的穏健派を見ていなかったのだと思います。

<エリート意識による多数派否定>

正しいことを言っている人たちは、
言わない人を間違っている
あるいは劣っているという態度を示します。
当時、自民党に賛成するなんて、

「騙されている」
「民主主義が育っていない」
「民度が低い」
というような表現をしました。

一般人はそれを聞いて
鼻もちならないエリート意識で、
「自分たち」を馬鹿にしていると
感じないわけはないのです。

ちょっと考えればわかることです。

どうせ意見を押し付けられるなら
民間政党よりも
政府の立派な人たちの意見を聞いた方が
現状維持ができる、
だって、今までそれでやれてきたのだから
という意識に誘導されるでしょう。

これは、長年来言われ続けてきたことですが
一向に改まりませんでした。

<過激表現>

この絶対的多数派である素朴的穏健派の
行動原理は、
争いを嫌うということです。

相手の人格を攻撃することはもっとも嫌います。

「死ね」等と言う言葉がプラカードにかかれている以上
一緒にされたくないという気持ちが先行してしまいます。
ヒットラーの顔になぞらえだコラージュなど
もってのほかということになります。

商業用ポスターにさえ黒マジックでひげを書き足しても、
喜ぶ子どもは少数です。
別にファンではなくても不快に思うのです。

アメリカでだれが大統領になろうとも
日本では通用しない手法です。


<対立と統一から弁証法的運動への転換の必要性>

どちらが正しいかという対立構造の
対立軸を間違ったのは反対派の方でしたが、
間違った対立軸のままで、
対立感情だけがあおられていきました。

これによって、絶対多数派である
素朴的穏健派は引いて行ったわけです。


その一方で
無理な統一行動の中で、
理性的保守派も
戦争反対の声の中で、
自分たちの主張、
素朴的穏健派が受け入れる主張を
ひそめるようになってしまいました。

1+1が3にならず、
1.2くらいにとどまってしまった要因です。

全体的な流れの中で、
自分たちのやり方を貫きつつ、
どこの運動体を大きくするかという視点で、
戦略的に行動をするべきだったと思います。

理性的保守派が運動基盤を持たず
人が好過ぎたということがあだになったと思います。

そういう情勢であれば、
理性的保守派を、
自陣の体制を縮小してでも
テコ入れをするべきだという発想を
今後は持つべきだと思います。

意識的ではないけれど
党利党略を優先させてしまう本能に
逆らえなかったという視点を
持つべきだと思っています。

正しい、優越している、合理性がある
という意見の統一を試みる精神活動から
相手のニーズ、感情にあわせた主張を展開する
それぞれが、それぞれの持ち場に応じて
お互いを殺さないで活かしていくという
弁証法的行動療法や
オープンダイアローグという
心理療法が参考になると思います。




なぜ、御社のハラスメント講習がつまらなく役に立たないのか 保身目的から前進目的への転換のご提案 [労務管理・労働環境]


ある国の機関で、幹部級の方々を対象に
ハラスメントの講習で講師をしました。
そうしたところ、それ程間を置かないで
今度は中間管理職級の方の対象の講習のオファーがありました。
別の講師の直前キャンセルがあったのだと思いますが、
前回のお話が好評だったとすれば、うれしい限りです。

なぜ私へのオファーだったのか
お話を聞くことができました。

ご回答は
通常のハラスメント研修は、
判例を紹介して分析する講習なんだそうです。

なるほどと思いました。
それは、役に立たないしつまらないだろうなと。

結局、ハラスメントの実態を知らない人が
ハラスメントについて何か話せといわれたら
そんなことしか話せないということになります。
そんな人に頼む方も頼む方ですが、
引き受ける方もどうかと思います。

<なぜ判例研究が役に立たないか>
判例研究でも、年代を追って全体の傾向を分析すれば
それなりに面白いのですが、
そのためには、労働者のハラスメントと
子どものいじめや指導死の判例と
総合的に見ていく必要がありますし、
予見可能性や相当因果関係といった
法的知識がなければ聞いてて面白くないものかもしれません。

そういう知識がある講師であっても
判例に出てくる極端な事例は
実際の職場では参考になりません。

こんな話をしても
うちの職場はここまでひどくはない
ということで終わってしまうでしょう。

あとは、ああひどいことをする人もあったものだ。
自己愛型パーソナリティという特殊な人に
出会わないようにしよう
という感想がせいぜいでしょう。

これではほとんどの職場は
講演の後と先とでは何も変わらないでしょう。
私から言わせれば「それもパワハラだ」というようなことをやっている人は
「まだ、もう少し厳しくできる」
なんてことを言いだしかねないでしょう。

その結果、裁判の事例と同じようなパワハラはやらなくても
グレードとして同程度のパワハラを行い
被害者に取っても会社にとっても最悪の結果がおきて、
世論の厳しい批判にあったりするわけです。

結局、何を話してよいのかわからない講師がパワハラの話をすると
パワハラで部下が自死することによって
上司が懲戒処分を受けないようにとか
会社が裁判に訴えられてマスコミの餌食になったりとか、
そういう保身的な目的の
パワハラ講習になるしかないようです。

