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菊間千乃氏の、弁護により罪を軽くすることが再犯につながる、が妄言である事。じゃあ弁護って何ってはなし。 [刑事事件]

菊間千乃弁護士が、女性自身の記事で、
「弁護により罪を軽くすることが、再犯につながっているのかもしれない
とも感じていました。」と発言しています。

https://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/crime/30969

「万引きの再犯率は約50%と、非常に高いのです。国選弁護などで窃盗犯の担当となれば、本人に反省を促すいっぽうで、なんとか罪が軽くなるように活動をします。しかし、弁護により罪を軽くすることが、再犯につながっているのかもしれないとも感じていました。万防機構は『万引きそのものをなくす』ことを目指していますので、犯罪そのものを減らしたい、という私の弁護士としての信念と同じだと思いました」(菊間さん・以下同)

もっとも、彼女の話の主眼は、
NPO法人全国万引犯罪防止機構の宣伝にあり、
万引き事案の撲滅のためには、
司法の力だけでは足りないということなのだろうと思います。

それはそうですけれど、
それなら余計なことを言わずにそう言えば良いわけです。

彼女の話は、
自分の経験に基づいて、実感として語るのではなく、
機構の用意した資料で語っているようです。

要するに、弁護士でなくても言えることです。
目くじら立てずに放っておけばよいのかもしれませんが、
彼女は発信力が強いために、
一般の方が刑事弁護について誤解をされると困る
という意識はありました。

要するに、弁護士は、適正な刑を手練手管で軽くして
お金を儲ける仕事だという誤解です。

しかし、一般の方がする誤解だけでなく、
結構まじめな若手弁護士も、同じような議論をしている人たちがいて、
慌てているところです。

研修所の刑事弁護の講義は、
無罪弁護が重視されるということもあり、
通常の無罪を争わない、
情状弁護の技術が軽視されているような危惧がありました。

それでも、弁護士や検察官、裁判官、同僚と意見をぶつけ合って、
色々と自分なりに情状弁護の在り方について実務に入るまでも悩み、
実務に入ってからも理想の刑事弁護を追い求めているのが
弁護士だと思っていたのですが、どうも様子が違うようです。

妙な割り切りがあり、
「弁護士の仕事なんて」というあきらめのようなものを感じたので、
慌てて、書いています。
先に弁護士業務を始めている者の責任もあるでしょうから。

菊間氏の話の中での一番の問題は、「刑を軽くする」ということです。
一般の人が読めば、先ほど言ったように、
適正な刑より軽くするという印象を受けるでしょう。
そこにはダーティーな匂いがします。

しかし、不正な手段を使って
適正な刑よりも軽くするとしたら大問題です。
刑事弁護とは言えないでしょう。

また、そのような手段を使って刑が軽くなるということはありません。
そんな甘いものではありません。
そんなことは若手弁護士も重々承知していると思います。

通常の刑事事件では、
弁護士が弁護しなければ裁判が成立しないようになっているので、
実際の比較は難しいのですが、
弁護したほうが弁護しないよりも、
刑が軽くなると思いますし、
そうならないと弁護する意味が無いということも真実だと思います。

それはこういうことなのです。
現行の刑事裁判は、
検察が犯人を裁判にかけ、
有罪無罪と、有罪の場合の刑の大きさを
裁判官が判断します。

検察官は、一般予防の観点から
つまり、悪いことをすれば、刑を受けることになる
ということを示して
同種の行為が悪いこと、やってはいけないこと
ということをアッピールして、犯罪の防止に努める
ということが仕事ということになります。

社会防衛の観点から、
罪に厳しく対応することが使命です。

弁護士はというと(無罪を争わない場合)、
第1に、犯人の利益を擁護します。
社会的に孤独な立場にある犯人の唯一の味方
ということもあり得る仕事です。

罪を犯したことのやむを得ない点だったり、
犯人だけの責任ではない点だったりを主張し、
検察官が言うほど重い罪ではないということを
事実をもって主張します。

検察官が類型的な主張するのに対して、
弁護人は個別的な事情を主張していくという
大雑把な傾向の違いはあるかもしれません。

いずれにしても、適正な刑の大きさから刑を軽くするのではなく、
弁護人として考える適正な刑を主張するわけです。
その結果、検察官の求刑よりも軽くなるということは、
検察官もある程度は織り込み済みということにもなります。

だから、私は刑事弁護をしているときも、
不適正な主張をしたことが無いことはもちろんですが、
言葉はともかく、刑を軽くしてくださいという
お願いトーンで弁護したことはありません。

弁護士が、手練手管で刑を軽くするというのではなく、
適正な刑にするよう努力するということは
お分かりいただいたと思います。

第2に、弁護で刑を軽くしたから再犯が起きる
ということも、とんでもないことです。
何弁護してきたのだというか、
本当に刑事弁護したことあるのという気持ちになります。

