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学校がいじめ自死を予防できない理由 道徳教育に逃げ込もうとせずに、他人への共鳴、共感をする力をはぐくむことが必要ではないか [進化心理学、生理学、対人関係学]


現在、宮城県と仙台市が、
いじめ防止条例を策定しようとしています。
宮城県が手堅い内容となっていますし、
仙台市は大胆な発想を強調していまして、
特徴のある条例ができそうです。

このように自治体がいじめ問題に
取り組んでいる姿勢をアッピールすること自体も
私はいじめ防止に効果があると思います。

ところが、この度の(30年7月)猛暑の中、
学校での事故が多発しています。

部活でミスが多いからと言って
校舎の周りを80周のランニングをすることを命じた事案。
(9周でダウンし、業者の人が発見)
歩いて公園に行き、そのまま校外学習を行い、
小学1年生が死亡した事案。
その他熱中症で救急搬送された事案が
毎日のように報道されました。

先ず、なぜこのようなことが起きてしまうのか、
そして、その後に、この理由こそが
学校で、いじめが起きる要因、防止することのできない
要因であるということを説明します。

先ず、各事件における
学校の謝罪の表現から分析していきましょう。

80周のランニングの事件では、
「行き過ぎた指導」だったとしています。
校外学習での事件では、
「判断甘かった」と述べています。

この言葉の表現に着目しました。

それぞれの事件で、
真剣な自己批判がなされているのは確かでしょう。
また、事故直後のインタビューなどですから、
きちんとした考察の元での反省の弁でもないかもしれません。

しかし、決定的な反省の視点が欠落していることが
よくわかる表現だと思います。
おそらく、学校関係者は気が付いていない
ということがうかがわれる表現です。

先ず、80周ランニングの事件ですが、
この顧問の生徒への命令を、
行き過ぎたとはいえ「指導」だと言っている点が問題です。

この行為は指導ではなく、
ミスをした生徒に対する嫌がらせ、
純然たる加害行為です。
顧問の腹立ちを解消しようとした行為です。

80周走ることによって、
ミスが無くなるようになるわけではないことは
誰でもすぐわかることです。

ミスをすると
80周走らなければならなくなるから
ミスをしないようにする
それでは、脅迫です。萎縮してしまうだけでしょう。

「指導」と言ってはならないのです。
単なる加害行為です。

おそらく謝罪をした教頭も、特に考えなく
「教師が生徒に命じた行為」という意味で
「指導」という言葉を使っただけなのだと思います。
では、指導と呼んではいけないその基準として
どこに線を引いたら良いのでしょう

もう一つの、校外学習の1年生死亡事件の
「判断が甘かった」という言葉
とあわせて考えてみたいと思います。

校外学習をしても大丈夫だろう
という判断をしたが、
その判断が甘かったという意味だと思います。

本当に危険か安全かを考慮して
大丈夫だろうと判断をした
ということが前提ですが、

なぜ、大丈夫かどうかということを
考えなければならないほど
危険な行為だと認識したにもかかわらず、
そもそも校外学習を決行できたのか
どこに行動原理があったのかということを
考えなければなりません。

まさか児童が死ぬことになるとは思わなかった
ということはよくわかります。
しかし、死ぬ危険もわずかでもあると考えると
中止以外に選択肢が無くなるはずです。

危険に対処しなければならないという選択肢を捨てて
決行する「理由」、行動原理があったから
死ぬかもしれない危険に対処するという選択肢を
排除したということなのです。

謝罪の言葉から現れた、
学校の、教師の行動原理について考えてみます。

二つの事件で、明白に欠落していたのは、
「子どもの安全を優先する」という行動原理です。

80周ランニングの事件では、
生徒にとって何もメリットがない、
生徒を危険にさらすだけの行為です。
純然たる加害行為です。
従って、指導と呼んではいけないのです。

