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AERA 2017年1月29日号の面会交流に関する記事が具体的にどのように間違っているか [家事]

離婚する夫婦の7割に未成熟子がおり、婚姻期間5年未満の離婚率が高いことから、大多数の離婚家庭に小さな子どもがいるのが日本の特徴です。共働き夫婦でも、子どもが小さい場合は特に母親への依存度が高く、母親が主たる監護者として子どもの養育を担っているケースが大半です。母親が親権者となる割合が圧倒的に高いのは、これが理由です。

家庭裁判所では、監護継続の原則があって、
生まれてからの時間、一緒にいる時間がどちらの親が多いかが
親権者を決める大きな要素になります。
出産後の母体の保護という観点と、男女間の賃金格差という社会的事情から、
父と母とどちらが仕事を休んで子育てをするかといえば、
圧倒的に母親が仕事をしないで、あるいは仕事の時間を短縮して、
子育てをすることが多いため、母親が親権者になるケースが多いのです。

但し、子の監護について、母親に事情があって子育てに
夫以上に関与できない場合もあります。
しかし、こういう場合でも監護継続の原則を理解していないためか、
母親側に親権が認められる場合があります。
裁判所は自ら立てた基準を理解していないのではないか、
子育ては女性がするものというジェンダーバイアスがかかっているのではないか
と思われる事案もあります。

 父親が面会交流を求める場合、最も重要なのは子どもの健全な成育です。

父親が面会交流を求めるか否かにかかわらず、
現在の科学においては、子どもが別居親と一緒の時間を過ごすことが、
離婚の与える子どもへのマイナス効果を軽減することなどから、
子どもの健全な成長にとって必要だとされています。

面会交流も含め、主たる養育責任を担っている母親が必要だと考える、適切な養育環境が最大限考慮されるべきです。

日本の法律が、先進国の中で異例なことに、単独親権制度をとっているのは、
歴史的な事情を克服していないだけの話です。
お隣の韓国も離婚後であっても子どもが両親が育てるべきだという法制度になっています。
だから、離婚後であっても、両親が子どもの成長に責任を持つべきだ
というのが世界の流れということになります。

しかし、裁判所の実質的な運用は「原則面会交流」で、母親が子どもの健全な成育に適さないと考える面会交流も父親の要求によって認められているのが現状です。

これは、実態とはかけ離れた主張です。
1)実質的に原則面会交流が認められるべきだというのは、
先ほど述べたように子の利益のためです。
2)母親が子どもと同居している場合に、
父親との面会交流を拒否する場合が多くあります。
面会を拒否する同居親から、どのような子どもの利益を考えて面会を拒否するのか
ということを聞いたことがありません。
代理人として相手方に問いただしても答えが返ってきたためしがありません。
会わせたくないというのが、拒否の最大の理由です。
論者の見解は、一見、母親側の拒否を援助しているかのように見えますが、
面会拒否はこのような人間の当たり前の感情を理由としているわけではない、
そういうわがままな拒否は否定されるべきだという冷酷な主張です。
会わせたくないという事実は受け止めた上で、
どうやって、そのハードルを下げるかということが
実務では関係者一同が知恵を出し合っているということが実情です。
いかにして、同居親の安心感を獲得していくかということは、
みんなで考えるべきことです。
3)逆に父親が子どもと同居して、母親の面会を拒否する場合も多いです。
この論者は、母親がわが子に会えないことを全く考慮していません。
論者の論を進めると、母親は父親の拒否を受け入れるべきだ
ということになりかねません。
理不尽に子どもに会えない、あるいは極めて制限的にしか会えない
母親や子どもたちの表情が浮かんできて、憤りを禁じ得ません。

そもそも、離婚の9割は協議離婚で、DVや虐待などの深刻な問題がない夫婦は、離婚後の子どもの養育についても話し合って決めている。裁判所の判断が求められる高葛藤の夫婦は、仮にDVや虐待がなくとも困難な問題を抱えていることが多い。「松戸裁判」の東京高裁判決では「父母の葛藤を軽減していくことも重要だ」と述べている。夫婦の葛藤が高いままでは、裁判所が面会交流を命じても、子どもの成育にとって望ましくない結果になる可能性が高い。単純に夫婦と子どもの問題とは別、とは言えないのです。

このあたりが論者が最新の科学的知見について
不勉強なことが顕著に露見している点です。

たしかに、昭和の年代までは、このような議論がありました。
しかし、20世紀のうちに、
1)離婚の場合は、長年月を経ても元結婚相手に葛藤を抱き続け、
その葛藤も弱くならないことが多い。
2)子どもが別居親との面会を望んでおり、
面会交流をしていた子どもの方がそうでない子どもよりも、
離婚が子どもに与えるマイナス効果が少ないということが立証されています。

高葛藤の場合に子どもを別居親に合わせるべきではないという主張は、
なんら実証されたものではないということで、
(医者の頭の中だけで考えついたアイデアでした)
21世紀は日本以外ではあまり顧みられていません。

ほとんどの事例で離婚後も葛藤が続いているのだから、
子どもは別居親に会えないということになってしまいます。
別居親と面会させることによって、子どものマイナス効果が軽減するのですが、
別居親と会わせないで同居親が子育てに責任を持つということでは、
別居親に合わせないでマイナス効果を軽減させるという難題を同居親に責任を課すことであり、
これは極めて過酷な要求だと思います。

但し、その場合の被害者は子どもなのです。

 フレンドリーペアレントルールを絶対視するのも疑問です。相手に寛容であるほうが親権者とされるなら、「子どもにとって危険な父親」であっても、明確な証拠がない限り、母親は裁判でそれを主張しにくくなる。なぜなら裁判官に「根拠のない主張をして、父親との交流を制限するアンフレンドリーな親だ」と判断される恐れがあるからです。  母親はそれを避けようと、父親の危険性は主張せずに「寛容性」を示し、親権だけは取ろうと考える。すると、「絶対に子どもに会わせてはいけない父親」にも面会交流できる機会を与えてしまうことになる。最悪の場合、面会交流中に子どもを殺すという悲惨な事件につながってしまうこともあるのです。

父親が本当に合わせてはならない人間であれば、
子どものために堂々と主張するべきです。
具体的な根拠を示して主張をすれば、面会交流は実施されません。
面会交流をさせない基準も裁判所において確立しています。
そうでない場合でもやはり、裁判所は自ら定めた基準以外の基準を作り出して
面会を不当に制限することがいまだに残っています。

殺人事件に限らず刑事事件については、
人間の環境の中での感情の流れが大きくかかわっています。
不合理なことを人間が行うことには、必ず合理的な経緯があるのです。
これは法律家であれば知らなければならないことです。

悲惨な事件が起きると、あの人は悪い人だったのだという
結果バイアスがかかります。
事件前の性格や行動などの事情を検討しないで、
殺人があったからもともと危険だったという後付けの考え方では
何も予防することはできません。
バイアスや後付けの理論ということがありがちだということを自覚して
自らはそのような事実に反するとらえ方をしないとうところが、
一般の方と法律家の決定的な違いだと思います。本来は。

 面会交流がかえって子の福祉を害することがないよう、裁判所には慎重な判断が求められます。

昭和の年代に知識がとどまっている、周辺科学に関心がない、
バイアスに注意を払わない、実態を分からないのに主張だけはする。
そういう人の主張によって、子どもたちの健全な成長が阻害されないように、
裁判所には慎重な判断が求められると思います。


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