何が問題って、ここが問題です。
弁護士が、「本人に反省を促すいっぽうで、なんとか罪が軽くなるように活動をします。」というところです。
「反省を促すこと」と「罪が軽くなるようにする活動」が
見事に分かれています。
ちょっと言葉のアヤのような気もするので酷ですが、
わかりやすい部分なのであえて揚げ足をとることにします。

私の結論を先に言うと、
「本人の反省を深めることこそ」、
結果として量刑が低くなることで、
弁護人としての関わる場合の最も大切なところだ
ということになります。

適正な刑にするための弁護活動で、
例えば、実際に盗んだ金額以上に過大に評価されていることを訂正するとか
示談をするとか、
動機とか、手段とか、盗んだ商品の行方とか
そういうことを主張しますが、
それは、弁護人が主張しなくても
ある程度明らかになっていることが多いです。

やったことは、変えようがありません。

すると、実際に結果として量刑が軽くなることにつながる活動とは、
被告人に反省をしてもらうことなのです。

ここでいう反省は特殊です。
「悪いことをした」、「気持ちが弱かった」、「流されやすかった」
「もう二度としない」、「命を懸けて更生をする」
というのが、反省になっていないダメな表現です。

では、どういうことが反省なのかという前に、
どのような場合が量刑が重く、
どのような場合が量刑が軽くなるのかを考えましょう。

基本は罪の大きさ、やったことですね
これで量刑の枠が決まります。

それなのに反省をすれば量刑が軽くなるというのであれば、
反省することと量刑の軽重はどう結びつくのでしょう。
ここがポイントです。

一言でいえば、
再犯可能性ということになります。
考えてみれば当たり前の話ですが、

ああこの人裁判所出たらまた盗むだろうな
という場合は、
刑務所に入れた方が世のため人のためだし、
できる限り長く入れようということになるでしょう。

それとは反対に
なるほど、色々な事情から、
今度はやらない可能性も高いな
と言えば、一回様子を見て執行猶予にするかとか
刑を軽めにして、今の気持ちを忘れないようにしてもらおう
とかで刑が軽くなる
大雑把に言えばこういう話です。

だから、
本当に、「二度とやらない可能性がある」
と裁判官に思わせなければ
量刑の観点からは、
その反省に意味がないことになります。

少しでも短い刑にしたい
そう思うのは人情ですし、
刑務所に長くいることに、本人にメリットはないでしょう。
そこまで刑務所サイドに余裕はありません。

しかし、刑務所にいる年月を短くしたい
できれば執行猶予をとりたい
と思うならば、
「反省」をする必要があるのです。

ここは、実務ではなかなか難しいところです。

しかし、多くの人が
刑期を短くしたいというエネルギーを
更生の意欲に変えて
自分なりに見事に反省をします。

そのためには刑事弁護でいう所の反省とは何か
どのように反省に導くか
というテーマを
弁護士は持ち続けて弁護し、
後輩に具体的に提案する
という作業を意識的にする必要があると思います。

このブログは記事が多すぎになっていますが、
あちこち反省について述べています。

長文が超長文になりましたから、
その話はいずれということで。

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ある国立大学教授の大森貴弘氏批判への疑問 必要なことは、親子断絶の危険性についての理解あるいは、子を思う親の気持ちへの理解ではないかと思う理由 [家事]

ある国立大の法学部教授が、朝日デジタル「私の視点」に大森貴弘氏を名指しして批判した記事が掲載されました。彼女は以下のように大森氏を批判しています。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S13186771.html

「兵庫県伊丹市で面会交流時に起きた痛ましい子殺し事件について「原因は親子断絶による父親の精神状態の悪化にある。面会交流が継続されていれば事件は起きなかったはずで、親子断絶の問題を告発 した事件と言える」とする見解が、何でもありのネット空間ではなく、新聞に掲載されたことに、深い悲しみを覚える。

これは、大森氏の文章に対して、ネット空間のような何でもありの主張であり、新聞に掲載されることは言語道断だという、極めて辛辣な批判です。彼女のこの主張は、仲間同士の閉ざされた人間関係の中での発言ではなく、これまた新聞という不特定多数人に向けた主張のはずです。そうだとすると、なぜ、何でもありのむちゃくちゃな主張であるのか、その理由を説明しなければ、失礼であり、品位を欠くものだと、私は思います。

 その後の彼女の論は、日本の法律は家庭に入りにくい設計になっているが、設計された明治時代は家という大人数で子どもを育てていた。両親に問題があっても、他のまともな大人が子どもを守っていたという趣旨のお話をされ、現在は、その安全弁が失われ、児童虐待に対する予算も体制も日本は貧弱だと展開されています。面会交流も大事だが、加害者の加害を見抜く制度設計が必要だとして、これがない親子断絶防止法を批判します。
そして「私は伊丹市の悲劇の詳細を知らないが、仮に父親が3カ月間、子に会えなくて精神的に病んだとしても、悲劇の責任は、面会交流を試行錯誤した母親にあるのでは決してない。子を守れなかった責任は、親を放置して育児を支援しなかった、私たち日本社会の無責任な無策にある。」と結んでいるのです。

