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死刑に賛成する人も反対する人も、亡くなった方々のご冥福をお祈りすることと、心が殺伐になることを食い止める方法 [進化心理学、生理学、対人関係学]


オウム真理教の関連で、
今月13名の死刑が執行されました。

死刑に賛成、反対にかかわらず、
一般国民の視点で
死刑執行に伴う負の効果が
あまり論じられていなかったのではないかと
そう思っていたところがあり、
少し考えてみました。

賛成反対に関わらず、
無防備であることは危険なことだと感じたからです。


先ず、死刑の報道を受けて嫌な気持ちになる
ということはどう言うことか
どう対処するべきかということを考えます。

次に、自分はへっちゃらだよ
死刑は当然だよという気持ちが本当ならば
それは少し深刻な状態であると思いますので、
その理由について述べたいと思います。

本拙文は死刑についてのある程度の言及がありますので、
閲覧は各自の責任でお願いします。
なるべくあっさりと書くことを意識して書いてはいます。
前半部分の最後までお読みいただくことをお勧めします。

本拙文の目的として死刑制度の廃止か存続か
という議論の一方に加わるつもりはないことを
お断りいたします。


<前編:死刑の報道を聞いて嫌な気持ちになった人向け>

死刑が執行されたと言えば、
反対と賛成にかかわらず
嫌な気持になる人が多いと思います。

何とも言えない嫌な気持ち
胸糞悪いとか
複雑な気持ちとか
あるいは閉塞感だったり
いろいろな表現があると思います。

また、その程度も人さまざまで
一瞬嫌な気持ちになったけれどあとは忘れているよとか
夢に出てきそうだとか、
人間や命について考えこんでしまっている
という程度の違いがあるでしょう。

死刑執行を聞いて嫌な気持になるとき
これは心の変化が起きているだけでなく、
体の中で確実に変化が生じています。

人によってだいぶ違いがあるのですが
執行を聞いたことにより
人間の命の危険があることを認識し、

副腎髄質ホルモンが分泌され
逃げたり戦ったりしやすいように
心臓の打ち方が大きく早くなったり
血液の流れに変化が生じて筋肉に血流が多く流れるようになったり、
副腎皮質ホルモンが分泌され、
内臓に有害な影響を与えたりしています。
このような体内の変化の
意識面の状態が嫌な「気持ち」なのです。

これは、受刑者の危機感に共鳴、共感して
起きてしまっている現象です。

共鳴、共感というと
その人に親近感を覚えていたり
賛成、理解をしている場合だけに
起きるもののように思われるかもしれませんが、
およそ人間の危機的状態を知覚すれば
多少なりとも生理的変化は起きてしまいます。

これが群れを作る動物である人間の特性です。

危険に直面している人本人は、
逃げたり戦ったりして危機を脱出するために
からだの変化が必要です。
交感神経が活性化し副腎髄質ホルモンを分泌し、
副腎皮質ホルモンが分泌されるわけです。
これによって筋肉を動かしやすくして
走って逃げたり、手足を動かして戦ったりしやすいように
からだの中が変化しているのです。

危機に直面している本人ではなく
見たり聞いたりしているだけの人間でも、
同じような体の中の反応、変化が
起きてしまう現象が、共鳴、共感です。

現代社会においては、共鳴、共感は無駄な話かもしれません。
しかし、大雑把に言って200万年前は合理的な反応でした。

当時人間は、ほとんど一生
同じ人たちと群れを作って暮らしていたわけですが、
群れの仲間が逃げているなら、
見ているほうも恐怖を感じて逃げて
群れの仲間が戦うなら、
見ているほうも怒りにまみれて戦うことで、
危険から自分たち群れを守り、
結果として自分を守って生き延びてきました。

あるいは
仲間が襲われていることを目撃した場合
怒りをもって別の仲間が攻撃をして仲間を助ける
ということですね。

仲間の危険を自分のことだとして感じることができれば、
群れ全体で行動することができ、
それだけ、危険から逃げ伸びる確率が増えるわけです。
だから、群れの仲間の危険であれば
同じ生理的変化が生じることは合理的だったのです。

