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震災避難計画は、人間の不合理な行動を織り込んで策定するべき。避難時の記憶が曖昧であることは当然ということ。 [災害等]

東日本大震災から6年10ヶ月が経った。
正直まだ6年10か月だ。
ニュースで祈りをささげているひとをみると
自然に涙が出てくる。

できるだけ今後起こりうる大震災において
被害者を少なくするための提言をしていかなければならない。
気持ちを新たにした。

いま、地元紙は、一面で
小学校の避難誘導の検証をしている。
個人情報等の制約がある中、
できる限り客観的に検証しようという
その姿勢は伝わる。

しかし、
実際に取材をすればわかるであろう
学校が待機をした理由、
その後の選択した避難経路について、
具体的な話が報告されていないのではないか
という感想は多くの宮城県民は持つだろう。

ただ、住民と相談してということであれば、
その住民がどのような発言をして、
なぜその発言をしたか、
教員はどの程度その発言を信じたのか
行動動機にどの程度貢献したのか
それを検証しなければ
真実は見えないはずだ。

だから、勢い
人物が特定される学校教員の発言が
その信用性を超えて重大視され、
検証チームの意図がどこにあるかにかかわらず、
学校の責任追及となるように
印象付けられてしまう危険があるように思われる。

だから、その教員の発言が
他の住民などの発言と矛盾する
等ということが大見出となっているのだ。

しかし、人間は合理的に行動しない。
これが最近の科学のトレンドだ。
特に、避難時には不合理な行動をする。
後で考えれば不合理という意味だが。

そのメカニズムは再三このブログで述べている。

まさに命の危険があり逃げているという状況である。
交感神経が活性化され、
心臓は早く大きく打ち始める
血圧が上がり、脈拍が増加し、体温が上昇する。
内臓の動きが弱まり、
血液は筋肉へと流れていく。

もちろん脳の活動も変化する。
複雑な思考は停止する。
将来的なことを予測したり、
人の心をおしはかったり、
細かなことに気を使わなくなる。

すべては、逃げるための
人間の生きるための仕組みである。

血液が筋肉に流れるのは、
筋肉を動かして足を使って逃げるためである。

では、複雑な思考が停止するのはどうしてか
これも逃げきるための生きる仕組みである。

人間がチンパンジーの祖先から分かれて800万年
動物として成立してから
さらに気が遠くなる年月が流れている。
その中で適者生存の原則の元、
種として生きる仕組みが整ってきたわけだ。

おそらくそれらの期間
余計なことを考えずに
安全な場所にたどり着くことが
逃げきる確率が一番高かったのだろう。

二者択一的考え方とは
安全な場所にたどり着いたのか
まだ危険が継続しているのか
ということである。

さらに、
悲観的な考え方になり、
まだ安全ではないかも知れない
という思考こそが
逃げ切る確率を高めた

楽観的に何とかなるかもしれない
なんて思っていたら
簡単に食い殺されていただろう。

われわれはその子孫であり、
そのような遺伝子を受け継いでいる。
命の危険があると思ってしまえば、
あとは自動的に体が変化してしまうのである。

もう一つ、記憶が曖昧になるということも
交感神経が高まり過ぎた状況では起きる。

一つは、もともと視野が狭くなっているから
十分な情報を落ち着いて統合する機能は低下している。
記憶の前に、正しく認識していないのだ。

さらに、認識したとしても
それを意味づける機能は弱まっている。
また、過去の出来事と照合して対策を立てる
というようなことも低下している。

そうすると、断片的な知覚を感じているだけなので、
記憶として定着することはそもそも期待できないのである。

また、恐怖や悲観的な思考傾向のために
知覚自体がゆがめられている上、
記憶もゆがめられる。

これが、人間として当たり前の状態なのである。

状況を確実に把握し、
適確な行動を判断して行動に移る
ということができない脳の構造になっているのである。

私たちは東日本大震災を経験して、
海辺でもない地域でも
大地震の恐怖で、
不合理な行動をしたり
合理的な行動しなかったりしたことを記憶している。
自分はどの程度合理的な判断ができたのか、
自分はともかく家族の、子どもや年寄りの心配をしていた人ならば、
冷静な行動ができなかったことは
よくわかっているはずだ。

遺族でもない第三者が、
特定の個人などの責任を追及するということは
このような不合理な行動をとる人間の生理に反する
極めて過酷な行動を要求することになる。

まるで裁判所の事実認定だ。

不合理な行動をするのは当たり前だ。
だから、それを織り込んで、
なるべく考える要素を排除した
避難計画を策定することこそ
東日本大震災の教訓のはずだ。

特定の誰かが、
文字通り超人的な行動をしなかったことを責めてばかりいたのでは
教訓がまるで生かされないことになってしまう。
そのことが心配でならない。

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