 第1に、大森氏の論考が、伊丹の事件で、子どもが死んだのが母親の責任だなどとは言っていないのですが、彼女の話の流れは、さも大森氏がそのような主張をしているように読み手に誤解を与えることになります。 私の弁護士としての体験からですが、子どもを連れて別居した母親が、子どもに取って父親の愛情を受けることに、あくまでも反対だという人は少ないという実感があります。母親に対して適切な働きかけをして、周到に準備をして母親の不安を軽減した上での面会交流は例外的なケースを除いて実行されます。むしろ、母親に対して子どもを父親に会わせるなという無責任な「支援者」がいるために、面会を拒否するケースが大半です。この「支援者」として、行政や警察、弁護士や医者、学校等様々な権威のある職種の人たちが子どもが自分の親に会うことを妨害しているということが実情です。大体は、すでに論拠がないと否定されつくされているレノア・ウォーカー(DVサイクルとか)のお説をさらに劣化させて(DVは治らない等)繰り返し母親に吹き込んでいるのです。新しいケースの事情聴取をしても、デジャブ―のようにこういう風に言われたと聞かされるたびにうんざりしてしまいます。母親がそれを信じる原因として、夫の家族に対する日常の行動に問題がある場合もありますが、それよりも、母親の体調の問題からの精神的な不安定が要因となることが多いようです。体調の問題とは、漠然とした不安感、疎外感、孤立感です。実際の離婚事件で母親が医師によって診断された疾患名としては、甲状腺機能異常、産後うつ、月経前緊張症、全般性不安障害、うつ病、パニック障害などがあります。このような不安状態の中で、行政や弁護士、警察や医師、学校関係者といった権威があり、不安の解消のために依存をしたい人たちから、会わせてはいけないとアドバイスされると、会わせること自体が不安になるということも理解できることです。

 母親たちは、逃げることで、不安のほかに恐怖まで植え付けれられているのが実情です。現在の逃げるという政策は、即ち子どもを連れて逃げるということですから、当然に父親から子どもを引き離す政策だということを意味しています。この政策を転換するべきだということが、本来提言されるべきことだと思います。それが親子断絶防止法かといわれれば、極めて不十分であることは私も異論がありません。親子断絶防止法は、当初の案から大幅に後退してしまっており、メリットが少なくデメリットが増えてしまったと感じています。一番の問題は結論を提示しているだけで、その結論にどのように誘導するかという肝心の政策がない点です。

 第2に、彼女の論の疑問点として、親子断絶によって精神状態の悪化が起きたことを否定しているように読めることです。
 現実に、父親や母親がわが子と会えなくなることで、様々な精神症状が現れます。これまで精神科医がうつ病などの抑うつ状態、転換性障害、不眠症などと診断した人たちを私はまじかで実際に見ています。突如電話をしたくなり、相手の事情もかまわずに自分の不安を語りだす人、ほとんど日常的に涙目になっている人、誰彼構わずに攻撃的になる人、多かれ少なかれ、異常行動が見られます。

 日本人は、少なくとも江戸時代までは、子煩悩で有名でした。山上憶良の歌から始まり、モースの「日本その日その日」等、子どもがいかに大切にされていたかを物語る資料は尽きません。自分の一部だと思っている子どもと引き離されることで、精神的な不具合が生じることは当然なことでしょう。
 現在の母子を逃がし、父から断絶するという政策が人の精神を病ませる実例は枚挙にいとまがありません。

 家庭内暴力があり、命の危険がある場合はやむを得ないでしょう。しかし、現実に家族が分断されるケースは、私が知る限りそのような危険のないケースがほとんどです。むしろ、心身を蝕むケースの本当のDV事案では、なかなか法制度によって救済されない問題点があると感じています。支援制度を悪用して不貞相手の男性と同居していたケースも少なくありません。DVがないにもかかわらず、DVがあるように思いこんでしまっているケースも多くあります。この点の原因としては、この国立大学の教授の見解が支持されるべきであり、夫婦、家族が孤立していることに問題があると私も思います。但し、孤立しているため、加害者が被害者に加害をするという単純な話ではなく、お互いが、自分を客観的に見ることができず、疑心暗鬼をだれも止めてくれないということ、ちょっとの工夫をアドバイスされれば、みんなが幸せになるのにということなのです。この違いは決定的だと思います。

 逃がす政策が人を狂わせ、凶暴化させ、あるいは破れかぶれにさせ、あるいは思考力を奪い、さらなる悲劇を生んでいるということは真実だと思います。そのような側面が確かにあり、少なくないケースで見られるにもかかわらず、なかったことにされることはどうしても納得できません。まさに数の暴力です。こういう時に人権侵害が起きる者です。私は、人権侵害が行われていると思います。女性の権利を守る名目で、子どもと会えない親の人格が国家によって否定され、子どもが両親から愛情を注がれる権利が理由なく奪われ、子どもの親を絶対的な悪だと子どもに対して繰り返し吹き込む、そのような野蛮なことが横行していると声を大にして言いたいのです。最大の犠牲者は、自己のアイデンティティをないがしろにされる子どもたちです。

