SSブログ

和を以て貴しとなす。17条憲法は思ったより哲学だった。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

厩戸皇子が自らしたためたという17条憲法
7世紀ころの文章であることはどうやら間違いではないようです。

その第1条が和をもって貴しとなるという文章から始まるわけですが、
うっかりすると、
人間は相互に仲良くすることが一番だ
という意味にとられてしまうことがあるようです。

それであれば根本的に意味を取り違えていることになると思います。

本当は漢文で書かれているのですが、
読み下し文で見てみましょう。


一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

これが、1条の全文です。

和が「やわらぎ」と訳されていますが
「わ」の方が意味が通じやすいように思われます。
私は、仲良くするという意味ではなくて
「一体となろう」という意味だと思うのです。

どうして和が達成できないかが次にかかれています。

それは、一部の者が徒党を組むことによって、
全体の利益を損ねるということが書かれているようです。

対人関係学的に言えば
複数の群れが併存しているために、
一部の群れの利益だけを追及すると
全体が害されるという主張ではないでしょうか。

一部の群れは、群れの中では仲が良いのです。
おそらく、血のつながりであったり住んでいる地域の仲間であったり
自然と、互いの利益を第1に考えようとする条件があるのでしょう。

また、人間は、どうしても身近な人間の利益は考えることができるし、
それを追及しようとするのですが、
そのことによって別の人が不利益を受ける
ということを洞察することができないし、
また、見知らぬ人の不利益はあまり気にしない
という間違いを犯しやすい
ということがあります。

このため誰かと仲が良いことが
かえって誰かを傷つけたり
全体の利益を害したりする
だから、一筆書きの輪のように
全体の利益を考えていこう
特定の人たちの利益を考えることはやめよう
ということを決まりごとにしようということだと
私は思います。

17条憲法は、そのあとの条文をみても
一般的な道徳を説いたものではなく
あくまでも統治の原理を示したものです。

皇族が、豪族の中で相対的に有力であるに過ぎないという
政治勢力地図の中の時、
外国からの圧迫も置き始めていたので
日本は、結束して外国と対抗しなければならない時代でした。

こういう時代に即して
国の統治をするための最も必要な事項が掲げられているのではないでしょうか。
その意味で、立派な憲法と呼ぶにふさわしい内容になっていると
私は思います。

そして単に豪族たちが相争うことをするなということでなく、
和をもって貴しとするということですから
なんともポジティブな表現ではないでしょうか。

注目するべきは
第1条も、最終である第17条も
合議制を説いているところです。

十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)

少数の集団が、こそこそと利益を追及すると
どうしても全体としては損害を被ります。
正義が交代してしまいます。

堂々と公にしたうえで、
良いものは良い、悪いものは悪いと
議論するという方法を取れとのことが記されています。

但し、自分の利益を主張し合うのではなく、
全体の利益を考えること
これは、現代の為政者も耳が痛いのではないでしょうか。

また、これは国家だけの原理ではありません。

対人関係すべからくそうでしょう。

物事の見通しのない人は、
誰かを助けようとするとき、
その人の感情を第1にすることが正義だと思ってしまいうようです。

しかし、人の感情、負の感情は
人と人との関係の中で生まれることが多いわけです。
誰かと対立しているようなとき、
負の感情をあらわにしている人を助けようとすることは人情です。

「そんなことされたの?それはひどいよね。」
と、悲しい顔をした人を見たら言ってしまいそうです。
しかし、紛争は、その人とその人の関係者の間で起きていることなのです。
その人の不安を肯定してしまうことで、
その人とその人の関係者の仲に亀裂が生じてしまい、
結局その人も今よりも苦しい立場に陥ることが
実際には多くあります。

国家という大きな話ではなくても
人間の関係を考えてみると
夫婦、友人、取引関係もそうですが、
関係の一部だけを優遇しようとすると
元も子もなくしてしまう
だから、問題になっている人間関係全体を
高めていく方向で修復することが
必要な視点ということになります。

最後にいじめが起きる典型的パターンをお話しします。

AさんとBさんは元々仲良しでした。
CさんやDさんは、自分たちも仲間に入れてもらっているけれど
AさんがBさんを優遇するので少しわだかまりがありました。

Aさんは、Bさんを大事にしていて、
Bさんとだけ一緒にいることができれば良いと思っていました。

でもBさんは、いろいろな人と仲良くすることができます。

Aさんは、Bさんが自分を大切には思っていないと感じてしまいます。
Aさんは、最初はBさんをつなぎとめようと必死になります。
わざと意地悪をして気を引こうとしたりします。
Aさんは、CさんとDさんを利用して
これ見よがしに、Bさんに対して内緒話をしたりするわけです。

CさんとDさんは、
Aさんが悲しんだり怒ったりするので、
Aさんに感情移入していきます。
Aさんを助けようとして、
「本当にBさんはひどいね」
と、Bさんが何も悪くないのに
Aさんの不安を肯定してしまいます。

いつしか、意地悪がエスカレートしていき、
Bさんは3人から無視されたり嫌がらせをされたりします。

この段階では、学校は、「相性が悪い」
ということで済ませようとして介入しないことがあります。
しかし、この段階で3人以外に加害行為をする人が現れると、
Bさんは、いじめても良い人だという烙印を押されて
いじめが完成するのです。

他人の悩みや悲しみに首を突っ込むならば
全体としてのその人の人間関係を考えなければなりません。
目に見える感情にだけ対処しようとすることは
人間関係破壊することです。

まさにそれがいじめそのものであることが
多い。

和を以て貴しとなす

私たちの時代でも
鋭い輝きを放っていると
私は思います。


nice!(0)  コメント(0)