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自分の生きる価値があるかという質問のどこがどうして間違っているか。生きていくのに生きる価値なんて不要であること [自死(自殺)・不明死、葛藤]


「私は生きる価値があるでしょうか。」
そのような問いかけをする人がいました。

生きていくのに生きる価値なんて必要はありません。
人間ばかりではなく、動物や植物までも
価値があるから生きるわけではありません。

考えればわかることなのですが、
そんなことを考えてしまうのは理由があります。
そのことを少し考えましょう。

先ず、生きる価値ということのおかしさについてお話しします。
「生きる価値」とはどういう意味で使われるのでしょう。
価値が無ければ生きていけないというなら
生きるための条件を満たさなければならないとか、
生きるための資格を持たなければならないということでしょうか。

生きるための条件や資格ということが、
この世の中に存在しないということは
誰しも知っていることです。

ミミズだって、オケラだって、アメンボだって
誰かから条件や資格をもらっているわけではありません。

もちろん、ミミズ並みに生きればよいということではないでしょう。
「人間として生きる」価値ということなのでしょう。

人間が生物として生存する資格が必要だということがないのは、
他の動物と一緒です。
(こういう当たり前のことを確認していくことが「論理」です。)

だからおそらく、そこでいう生きる価値ということは
生物的な命の問題ではなく、
「人間社会の中で人間として扱われる資格」、
そのような意味あいなのだろうと思います。
そういう意味あいであれば
その資格が有るどうかを考えるのは、
ある意味人間らしい悩みだと思います。

対人関係学は、人間の不安を大きく二つに分けます。
まず動物としての不安、つまり
身体、生命、健康に何らかの危機があるのではないか
と感じることです。
危機を感じている時の心の状態を不安と言います。

もう一つの不安は、人間特有の不安です。
自分の群れから、追放されてしまうのではないか
という危機感を感じることです。
究極には仲間から外されることですが、
自分が仲間から尊重されていないと感じると
仲間から外される予兆ではないかと
危機を感じるのです。

これらの不安は意識できないというか
意識する前に感じてしまうところに特徴があります。

人間は、むしろこの不安があるからこそ、言葉もない時代から
群れを作れたのだと思います。
つまり、そういうことに不安を抱き、
不安を抱くと不安を解消したいと思い、
解消しようとするために、
そのために仲間として認めてもらうように行動した。

結果として群れを作り、
群れを作ることによって、食料を確保し、猛獣などの危険から
自分たちを守ってきたわけです。


だから、自分の生きる資格ということが不安であるということは、
群れを作る人間の特有の感覚だろうと思います。
そして今そう言う不安を感じている理由は、
その人が仲間から外されそうな予兆を感じているからだ
ということになります。

仲間とは、
社会の仲間だったり、職場の仲間だったり、
家族だったり、学校だったり、友人関係だったりです。
そういう仲間から自分が尊重されていない
という意識を持つ場合に危機を感じることになります。

そして、
本当は、その中の一つの群れの中での不具合なのに
すべての群れの中で尊重されていないと感じてしまう
人間とはそういうもののようです。

どういう時に仲間として尊重されていないと感じるか。
何か失敗をした場合、罪を犯したとかルールを破ったという場合、
自分が仲間として認められなくなるだろうと思うのは
なんとなくわかると思います。
自分の行動によって不安を感じる場合ですね。

逆に仲間の自分に対する行動によって
そのように感じる場合があるでしょう。
無視されたり、理由なく攻撃されたり、
笑われる等、仲間の中で一段低い存在として扱われたり、
自分の弱点や、不十分な点をズバリ指摘されたり、
仲間の行動との関係で不安を感じる場合ですね。

さらに、不遇な環境にいるために
社会から、自分がさげすまれているのではないかと
感じてしまう場合もそうでしょう。

それから、理由がなく不安を感じる場合もあります。
うつ病や内臓疾患によるうつ状態などで
脳の働きにエラーが起きている場合です。

日常的に起こる些細なことすべてが悪い予兆だと感じ易くなります。

ただ、現代社会に特有な事情もあります。
「生きる価値」ということを意識する理由として、
実際の人間のグループ内において
一人の人間として尊重されるための
ハードルが高すぎるという事情があることは事実だと思います。

「良い子でなければ叱られる」から始まって、
「成績優秀で、先生から注意されない子どもでなければならない」とか
「猛勉強して、あの学校以上のランクの学校に合格しなければ」
誰かから許されないような気持ちになったり負けた気持ちになったりする。
「ノルマを達成しなければならず、
そのためには深夜まで、休日まで働かなければならない」とか

「働かなければならない」とか
「結婚しなければ」、「子どもをもうけなければ」等々のハードルを
乗り越えなければならないと思いこまされていて
そうでなければ一人の人間として尊重されないのではないか
という不安を抱く人は多いでしょう。

しかしそれらは、貴方の事情ではありません。
誰か、あなた以外の第三者の事情に過ぎないのに
それがその通りだと思いこまされているのです。

一つの具体例として、
JRが国鉄から民営化されるとき
「余剰人員」という言葉が言われたことがあります。
しかし、もともと不要な人を採用したわけではなく、
会社の組織編成が代わり、
人員整理の方針となったときに
構想から外れた人を余剰人員と言ったのでした。

その人が余剰かどうかは
人間として余剰な人間であるのではなく、
経営方針が変わった会社にとって
人件費を払いたくないという会社の都合だったのです。

このように、生きる価値とか資格というと
誰か特定の人の利益だったり、価値観だったりに照らして
即ち、自分以外の人の物差しを使って
価値が無いとか、余剰とかいうことを思い込まされていることがある
ということなのです。
これは注意が必要です。
これは無駄な悩みです。


自分は誰かのために生きているわけではありません。
動物もすべてそうです。
自分や自分たちが生きようとする
ということがあるだけです。

「自分のために生きる」というのもちょっと違うと思います。
「生きている以上、ただ生き続けようとする」
ということが生き物の基本ですし、生きるということだと思います。

だからまず、今生きている以上
生きようとすることが無条件に肯定されなければなりません。
ご自分も他人もそうです。

「自分には生きる資格がないのではなかろうか」
という気持ちになったら、
脳が誤作動を起こしていると直ちに思い出してください。

そしてそういうことをいう人が自分以外にもいたら
教えてあげてください。

人の気持ちを少し軽くしたり、温かくしたりできる
あなたしかできないことがある。
あなたが笑って見せることで救われる人がいる。
あなたが感謝を伝えることでうれしい人がいる。
あなたがおはようというだけで心が温かくなる人がいる。
人生すてたものではないと思い直せる人がいる。

売店の人だったり、料理店の人だったり
病院の人だったり、学校の人だったり
あなたが、「自分はあなたの仲間です」
というメッセージを伝えることが
あなたの不安をかき消す特効薬になるでしょう。


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