 第3に、彼女の主張で、もし、親子の引き離しによって父親の精神破綻が生じて暴力に出たということ自体を否定していたとしたら、それは元々、その父親は子どもを殺すような粗暴な人間だったということを主張しているのでしょうか。そのように読むと論述自体が一貫しているように読めるのです。彼女は、大森氏のどこがどのように何でもありなのか説明をしていないので、不明ではあります。しかし、もしそうだとしたら、人間観に問題があるように感じてなりません。

私は、長年刑事弁護を担当していますが、生まれながらに犯罪を実行する人などいないと感じています。みんな理由があって逸脱行動にでるということです。弁護人の仕事は、罪を犯した人とその理由を考え、理由を除去し再犯を予防することだと整理できると思います。伊丹の事件の理由の一つとして、子どもと過ごすことのできない絶望感や、そのことによって発症した精神疾患だということは大いにあり得ることで、その可能性があることを否定する事情は報道されている限りありません。大森氏の論述がなんでもありというような荒唐無稽の話でないことだけは確かです。

 気になるのは、彼女の論拠の背景として、妻が子どもを連れて別居するというそれだけのことから、別居の理由が夫にDVがあったからだという決めつけがないかということです。実際にそのような別居事案において暴力と呼べる事態ないことが多くあります。精神的虐待といっても、日常よくあるいさかいをもって虐待と呼んでいるケースがほとんどだと実感しています。いずれにしても、そのようないわゆるDV冤罪の事案は少なくありません。このようなDV冤罪を作り出し、父親の精神を破綻させ、子どもから父親と会う権利を奪い、子どもから父親を肯定する権利を奪う最大の原因が、このような類型的な決めつけ、ものの見方です。一言で言って差別です。

松戸家裁の事例では、父親のDVは裁判所でついに認定されませんでした。当事者がDVを裁判家庭において主張することはともかく、当事者でもないひとり親支援NPOの代表や、何も事情を知らないくせに父親をDV夫だと決めつけて、SNS等で流布したことで、刑事告訴をし、警察に受理されたとのことです。【訂正】当初、大学教授についてもNPO代表と同様の理由で刑事告訴をされたと記載していました。刑事告訴を受けたのは両名であることは間違いのない事実ですが、告訴事実について上記大学教授が父親をDV事案と決めつけてSNSで流布したということをもって刑事告訴されたかについては、現時点では未確認です。謹んでお詫びするとともに、その部分を削除いたします。伊丹の父親も自死してしまいましたので、告訴をする人がいないだけなのかもしれません。

 法律家は、事情を知らない事案では、当事者を非難するコメントをしないということが最低限の矜持だと理解しています。何らかの決めつけがあったならば、法律家としてのコメントとは言えません。このルールは実務家だけで研究者は例外なのでしょうか。

 現在の親子断絶防止法を批判することは自由でしょう。しかし、その批判の仕方のために、多くの人たちが傷つくことを謙虚に考えるべきだと思います。決めつけ、差別による批判は、その批判する人たちに何か裏があるようにさえ思えてくるものです。むしろ、多くの人たちに実際に起きている現実をぜひ知って、みんなが幸せになる方法を考えていただきたいと考えてやみません。みんながということが無理ならば、せめて子どもが自分の親を否定することを押し付けられた場合の、子どもの将来に起きることを考えていただきたいと思います。

以下引用。

「離婚後の子育て 共同親権で親子の関係守れ」と題した大森貴弘氏の「私の視点」(9月21日付)を読んでショックを受けた。兵庫県伊丹市で面会交流時に起きた痛ましい子殺し事件について「原因は親子断絶による父親の精神状態の悪化にある。面会交流が継続されていれば事件は起きなかったはずで、親子断絶の問題を告発 した事件と言える」とする見解が、何でもありのネット空間ではなく、新聞に掲載されたことに、深い悲しみを覚える。
 先進国の家族法と日本家族法との違いは、離婚後の共同親権の有無だけではない。両親間のトラブルに対する制度設計がまったく異なっている。明治政府は30年をかけて西欧法に倣った近代法を立法した。しかし明治民法の家族法部分については、「家」の自治にすべてを委ねる、独自の極端な法を立法した。離婚を必ず裁判離婚とするような西欧法は、手間のかかる不要な国家介入だと判断したのである。当時は、まだ自営業を担う「家」が中心の社会で、人々は地域共同体や大家族に包摂されて生活しており、親に問題があっても子どもたちはまともな大人と触れあうことで健康に成長できた。この社会的安全弁は、失われた。
 戦後の民法改正は「家」の自治を当事者の自治に変えただけだ。西欧の裁判所であれば、家庭内暴力(DV)被害者が助けを求めれば、加害者に別居命令を出し、養育費を取り立て、従わなければ刑事罰を加える。しかし、日本のDV被害者に残されているのは、逃げる自由だけである。DVは深刻な児童虐待であり、脳の成長を損傷する度合いは、肉体的虐待や育児放棄よりもむしろ大きいといわれる。そして児童虐待対応にかけられている公費も、日本は西欧諸国よりはるかに少ない。
 もちろん離婚後も親子の交流があるほうが望ましく、子の奪い合いにはときに強制力のある介入も必要である。しかし、それは物理的・精神的暴力から子を守りながら行わなければならない。パーソナリティーの偏りや精神的暴力の有無などを見抜く力のある精神科医や臨床心理士などのプロが調査・介入して、加害者に働きかけてリスクを軽減して初めて可能になる。親子断絶防止法案は、これらの支援の保障なく、当事者への義務づけを定めるもので、弊害が大きい。
 私は伊丹市の悲劇の詳細を知らないが、仮に父親が3カ月間、子に会えなくて精神的に病んだとしても、悲劇の責任は、面会交流を試行錯誤した母親にあるのでは決してない。子を守れなかった責任は、親を放置して育児を支援しなかった、私たち日本社会の無責任な無策にある。


