SSブログ

どうして身近な人間である級友を消耗させるまでいじめることができるのか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

前回、いじめの手法は、200万年前の
人間の狩りをする手法と同じで
相手が消耗するまで集団で追いつめることだ
ということをお話ししました。

しかし、当時の人間が狩りをしたのは、
あくまでも、人間ではない動物だったはずです。

むしろ当時は、全員が平等であることが原則で、
特に弱い者を擁護、援助していたはずだということも言いました。
理由は、そうでなければ、厳しい自然界で
人間という中途半端な動物が
生き残ることができなかったからだとも言いました。

では
そのように仲間と一体化する習性のある人間の私たちが
どうして仲間であるはずの同級生を消耗するまで追いつめることができるのでしょう。

通常いじめの研究をするときは、
どうしていじめたくなるのかというサイドに光が当たりますが、
どうしていじめることができるのか、可能なのか、抵抗が無いのか
ということにこそ光を当てるべきだと思うのです。

人間はいじめをする本性があるという
非科学的で大雑把な議論は何の役にも立ちません。

一番考えなければならないことは、
心は200万年前からあまり変わっていない
つまり人間は自分と同じ群れ(人間関係)の人間からは
尊重されていないと、とてつもなく不安になり
尊重されようと自分の行動を修正しようとする習性をもっていて
それは現代でもそのままだということです。

しかし、人間を取り巻く環境
特に人間関係が様変わりしたことに着目しなければなりません。

200万年前であれば、人間は
生まれてから死ぬまでただ一つの群れに所属するだけでした。
そこで赤ん坊が子どもになり、大人へと成長し
子どもを産んで育てて、一生を終えていたわけです。
狩りをするのも同じ群れのチームで行いました。

(ただ、繁殖がどのように行われたかについては
 別考慮をするべきではないかと思いますので
 繁殖に関しては除いて考えます。)

自分以外の人間 = 群れの構成員
だったのです。

人間のテーマの「生き残るということ」と「群れが存続すること」と
ほとんど重なったはずですから
群れの仲間は、非常に濃い仲間、運命共同体だったはずです。

ところが現代は、
家族以外にも、学校、職場、地域、趣味のサークルなど
人間は様々な群れに属しています。
そのほとんどが期間限定です。

現代では、家族さえも、
簡単に別離ができますし、
職場の都合でリストラなんてことも起こりうる時代です。

同じ学校に通う生徒だと言っても
みんな家庭や部活や習い事という群れに同時に所属しています。
200万年前では考えられなかったこととして、
ある群れの人間関係が他の群れの影響を受けて変容する
という可能性が生じているのです。

みんなで助け合ってテストの答えを完成させる
なんてことを言ったら相手にされないでしょう。
家庭の思惑が、子どもたちの行動に当然に反映されてしまいます。

また、せいぜい数年の期間限定の群れだということで、
群れの帰属意識はそれほど強くならないことも仕方がないことでしょう。
200万年前の群れに比べると
現代の中学校などの人間関係は
とてつもなく薄いものだと把握しなければなりません。

そのような薄い人間関係でありながら
なんとなく利害対立を感じながら
協力し合う関係という意識付けの無いまま
狭い教室に押し込められているわけです。

さらに社会的背景として、
同僚と競走をしなければならないという
過当競争の意識付けだけは注入されているのが
現状ではないでしょうか。

例えば中学卒業後の進路である受験を考えると
学校の生徒たちも
一応競争相手という利害対立する関係かもしれません。
実際の受験、合格者合格率を考えてみれば
数人が同じ学校を受験したところで、
合否にそれほど影響はないでしょう。

しかし、
校内選考等で、上位何人かに入らないと
その高校を中学校が受験を事実上許さない
なんてことになると利害対立が先鋭化してしまいます。

さらに、受験の結果
例えばある人は倒産の恐れの無い大企業に就職できて
老後も社会保険に守られる結果となる。
しかし、ある人は、期間限定の仕事しかなく
次の就職の心配をしながら低賃金で働き、
老後動けなくなったら、わずかな国民年金に頼らなければならない
ということになると、
受験競争の意味あいが異なってきて、
無駄な競争意識が蔓延していくことになります。

自分の興味関心や能力、向き不向きで仕事を決めるのではなく
老後の安定、収入だけが決定要素になりやすいという
事情も生まれてくるでしょう。

不安感は嫌が上にも増強していきます。

では、試験ではなく、推薦で入学をする場合
学力推薦でもスポーツ推薦でも
何か間違いを犯したら推薦がだめになります。
こういう状態が続くことはかなりのストレスになります。
常に自分を評価する人の目にさらされ続ける
という意識が生まれるかもしれません。

あるいはそれは学校ではなく
親の目が最大のストレス要因かもしれません。
本当は十分幅のある道なのに
とてつもなく細い道の上をバランスを取りながら
ようやく歩いているという感覚になっていくのではないでしょうか。
一発試験と違って
学校の評価を365日3年間気にし続けなければならなくなります。