この共鳴、共感が、
他の動物に比べて取り柄がなく弱い人間が生き延びてきた
群れを作る仕組みです。
大雑把に言えば200万年前の生活スタイルです。

現在はマンションのように同じ場所に住んでいても
挨拶も交わさないような人間関係ですし、
隣で襲われている人を助ける人も少なくなりました。

しかし、脳の構造は200万年前からそれほど変わりません。

当時は「人間」と言えば群れの仲間だったため、
人が襲われていると思えば
いちいち確認しなくても群れの仲間のピンチということで
迅速に行動に出ていたのでしょう。

その特質が受け継がれてしまっていますから、
相手がだれであろうと
極端な話、人間の形をしているものが危険に直面していれば
勝手に共鳴、共感してしまっている
そういうもののようです。

死んでしまった人にも共鳴、共感は働きますから、
人は死んだからと言って粗末に扱えず、
きちんと埋葬手続きを行い、
死者を供養するという
仲間の死に対する共鳴、共感による精神的混乱から
対処する文化を育んできたのでしょう。

死刑執行の場合は、さらに厄介なことがあります。

死刑は、
執行までは、まったくの健康体でいる人間が
執行によって命を奪われるということです。
しかも、執行の場面では、
抵抗することができません。
確実に命を失うにもかかわらず
危険からまぬかれることができない
抵抗することもできない絶望があります。

この絶望に共鳴、共感してしまうことが
厄介なことなのです。

一度、共鳴、共感によって、人間の体が危険を感じて
危険に備えた変化をしているのですが、
その危険を解消する方法がないということで、
何とか危険を解消したいという
その気持ちだけが勢いよく空回りをしてしまう危険があります。

これがまさに、
言いようのない不快感、
胸糞悪い感覚
閉塞感
という嫌な気持ちの正体でしょう。

つまり、危険を感じ
危険に対処する方法がないことを感じている
そのことに共鳴してしまっているということです。

絶望を回避するためのシステムは
人間の脳に限りなく組み込まれています。
それだけ絶望を感じることは
今後生きていくことに深刻なダメージを与えます。

死刑執行のニュースを聞いたという
単独の出来事では心配ないかも知れませんが、
その他の事情、もともと精神的な疲労が蓄積していたとか
そういう事情が積み重なっている場合には
生きる意欲が削られる危険があると思います。

死刑を執行された方々に対して
無意識に共鳴、共感してしまっているという側面があります。
これについては、やはり、
これまで育んできた
死者に対する文化的方法である
冥福を祈るということを素直に行うことが
心を軽くする方法であろうと考えます。

ところが、死刑を執行された方々のご冥福を祈ることが
不道徳ではないかという心理的制約があることも事実です。
一つに、死刑を執行された人の犯罪による
被害者やその遺族の苦しみは、
国民の犯罪の記憶が薄れても薄れないからです。

確かにそうかもしれません。
死刑の犯罪を振り返り、
被害者の方の苦しみに思いをはせ、
無くなった方のご冥福こそ
優先してお祈り申し上げる。

とても大事なことだと思います。
私は、亡くなられた方皆さんのご冥福をお祈りします。


<後編:人の死に鈍感になることの怖さ>


嫌な気持ち=絶望の追体験を回避する仕組みとして
怒りを抱くという方法があります。

死刑執行をされた人たちを
人間とはみなさないという思考パターンです。
怒りは、対象をせん滅させるときの感情ですから、
仲間ではないという気持ち抱いています。
怒っている対象には、共鳴、共感は起きにくくなっています。
そのための怒りだということもできるでしょう。

被害者ご本人や遺族ご本人であれば、
むしろ怒りを自然と持つことができるでしょう。
私なら死ぬまで怒るでしょう。
自分や、家族というかけがえのない仲間を
加害され、殺されればもっともな話です。

そのような自然な怒りは良いのですが、
結果として怒りがあおられることについては
警戒が必要です。

死刑報道があると
そもそもどんな犯罪を起こしたから死刑になったという
報道がなされます。
あるテレビ局は、
選挙速報よろしく
執行された都度、
顔写真に執行済みのシールを貼ったと言います。
怒りを、執行された人に向けようとする行為だと思います。

この怒りには、大きなデメリットがあります。
それは怒りが長続きしないということです。
もし、執行済みシールで
その時は盛り上がったとしても、
少し時間をおくと
かえって大きな嫌な気持ち
自己嫌悪が襲ってくることになります。

人間を死に至らしめたことに
喜びを感じた記憶というものは
自分自身を蝕む危険性があります。

怒りという方法も一つなのですが、
人の死に対して鈍感になるということも
絶望の追体験を感じなくて済む方法です。

人が死んだって何とも思わないよ
ということですね。

実は、これが怖いことです。
人間性が阻害されていくことです。

人間の気持ちに対する共感するチャンネルを
自ら閉ざしている可能性があるからです。
群れの中で尊重されて生活するということが
人間が安心して生活できる状態です。
人間の生理的な健康を後押しする生活スタイルです。