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MVPは家裁調査官 あなたの面会交流の時のために 試行面会が実施されました。 [家事]


事案、1年プラスα前に妻が子どもを連れて突然別居。行き先不明。
   別居2か月後妻が離婚調停申立。3か月後夫側代理人受任。4カ月後、面会交流調停申立。子どもは、小学校低学年女児。

この事案で、先日「試行面会」というものを行いました。試行面会とは、子どもと別居親が面会することが子どもにとって何らかの問題がある可能性があるとき、裁判所の一室で、調査官が立ち会うなどして子どもの安全を確保しながら、試験的に面会をしてみるというものです。

夫と代理人は、先に家庭裁判所に入り、控室に通されます。時間までに控室にいることで、妻と子どもが後から家庭裁判所に入り、試行面会室に入るまで、夫と顔をあわせることが無いようにします。夫のDVは実際にはないケースが多いのですが、妻側がDVがあると思っているケースも多く、このような安心を提供することで、子どもが別居親に会えるということにつながるので、まあ良しとします。無線を携帯した職員が何か所に立っていましたが、こちらの問題ではないと信じましょう。当事者からすると、誰しも、挑発されているようにしか感じられませんが、そのようなインテリジェンスはないのかもしれません。

そうして準備が調ったら、呼び出し係の職員の方が、控室に迎えに来てくれて、面会室に向かいます。面会室はプレイルームと呼ばれるものです。実際に私がプレイルームに入ったことはありません。弁護士は隣の部屋で待機しています。隣の部屋にはモニターがあって、モニターでプレイルームの様子がわかります。調停員、妻、妻の代理人も、別室に待機しモニターでプレイルームの状況を見ているようです。

プレイルームは、カラフルな着色をした発泡スチロールみたいなマットが組み合わせらた2畳くらいでしょうかスペースと、テーブル、ソファのスペース、それから入り口の脇の箱庭制作のスペースがあるこじんまりとしたところです。箱庭のキャラクター、アイテムが並べられている棚が奥に見えます。かなり、アイテムは充実しているようです。それにボードゲーム機があると言った感じです。

われわれが到着した段階では、プレイルームには子どもと調査官がいます。調査官は、試行面会の前に子どもから聴取しています。今回も子どもも調査官を気にしていないようでした。もっとも、調査官の聴取が子どもにとって苦痛であった場合はそうはいかないかもしれません。
 弁護士は、先に別室に入ってモニターを見ます。父親が入室するところから見ることができます。

 ここが一番緊張するところです。何せ、1年以上あっていないのです。親の方が感極まってしまい、収拾がつかなくなることも人情としては理解できることです。でもそうしてしまうと、子どもの方が負担になったり、びっくりしてしまったりするということがあります。面会交流が重苦しい時間になって次につながらない心配もあるのです。そのため、事前の打ち合わせで、「昨日も会ったように、当たり前のような顔をして始めてください。」と無理を承知で言わなければなりません。また、子どもと話す内容も、妻が住所を秘匿している場合、住所を割り出されるのではないかと妻がおびえているので、それにつながる学校の名前とかを聞き出すことはしないことにしています。子どもから会えない理由を聞かれることも多いのですが、うっかり母親が会わせてくれないと言ってしまうと、母親が二度と会わせようとしなくなるので、注意しなければなりません。
 ここで、別居親は子どもを連れ去られたという被害意識がありますから、無意識、無自覚に、子どもに自分の窮状を理解してもらおうとしてしまうのです。自分が辛いとか、寂しいということを言ってしまうということがあります。私もそう言うと思います。一緒に住みたいとかですね。または、お母さんが会っていいよと言ってくれれば会えるよとかもそうですね。あるいは、子どもが寂しがっていないかと思い、お父さんは絶対見捨てないよとかですね。それは人情としてはわかります。しかし、考えなければいけないのは、子どもの立場です。そういうことを言われた場合の危険性として、自分が悪いからお父さんが苦しんでいるのだろうかとか、今自分はとんでもない危険な状況にいるのではないだろうかとか、どうしていいかわからなくて混乱してしまうとかですね。要するに親の思いは、子どもにとって重すぎて、支えきれないということなのです。また、子どもになついてもらいたいとか、楽しそうにしてもらいたいとか、色々リクエストはあるでしょうが、子どもには子どもの事情もありますから、こちらの思い通りはいきません。一緒に暮らしていても、子どもが言うことなんて聞きません。親ですから、子どもにサービスをする立場なので、子どもに何かを求めることはしないと特に意識する必要があるようです。子どもが、自分はいつもどおりでいいんだということを感じてもらえるように、別居親の心の踏ん張りどころということになります。
 