生徒にメリットなく危険にさらすすべての行為
メリットが期待できても
生徒の将来に深刻な影響を与える危険のある行為
死亡、後遺症が残る傷病ですね。
これが私の「指導」と呼んではいけない基準です。

学校の先生方は真面目な方が多く、
やらなければならないことは
やろうとする傾向にあると思います。

例えば熱中症事故を起こすことを防止する
ということがマニュアル化され、
気温と湿度を測定する係を決め、
熱さ指数を計算し、
記入する用紙や書式を作り、
その指数によって、校舎外活動をやめる
ということを決めれば、
その通りにするでしょう。

しかし、それで熱中症事故を防いだとしても、
それだけの話なのです。

平成23年夏、仙台では、
福島第一原子力発電所の爆発後の
放射線量の高まりに不安を感じていた人が多くいました。
その夏、ある小学校では
プール清掃を例年通り高学年の児童にやらせました。
プールの汚泥を掃除させたのです。
保護者の反発は無視されました。

その後、仙台市内の小学校、中学校の
放射線量を測定したのですが
その学校のプールの汚泥が捨てられた部分が
最大の測定値が観測された観測点でした。

また、仙台の中学校は
冬の朝の極寒のさなか、
挨拶運動と称し、
生徒たちがコートも着ないで
校門の前で挨拶をするということを
させられていました。
教育委員会への通報も無視されました。

このように、一つのことに基準を作っても、
別のことでは
生徒の安全性が優先されないということが
起こりうるし、
実際に起きているのだと思います。
熱中症事故は氷山の一角だと考えるべきです。

どうすればよいのか、
一つ一つ基準を作って
測定して対応するのか。
しかし、それは現実的でしょうか。

また、測定できない事柄、
測定しても数字から直ちに危険性の評価ができない場合
実際は役に立たないばかりか
もう一つの行動原理に負けてしまいます。

測定できない事柄としては
いじめの問題があります。
何かを測定しても
いじめを防止できるものではありません。

私は、学校が、子どもたちの安全を優先するために、
足りない要素があるのではないかと考えています。

それは、子どもの視線にたって、
あるいは保護者の視線にたっての
行動原理です。

子どもの視線に立つことはなかなか難しいことです。
例えば熱中症でいえば、
子どもは大人より身長が低いので、
地面からの照り返しが大人よりも強く影響を受けます。
水分を保持する能力も弱いです。
また、熱中症は単に元気がなくなるだけでなく、
体温調整がきかないために
筋肉が崩壊していきます。これが体が痛い原因です。
腎臓に負担がかかり破綻すれば
人工透析が必要になります。
このように知識が必要な場合もありますが、
それは子どもの専門家なので必須の知識です。

しかしそのような知識がなくても
子どもの表情から
子どもの状態を推測するということも
子どもの視線に立つために不可欠なことでしょう。

それらの知識や技術は
子どもの視線で考えようとしなければ
身につかないし、活用できません。

命じられた子どもだったらどのように思うだろうか、
言われた子どもだったらどう思うだろうか
それも、ただ言葉だけを考えるのではなく、
例えばほかの児童の前で言われた場合とか、
その子がほかの子どもの中で浮いている場合はどうだとか、
一生懸命努力したのに、結果だけ否定されてしまうとどうか
そういうことを考えなければなりません。

温度の危険だけでなく、
心理的な打撃を受けた場合の危険
その教師の行為によって
他の子どもからの評価が変わってしまう危険
特に孤立の危険を考えなければなりません。

子どもの安全を最大優先事項にしないと
見えてこないことがたくさんあるのです。

そして、一番弱い子どもの視点が必要です。

熱中症の例えをすれば、
80%の子どもが校庭での全校集会で変調をきたさない、
残り20%のうち、18%の子どもは
校内での休憩で回復する。
危険は残り2%の虚弱な子だ
残り2%のために、
全校集会を中止することはできない
と考えてはならないということなのです。