ハラスメント講習は、
本来企業の生産を上げるための
積極的な攻めの姿勢の研修であるべきだと
私は思います。

パワーハラスメントとかハラスメントの
本当の意味を知れば、
実は、日常的に多少のハラスメントが
職場内に存在していることに気が付くでしょう。

そして、部下を傷つけている上司は
決して人格異常者ではなく、
平均的な人格の持ち主であります。

平均的な上司が、立場や状況によって
パワーハラスメントを起こしてしまう
そういうことが実態ではないでしょうか。

だから、
それらをすべて、懲戒処分だとか
訴訟対策だとかという対象にしていたら
人間関係なんて成り立ちません。

そうかといって放置してしまえば
被害者の精神状態が悪くなるだけでなく、
職場全体の雰囲気が悪くなり、
みんな上司が気に入らないだろうことは隠すようになり、
失点を恐れて積極的な行動を起こさないようになり、
指示を待つ人たちばかりになるわけです。

パワーハラスメントが日常的に蔓延している職場は
きわめて生産性が低い、
無駄な経費が掛かりすぎている職場になります。
また、誰も被害者がいないのであれば、
上司自身が過労死する職場でもあります。

ハラスメントだからと言って
懲戒や追放の対象とばかりしてしまうと、
なかなかハラスメントと認定できなくて
ハラスメントは結果として蔓延します。

ハラスメント行為をしないための
また、窮屈にならないための方法を提起するべきです。

しかし、
パワハラを無くすためには、
何がパワハラに該当するのかを覚えて
それをしないようにする
というだけでは到底足りません。

ハラスメントのない職場ということで
マイナスからゼロを目指すのではなく、
ゼロの先のプラスを目指すことによって
通過点においてハラスメントが無くなっている
そういう提案がベストだと思います。

積極的に従業員を尊重していくことが
どうしても大切なのです。
そうして、一人一人の従業員が、
自分が尊重されることによって
活き活きと働き、主体的に積極的に
喜びを持って行動し、
創意工夫あふれる職場にするということです。

ハラスメント講習とは、
職場における人間関係形成講習であるべきだと
私は思いながら
お話をしています。

引きこもりの解消方法としてのグループワークあるいはポリフォニー [家事]

この11月は、あちこちでお話をしてきました。
教育関係、厚生労働関係、法務関係と
お役所関係の仕事が多かったのですが、
高校の同級生のガミガミさん(まったく温厚な方)からの
リクエストでいじめの問題についてお話したとき
彼から興味深いお話を聞きました。

この方のお話を対人関係学的なというか
今凝りまくっているオープンダイアローグの
対人関係学的解釈でお話しします。

小学校、中学校で学校に登校しなくなっている現象が
宮城県では多くあります。
ガミガミ氏も、この対応にあたっていたそうです。
なかなか効果が現れなかったようですが、
何件か成功例が出てきたそうです。

共通項があるという分析をしたところは
さすがに同級生です。

それは、
働きかける方が、
家族に対してあれこれ指導するのではなく、
こちらもどうしていいかわからないけれど、
「一緒に考えていきましょう。」
というアプローチだったというのです。

ピーンと共鳴してしまいました。

引きこもりとか、うつ状態の場合、
全く信頼関係がない大人が
直接子どもに話しかけても
あまり良いことはないと思います。

先ず、親との信頼関係を構築するということは
やむを得ない方針でしょう。

子どもが学校に行かないとなると
むしろ、親の方が焦燥感が強い場合も多いでしょう。
まず、親が落ち着くということは
一緒に住んでいる子どもの負担が軽減されることでしょう。

親の焦燥感を軽減するために
学校が子どもや親を批判しない
(例:ここが親として不十分だからここを改めてください)
不登校の不利益を強調しない
見捨てないという態度を示す
何とかなるんじゃないかという雰囲気を醸し出す。

ということがあげられますね。
一言で言えば、
「登校という結果を押し付けない。」ということであり、
登校する環境を作っていくということですね。

発想を変えるわけです。
不登校を解消するために有効な指示を出すのではなく、
不登校を解消するためには、
学校と家庭が共同チームを形成するという環境を作り出す
ということだと思います。

オープンダイアローグ的に言えば、
先生やカウンセラーがあれこれ指示指導をすることは
モノローグであり、
親が主役になる、
それぞれの意見を否定しあわない、
それぞれの意見の良いところを取り入れてみる
何とかなるんじゃないかという楽観的な姿勢を示す
というのがダイアローグではないかと思うわけです。

大事なことは、そこで出される提案ではなく
そこで形成されるている人間関係それ自体なのだということです。

子どもは、一方的な指導をするはずの学校が
自分の親と対話をして共同作業をしている
そういう人間関係に安心していくことになるでしょう。

学校と親とが形成する暖かい人間関係に
子どもが安心して入っていけば、
今度は主役が親から子どもに移行していくわけです。

ここでも、拙速はいけないということになるようです。
登校という結論を押し付けることが
せっかく形成されたダイアローグの関係が
モノローグになってしまい、
子どもは、「自分のことを自分で決められないという
動物全般が抱く不安感」で
圧迫を受けて行ってしまいます。

もし、子どもにクラスの友達がいれば、
このダイアローグの中に入って、
今学校で起きていることについて
報告をしてもらうことが良いと思います。

待ち受けるクラスの方も
久しぶりという態度をすることをやめるように話し合って、
昨日も登校してきたように
普通に受け入れられたらベストなのでしょう。

まずは、さりげなく「おはよう」と言いあうことなのでしょう。

これは、子どもだけでなく
PTAでもコンセンサスを形成しておくことが
望ましいと思います。
お互いさまということですからね。

登校のブランクを
責めない、笑わない、批判しない
ということも大切ですね。

そのうちなんとかなるだろう
というおおらかな対応が必要だと思います。