 先日の事例はうまくいったようです。モニターの位置が悪くはっきりはわからなかったようですが、お父さんは笑顔で入室したようです。それが、すべてでした。子どもは安心して、お父さんに抱きついて行きました。今思い出しても泣けてきます。一人でモニターで見ているので、人目をはばかることなく泣きました。1年以上も会えなかったわけです。会いたかっただろうな、不安だっただろうなといういろいろなことが、私の心にワッと飛び込んできたような感じでした。

 それからどうすればよいのか。別居親が真剣に子どもにとって有益な面会をしようと思った場合に出てくる当然の疑問があります。「その後どうすればよいのか。」ということです。あれもだめこれもだめということになるとどうしたらよいかわからなくなるということは当然です。これは、それぞれお子さんに合わせてということになるわけですが、いくつかサンプルを挙げましょう。

 娘と父親の場合、これは娘に合わせればよいです。要するに、娘にリードしてもらうということです。面会交流場所に遊具なんかがある場合、娘は、親と一緒に遊びたくなります。ごちゃごちゃ言わないで付き合ってあげればよいです。飽きて来たら、別のことをやろうと言いますから、ニコニコと従えばよいです。自分の思い通りに親が動いてくれることも貴重な時間になります。内気な男の子というとになると、最初はぎこちないですが、これこれをしようかとか言って、提案してあげることも必要かもしれません。次何をすると尋ねても良いかもしれません。子どもにげたを預けてしまうと楽です。何か話をするときも、自分のことを話すとよいでしょう。「昨日こういう面白いことがあって、お父さん笑っちゃったよ。」とかいう話が最適です。大事なことは、子どもが話し始めたら、興味を持って聞くということです。多少道徳的に逸脱したことを言ったとしても、条件反射的に注意するのではなく、どうしてそういうことを言ったのか興味を持ってください。そうして良いことをしたり、言ったりしたら褒めるということを忘れないでください。一緒に住んでいる親はなかなかそういうことはできません。短時間しか会えないなら、短時間の中で子どもに貴重な体験をしてもらうことができます。自分の感情を否定されないということですね。

子どもの年齢が高くなって打ち解けないという状況がしばしば見られます。気にしないことです。親の方が楽しそうにしていること、自分が親にぶっきらぼうでも親は自分を許してくれるという体験が有効です。ここも心の踏ん張りどころでしょう。

案外あっさりしているのは、帰り際です。子どもは、自分の立場をよく知っているようです。夢のような時間にも終わりが来るということをよくわきまえています。どんなに楽しんでいても、帰り支度をし始めます。極端な場合、親の顔を見ようとしなくなります。かえって悲しい現実を突きつけられたような気がする瞬間です。子どもは頑張っているのです。大人が頑張らなくてどうします。大事なことは、「またね。」ということのようです。「会えるの?」と尋ねられたら、「大丈夫だよ。」と言いましょう。子どもにとって、親の大丈夫という言葉は、何にも代えられない安らぎ、心の支えになるからです。「お母さんが良いって言ったら」等とごちゃごちゃしたことは言わない。抽象的な言葉は、こういう時のためにあるのだと思います。大丈夫でなければ、大丈夫なようにするだけのことです。

もし機会があれば、同居親に感謝を伝えるべきです。おそらく、子どもを連れ去られて、自分を否定した憎い相手かもしれません。そういう目に合わせられて感謝をするということは納得のできないことでしょう。
でも、相手親も、本当は、あわせたくないのです。嫌がらせをしていると非難する人が多いのですが、圧倒的多数の事例では、同居親にそこまで余裕はないです。子どもを別居親に会わせることで、何か良くないことが起きるかもしれないという漠然とした不安や苦痛を持っている場合が殆どです。もちろん連れ去りの不安もあるようですが、それは、場所的に安全な場所で行われていてもあって、本質は言葉にできない不安と言ってよいようです。それを無理して合わせているのだから、ねぎらいをすることは、相手も安心する。相手が安心すれば、面会も拡大するという関係になります。
 だから、感謝の気持ちを持たなくても、感謝の言葉を伝えることがとても大切だということなのです。女性にマメな男性は、本能的にできることのようです。