いじめをする側で増えているのは、
学校の中の勝ち組である将来有望な人たちだということが傾向だとすると
このような原因があるはずです。

自分の群れは、全く関係の無い同級生ではなく
自分を評価する権限のある教師や親だとすれば、
同級生に対する群れ意識はますます希薄になっていきます。

このように人間関係が希薄化するのは、
今現実に生きている環境は仮の群れで
本当に自分が所属するべき群れは別にある
という意識付けがなされると加速していくことになります。

さらに、希薄化した人間関係、
群れ意識、仲間意識を持てない人間関係の中では、
人間は、人間に対してあるべき思考を失います。
それが怒りのメカニズムです。

不安感を抱いた時人間に限らず生物は
何とか解消したいという気持ちになります。
不安を作る者に対して攻撃して不安を解消する場合の心もちを
「怒り」と言います。
不安から全力で遠ざかろうとして逃げている場合の心もちを
「恐怖」と言います。

不安を解消するためには、
合理的に対策を考えることが根本ですが、
まず最初に人間がしてしまうことは、
怒って攻撃するか
恐れを抱いて逃げるかのどちらかです。

ところが、不安が将来に対する不安であったり、
評価者から自分がどうみられるかについての不安である場合、
そのような社会制度や親のプレッシャーに
怒りを持って対応しても何も不安感は解消されません。

また、不安があるからと言って
学校に行かないわけにもいきませんので
恐怖を抱いて逃げるわけにもいきません。
そもそもどこに逃げても不安は解消されません。

それでも何とか危機感、不安感を解消したい。
こういう中途半端な状況が蔓延しているのが今の中学生ではないでしょうか。

こういう場合、つまり危機感、不安感を感じているのに
上手に解消できない場合に起こる現象が
可愛く言えば八つ当たりです。
自分よりも弱い者が自分に対して行う
些細な侵襲行為に大げさに反応して
「自分を守る」という言い訳を持ちながら、

わずかな侵襲(たとえば気に入らない)を口実に
社会制度によって抱かされた不安を重ねて
弱い者に怒りをぶつけるということです。

ただ、その怒りのぶつけ方は
ストレートに暴力や暴言として表現されるだけでなく、
執拗に追い詰めていく200万年前の狩りのスタイルが
行使される場合も少なくないということなのです。

いじめが起きるとき、あるいは仲違いがいじめに転化する時
いじめる側にとっていじめのターゲットになる者は、
仲間ではないのです。
自分を攻撃する加害者と烙印を押すのです。
即ち、人間としては扱わないということになります。

だから自分を守るために攻撃し、
加害行為がルーチンになるうちに先祖がえりをして
執拗に追い詰めるようになるわけです。
共犯者は、
加害者を守る、共感を示すという錦の御旗をもって、
ターゲットを攻撃するようになります。
やはり、追いつめ型狩りが始まります。

いじめを受けるターゲットに
いじめの原因を求めることはナンセンスです。
どのように生きていても
誰かに迷惑をかけなければ自由に生きていって良いはずです。
間違っても、いじめられる、即ち
人間扱いされない仕打ちを受ける理由はありません。
さらには、加害者の怒り、攻撃動機は八つ当たりに過ぎないからです。


いじめをする側の思考力の低下がも指摘しなければなりません。

将来などの不安が蔓延している場合は、
交感神経の活性が持続化し、慢性化している状態になります。
試験勉強の様な頭の使い方を日常ではしませんから、
このような生理的状況は思考にストレートに影響を与えます。

それは、
将来的な展望をもって現在を把握することができない
今目の前にある課題だけが検討課題になる
他人の気持ち感情に共鳴、共感する能力が少なくる。
誰かが肯定してくれることを志向し、自分の価値観で行動できない
多数派に居続けなければ安心できない
という思考パターンに陥ります。

この結果、多数の人たちがいじめているのだから
ターゲットはいじめてもよい対象なのだ
という考えに安易に飛びつくようになります。

感情が豊かな教室の実力者が攻撃しているのだから、
その攻撃に乗ることが
自分が評価されるチャンスだと思っているようです。

いじめのターゲットはいじめの加害者たちから人間扱いされていません。
少なくともいじめをしている時はそうです。
夢中になって追いつめているわけです。恐ろしいことです。
だから、ターゲットがどのような気持ちになっているのか
等ということを考えたりできないようです。

後で落ち着いて考えると
とんでもないことをしたという気持ちになることが多いのは
そういうことです。

このようないじめの特質を踏まえて対策を立てる必要があります。
ところが、現在の対策は
とりあえず、いじめの件数を減らそう、
いじめによる子どもの自死を減らそうということに汲々としています。
こんな、思考停止の対応をしているから、
昨年度中高生の自死が平成年間最高になるわけです。
子どもに対する対応は間違っているのです。