現実は、この様に数字で簡単に判断できるわけではありません。

大丈夫じゃないかという甘い判断が起こりやすい原因です。

一つは、子どもの視線に立てない
子どもの状態を想像することができない
子どもが苦しいことをしないようにしようという発想にならない。

実は、これが、いじめが起きる原因の一つだと思っています。

子どもは、別の子の安全や心理的負担を
行動原理にすることがなかなかできません。
自分のことしか考えられない
自己中心的な考えから出発します。

自分の行為によって、孤立することどもが生まれて
精神的に重大な影響が生じることになっても
行為をやめることができません。

やるべきことは、
相手が嫌な思いをしているということを
実感させることです。
追体験させることです。
そういう指導を積み重ねて、
自分の行為によって相手が傷つくことが
恐ろしいことだという実感を持つことです。

逆に、同時に
相手が自分の行為によって喜んでくれる
そういう経験を積み重ねることによって、
仲間の嬉しさを経験することです。

同時にというのは、
自分の行為によって
相手を喜ばすこともできれば
相手を絶望に叩き落すこともできる
そのことを理解して行動することができれば
自分の気に入った友達だけでなく、
多くの人間の中で
自分は安心して生活することができる。

こういう共鳴、共感による
仲間形成をする教育が有効だと思います。
いじめ防止教育とは
理性的な人間関係を築くその方法と体験
ということになると思います。

人間だけが
子どもの時期が長いのは、
このように、人間の特質である
群れを形成して生活する方法を
学ぶことに時間がかかるという学説があります。

そうだとすると
共鳴、共感によるいじめ防止教育は
子どもが大人になるための
最も大切な教育だということになります。

このような教育が有効だとすれば、
子どもの視線に立てない学校や教師の状態は
極めて深刻です。

教える側の大人が
それができていないのですから
到底子どもに教えることができません。

だから、安易に道徳教育に逃げ込もうとするのです。
道徳教育は、結論を求める側面がどうしてもあります。
また、道徳の中には
教師が子どもを尊重するという視点は
出てきにくい状態にもあります。

道徳や規範とはルールです。
ルールを教えて、それを守ろうという教育に
どうしてもなってしまいます。
しかし、道徳の内容は広範であり
時代の変化に左右される性質もあります。

ルールを守るということは大切ですが、
熱中症の例えでは、
気温や湿度を測定し、
熱さ指数を計算し、
用紙に書き込んだり入力したりする
ということです。

熱さ指数に達しなければ
問題ないとして行動に出てしまうことにも
つながりかねません。

オールマイティーなルールはありません。
状況によってはルールを貫くことが
不合理な結果になることもあります。

確立したルールだけでは足りない、対処がわからない
ということもたくさんあります。

大事なことは道徳や規範そのものではなく、
その心にあります。

他人の気持ちを想像して
楽しいことを共有し、
嫌なことは修正する
ということができるようになること

共鳴、共感の力をはぐくむことです。

それを教師が率先して行わなければなりません。

色々な知識を身に着けることも大切ですが、
勉強の素材は
自分の職場に豊富にあるわけです。
自分の言動によって、
子どもたちがどのように反応するのか
それを子細に観察することです。

子どもの安全に優先させてしまう行動原理ではなく、
子どもたちの反応におそれ、
子どもたちの反応に報われる
そういう行動原理を導入するべきです。

そのために管理職や教育委員会は、
教師の裁量を広く認め、
子どもたちの安全以外の行動原理を
先生方が持たないように最善の努力をするべきです。

そうして、そのような余裕のある
指導体制を敷くことを検討していただきたいと
心から願います。

いじめ防止の方法は、
人間教育の原点に立ち返り、
共鳴力、共感力を育み、
児童生徒の安全を最優先の行動原理とし、

それに優先させてしまう行動原理を
学校現場に持ち込ませないこと
児童生徒の安全を最優先することを
妨げる環境を作らないこと
こう言うことだと思います。

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