 今回は、時間も限られた試行面会でしたが、これまではなかなかそれすらできませんでした。最後まで、様々な方法で抵抗されました。しかし、調査官が、きっちり子どもの意向調査をされ、その調査結果を踏まえて、外野の声に耳を傾けず、毅然としかし情をもってお母さんを説得し、励ましていただいたおかげで実現しました。詳細は書けませんが、審判官(裁判官)にもご尽力いただきました。調査の過程で子どもとの信頼関係を構築し、子どもがスムーズに面会に入れたとも思います。まだお若いのですが、立派な調査官だと思いました。

 たった一人のお子さんのことで、たくさんの大人たちが自分の持っている力をフル稼働して、協力し合い、励まし合い、お子さんが、両親から愛情を注がれていると実感できる場を作る、なんて素敵なことでしょう。正常な家庭裁判所は感動があふれています。

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過労死遺族の会東北希望の会だより、11月18日の仙台シンポの打ち合わせと裁判と [労災事件]

東北希望の会のお話を久しぶりにしましょう。
毎月例会があるのですが、
参加させていただいていることが
私の財産になっているということを
是非お話ししたいのです。

東北希望の会の説明は後ろの方に書いておきます。

東北希望の会の活動の基本は、毎月の例会です。
なんでもここで話し合って自分たちで決めてゆきます。

先日は、狭い部屋に25人もはいり、
ぎゅうぎゅう詰めの中、熱い議論を交わしました。

東北希望の会という名前は、本物で、
北は青森から南は北関東まで会員がいます。
この会議にも、岩手県の海岸の町から車で4時間かけていらっしゃったり、
福島県からも、北関東からもわざわざ新幹線に乗って
いらっしゃるのです。
これだけで感激です。

さらに、旦那さんが自死して数か月の方や
自分が過重労働の後遺症で精神的に苦しんでいる方
いろんな方がいらっしゃいます。
みなさん、活発に発言されているんです。

今回は特別ゲストもいらっしゃいました。
厚生労働省のシンポジウムの打ち合わせということで、
宮城労働局の方が、土曜日にもかかわらず、お休みの所、
例会においでいただいて、和やかにお話に参加していただきました。
かなり偉い人なのですが、物腰の低い方でした。
当事者の方々の労災制度に対する憤懣を
どのようにお聞きされているか
冷や汗もののシーンもありました。

それから、テレビ局の記者さんもいらっしゃいました。
こういう例会に参加し、現場の雰囲気を味わってもらい、
インタビューでは出てこない本音を聞いていただくことは
とてもありがたいことです。

シンポジウムの内容などについては、
また別の機会にするべき分量になってきましたので、
今回は割愛します。

家族が過重労働で精神疾患になり、
夫婦共倒れになりそうな中から、
奥さんが回復して、
希望の会の例会にも参加できるようになった
そのお話を今回のシンポジウムでやるのですが、

毎回例会に、他県からでも来ようと思う
その理由は何かということが話し合われたのですが、
その時ご本人は、二つ理由を述べられました。
「詳しいことを言わなくても自分のつらさ、悲しさを分かってくれる」
「自分の発言を否定する人もいないし、
 誰かの発言を否定する人もいない。
 それが心地よいのかもしれない。」
ということをおっしゃっていただきました。

前者は、よく理解できます。
後者は、驚きでした。
誰も、ファシリテーターの訓練もオープンダイアローグの理解も
アサーションの技術もない人たちです。
それが、熟練の技術を屈指でもしているような
そういう話法を身につけているということになります。

今日は簡単に結論だけ言いますが、
おそらく、人間同士の思いやりの気持ち、
お互いをいたわる気持ち、
相手の苦しさや立場を理解しようとする気持ちが、
自然とそういう場を作っているのだと思います。

感激でした。
いろいろな方々の参加と合わせて、
普通に歩いていても、
目だけ半泣きの状態で帰りました。

10日くらい後に、
会員さんの一人の裁判の第一回がありました。
なんと、岩手から福島から北関東から
大勢の会員さんが応援に駆けつけていただきました。

ポッセの若者も応援に来ていただきました。

人と人との結びつきに
いつも感動させていただいています。
東北希望の会に参加させていただくことも
私の貴重な財産になっています。
私は幸せ者です。

<東北希望の会についての説明>

東北希望の会は、平成25年4月に生まれました。
家族を過労死や過労自死で失くした遺族が中心です。
初めから、ご自分が過重労働によって
うつ病や精神障害の闘病中の方も多く参加しています。

そこに私のような弁護士、社会保険労務士、臨床心理士が
脇を固めて活動をしています。

二つの大きな活動があって、
一つは、過労死を無くすという社会活動です。
平成26年の過労死防止法制定に向けた活動や
今度仙台で11月18日、郡山で12月2日に開催される
厚生労働省主催の過労死防止シンポジウムの企画をしたり、
11月14日に山鹿の同じシンポジウムに参加したりと
そういう活動です。
名前を出せる人は名前を出してお話ししますけれど、
それはちょっとという人は、無理をしないということにしています。