いじめに対して命の授業が行われることがあります。
これほどばかばかしいことはありません。
私には、このような授業のいくつかは
どんなに虐められて生き地獄の思いをしても
死んではいけないということを押し付けているだけのように聞こえてしまいます。
死ぬ方が悪いという思考を作り上げる危険があるように思えてなりません。

また、加害者も、命をとろうとまでは思っていません。
ただ、本能的に追い詰めようとしているだけなのです。
命の授業をしたところで
いじめ防止に効果で気だとは思えない次第です。

私のブログを何度か読んでいただいている人にはくどいのですが、
SOSの出し方教育ということも、
結局子どもがSOSの出し方が下手なので
大人が気が付かないという
子どもの自己責任、大人の責任回避の政策としか考えられません。
子どもに甘えるな、SOSを出さなければならない環境こそ防止しろ
それが一番でなければ、いじめも自死も増えていくだけです。


ではどうするか。

一つには、仲間意識を形成させる指導が必要です。
競争ではなく、助け合いや無償の援助の喜びを与えること
自分が仲間の役に立つことの喜びですね。
共同作業を通じて、目標を完成ではなく
目標を助け合い、チーム作りにおく必要があると思います。

その仲間形成は、父兄も巻き込んで行う必要があるようです。
むしろ大人たちが、積極的に尊重しあう姿を見せ
サンプルを提示することが有効だと思います。

この時、仲間であるための条件、なんらかの役割を果たす
ということはしない。
とにかく、単純に近くにいるということが大切なのです。

学校があって、教室があって授業があるということは
何十年も変わらないのですが、
どうも私には、生徒同士の距離が遠すぎ、
心理的接触さえも希薄になっているのではないか
と感じることが多くあります。

実はこういう活動は、
将来の過労死の訓練にもなります。
仲間を頼ったり、助けたりする関係
そういう関係を形成する時間的余裕がないのかもしれません。

二つ目は、人間とは何かという教育です。
道徳の時間には、こういう問題に取り組むべきです。
少なくとも同僚との人間関係よりも
上司との人間関係を大切にするように誘導したり、
国家に帰属すればすべて安全という幻想も
何も解決せず有害です。
人間は尊重されなければ生きる意欲を失っていく
ということを教育していくべきです。
逆に、尊重されることで力を発揮していくものだ
ということもよいと思います。

三番目として
ただいるだけで尊重される体験が必要です。
現代の社会は親子関係も希薄で、
親が子どもとして尊重する条件を付ける時代です。
祖父母との結びつきが弱い。
無条件で可愛がられた経験が無い
これでは群れの中で尊重された体験が
乏しくなることも当たり前です。

自分が群れにとどまるために努力するように
同級生にも努力を要求していくことになります。

努力しない子どもに対して敵意を感じることもあるようです。

四番目としては徹底介入です。
教師が一番弱い子を守る姿勢を鮮明にすることです。
えこひいきという批判に対しては、
校長や教頭が担任を徹底的にかばうこと。

根本には、教師が忙しすぎるということです。
忙しいと、追いつめられている子どもたちの様に
思考力が低下していきます。
将来的な展望をもって現在を把握することができない
今目の前にある課題だけが検討課題になる
他人の気持ち感情に共鳴、共感する能力が少なくる。
誰かが肯定してくれることを志向し、自分の価値観で行動できない
多数派に居続けなければ安心できない
という行動傾向を教師が持ってしまいます。

だからことが起きないと行動しないのです。
ターゲットの顔色が変わったことには気が付いても
ではどうしましょうという発想にならず
何とか勝手に収まってくれという気持ちになり、
ターゲットの存在を疎ましく思う傾向になるのも
ある意味必然的なことです。

根本は、世の中から無駄な競争意識をなくすことです。
少なくとも老後の不安の無い生活を国は保証するべきです。

派遣労働や有期雇用は減らさなければなりません。

私は、現状の受験制度は改めるべきだと思います。
いじめの現場を見ると一発勝負の受験こそが
ストレスを軽減するように思われます。
現状は、子どもたちが評価者である学校の顔色を窺っているというような
危険な状態ではないでしょうか。

スポーツについても
学校の部活動が関与する全国大会はやめるべきです。
その代わりスポーツ少年団を自治体や国は援助すればよいと思います。

就職採用についても
学歴偏重で本当に企業が必要な人材を確保できているのか
真剣に考えるべき時期だと思います。
経済にとってどのような人材が必要なのか、
これまでの様に上司の命令に忠実になるような人材の選び方を続けると
なんだかわけのわからない人が
総理大臣の配偶者が支援しているということで
一流大学を出た最高エリートたちが
忖度してスーパースペシャルな便宜を図ろうとするのではないでしょうか。

なんか選挙公約みたいになってきましたので
そろそろ終わりにしますね。

nice!(0)  コメント(0)