そこでは、群れの仲間に対する共鳴、共感によって、
自分が群れから尊重されているということ実感します。
他者への共感のチャンネルが開いていることが
安心の前提条件になっているようです。

これを閉ざしてしまうと、
自分が安心して人の中で暮らせなくなる危険があります。
周囲の人間が自分をどのように思っているか
全くわからない
この場合は、大変不安になってしまいます。

逆に考えると
人間は、色々な人が物理的に近くにいるけれど
自分に敵意を持っている人はいないだろう
という暗黙の了解の中で
見ず知らずの人の中で生活しているということになります。

この暗黙の了解が成り立たなくなる
これが大変恐ろしいことです。

こういう人は危険を常に感じ、
危険を回避しようと常に感じていて
その結果ある人は人の中から逃げようとしたり、
その結果ある人は絶えず誰かを攻撃したり、
自分を攻撃したりして
不安を解消しようとする危険性があります。

もう一つ
共鳴、共感のチャンネルを閉ざし、
他人の命、感情に鈍感になってしまうことは、
自分の命に対しても鈍感になってしまう危険があります。

これがかなり厄介なことです。

人間はなぜ簡単に自死することができないのかというと
それは死ぬことが怖いからです。
死ぬのが怖くなくなると自死が起こりやすくなります。
戦争体験や悲惨な犯罪被害の体験
そういう死と隣り合わせの体験をしていくと
死が怖くなくなっていくようです。

この場合も他者との共鳴、共感のチャンネルが
閉ざされて、孤立化している状態になります。

リストカットなどの自傷行動も同様です。
リストカットをしなければ心の平衡を保てない事情は、
他者との共鳴、共感のチャンネルを開いていることが
自分の安全を脅かした体験があるからだと
考えられないでしょうか。

私は、これに、
人間として尊重されない体験
仲間として扱われない体験も
同様に死ぬことが怖くなくなっていく
原因になると私の実務を通じて、
つまり、いじめやパワハラ、虐待事件を見て思います。

自死に親和する体験だと考えています。

他人の不幸があっても
自分が安全ならどうということはないと
そう思うかもしれません。
しかし、そこに厄介な事情があるのは、
人間の共鳴力、共感力です。

他人が尊重されない、仲間として扱われない
ということをされている人を見ると
およそ人間が大切にされないものだということを感じ、
その中には無意識に自分も含まれてしまうようです。

原始的な反応ですし、無意識の反応ですから
他人と自分の区別をつけて反応することが
難しいようです。

人間が大切に扱われない究極が
殺されることです。
つまり死刑執行です。

この人が大切に扱われない、命を奪われる絶望の
共鳴、共感が起こらないということは、
死ぬことの恐怖を感じさせにくくなり、
自死に近づいてしまう危険があると思います。

また、そのようなことに馴れていくことは
死の危険に鈍感になって行くことです。

この究極の形態が自死なのですが、
自死に至らなくても
人間を大事に思えなくなることで

犯罪を起こしやすくなる
(他人に苦しみを与えることに抵抗を感じなくなる)
他人を攻撃しやすくなる
夫婦や友人などの人間関係を大切にしようとしなくなる。

そういうことが起きてしまうわけです。

犯罪の罪深さとは、
被害者の周りの人の人間性を傷つけるという
二次的、三次的な被害を与えることでもある
その上、死刑が執行されればされたで、
さらにその傾向を強めてしまう。
犯罪の罪深さは、
単純ではない罪深さが本当はある
ということだと思います。

それは、被害者とは関係の無い一般国民も
程度はだいぶ違う、質的に違うとは言っても
人間性が阻害される被害を受ける
というものであることを
考えなければならないと思います。

自分の家族、子ども達、
自分の愛する人たちを守るために、
人はどんな人でも死を悼まれる存在であると
せめて思うことが
人間性を削り取られないための
有効策になると考えます。

先ずは、犯罪の被害に遭われた方々のご冥福を
心よりお祈り申し上げることが必要だと思います。

そして、罪深い人だとしても
国家秩序のために命を落としたのですから
無くなった後でご冥福をお祈りすることに
後ろめたさを感じなくても良いのだと思います。

そして、同種の犯罪が行らないように
ご自分のできる活動を行うことが
とても有効な行動であると感じています。

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