だって家族が無理をして亡くなったのですから。

もう一つの活動は、当事者同士の助け合いです。
夫を亡くしたお母さんが、
自らも闘病しながら子どもを育てるのに夢中で、
クリスマスをスルーしてしまったという話から、
みんなで助け合えば、荷を分かち合えば
愉しく過ごせるということで、

毎年冬はクリスマス会、
夏は、塩釜の島に船で出かけて
海水浴やスイカわりを楽しみます。
一つのご家庭ではなかなか大変なのですが、
みんなでやれば、色々なことができます。

毎年サンタクロースを呼んでプレゼントを渡してもらっています。
小学校以下の子どもたちはただただ楽しんでいただければよいですし、
中学校以上のお子さん方は、調理のお手伝いをしていただいたりしています。
ボランティアの高校生が大活躍したりしています。



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第10回親の会は10月27日6時30分 保護命令に対してはきっちり対処しましょう [家事]

最近、なかなか、こちらには手が回らず申し訳ありません。

第9回わが子に会えない親の会は、無事終了し、
またも、関東から参加された方もいらっしゃいました。

参加されない方からのメッセージも充実してきました。
第8回に引き続いて女性も参加されています。

私の方の最近の様子ですが、
夏場までは、油断していたのですが、
また、わが子に会えないという新規相談が増えてきました。
どうやら9月10月というのが、
別居決行が多い時期のようです。

相談者の範囲も、
東日本エリアとでもいうような
広範囲になってきましたし、

相談の内容も、
相手方の心情を把握したうえで、
ばらばらになった家族をどうするか
という形の相談も増えて、
たようになってきた感があります。

最近もまた保護命令が出されて、
異議申し立てをしないという方がいらっしゃいます。

色々理由があるようですが、
命にかかわる暴力が無い場合は、
保護命令を出させないことが鉄則です。

余計なことは考えないでください。

保護命令は、
配偶者の身体生命に重大な危険がある場合に限って
出ることになっています。

しかし、実際の事例を出された側から見るとですが、
配偶者の身体生命に重大な危険があった事例は
私は見たことがありません。
多少のいざこざはあるのですが、
とても身体生命というほどの大げさなものはありません。

それでも保護命令が出てしまうと、
貴方は、妻や夫の、
身体生命にとって危険な存在だということに
なってしまうのです。

もちろん、調停やら警察やら
他人がそういう目であなたを見るようになるでしょうが、
一番問題なのは奥さんがそういう目で見るということです。
申し立てた張本人なのにおかしなことを言うと思われると思います。
それがそうでもないのです。

保護命令申立は、
奥さんの「支援者」から強く勧められて行います。
申立書は用意されていて、
アンケートに答えるように書くことができます。
簡単に申し立てはなされてしまいます。

痣のできやすい体質の方っているわけで、
仕事や家事で痣がついても、
病院に行けば「打撲」と診断されます。
全治三日と書いてくれるお医者さんは良心的です。
ほとんど大したことが無いと言っているわけです。
それでも裁判所は傷害であると認定します。

2週間の安静などと書かれてしまうと
もう重大事件です。
あとは、包丁で魚をさばいていても
命の危険がある刃物を振り回した
ということになる危険があります。

ペットの犬の毛を刈るハサミを持ったまま大声を出しただけで
命の危険があると認定された事例も実話です。

その人は自宅の周囲を徘徊することも
禁じる命令が出されました。
散歩さえも裁判所から
刑罰の威嚇で禁じられたのです。

精神的に不安定になったことは
当然のことです。

さて、保護命令を出した奥さんも、
実際どうだったか知っていますから、
保護命令は出ないだろうなと思っているわけです。
言われたからやっているという話も聞くところです。

それが、裁判所が、身体生命の重大な危険がある
と宣言して保護命令が出されれば、
「ああ、やっぱり危ないところだったんだ」
「支援の人たちの言うとおりだったんだ」
と思ってしまうことも、
理解できるところだと思います。

さらに、あなたが、
保護命令に異議申し立てをしなければ、
やっぱり自分の夫は、
私に対して生命身体の危険があったことを
自分で認めたのだ
ということになりかねません。

こうなってしまうと、
哀れな奥さんは、あなたから逃げ続けなければなりません。
見つかったら、危険なことが起きる
というおおざっぱかつ抽象的な予期不安を抱き、
ただただ、自分の命にとって危険な存在だ
という認識で、毎日脅えて暮らすことになります。

逃げているという意識があるうちは
10年たっても恐怖は消えません。

町中に出るとあなたと会うのではないかと思いでません。

もう大丈夫と思って人ごみの中に出かけて、
貴方とよく似た背格好の人を見ただけで、
動悸が始まり、パニックになった人もいます。

保護命令は抵抗しなければ出されます。
抵抗しなければ、あなただけでなく、
相手も不幸になることの多い制度だと思います。

ところで、第10回親の会は、
27日6時半、
場所は、仙台駅前ですが
土井法律事務所03-212-3773
までお問い合わせください。

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