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正義はなぜ怒りを伴うのか(1)部活動をさぼったことによる怒りの考察 [進化心理学、生理学、対人関係学]


例えば、不慣れな道路を運転する人が
一方通行の道に逆走の形で入ってくると
優しく注意する人もいますが、
鬼の形相で正面衝突せんばかりに
攻撃をしてくる人もいます。
確かに危険な運転ですが、
よろよろと走っている場合は
逆走だと知らせればみんな改めるので、
それほど怒りを大きくする必要も
ないのではないかと思うことがあります。

この場合の怒りは
誰かが危険な目にあうからということではなく
交通ルールを破ったことに対して
抱いたようです。
いわば正義の怒りです。

今回は、
ルールを破ったことによって
具体的な誰かが直接具体的な不利益を受ける場合は
除いて考えています。
例えば、不正入試で入学をして
その結果正当な誰かが不合格になった
という場合は除くということです。

実際のいじめの事件で報道されていたものの中に
部活動に参加しないということで
非難されて攻撃されたというものが
けっこう目につきます。

この時、ラインなどで欠席者を攻撃した
生徒さんの心理こそ
ルール違反に対する怒りによるもの
ではなかったでしょうか。

なぜ彼らは怒ったのでしょうか。
怒りに任せてラインでの攻撃を加えたのでしょうか。
このラインの書き込みは、報道によれば、
どうして部活に出ないのだという
比較的穏当なものもあれば、
屈辱的なコラージュを作って添付した
というものもあったそうです。
それをグループ全体が閲覧し、
誰も止めるものがいなかったようです。

彼らは、怒りという感情に支配されていますから、
相手を倒そうという目的を追求してしまう傾向にあります。
その結果、いじめ被害者の感情をおしはかって
こういうことをするとかわいそうだからやめようとか
ここまでやるのはやり過ぎだからやめよう
等という、
共鳴共感による自己抑制が効かない状態になっています。
気持ちがつながるチャンネルが閉じられている
ということになります。

怒りとは、もともとは、
危険に対して攻撃することによって
危険を無くそうとするときの感情ですから、
何らかの危険、
生命身体、財産、名誉、感情が害されそうになっていること
を感じて発動されることが元々の人間感情です。

そして自分の危険だけでなく
仲間と感じる人間の危険に対して発動される場合も多く、
どちらかというと、この方が
容赦ない怒りになる傾向があるようです。

しかし、部活動に来ないというルールが破られても
誰の危険も生じません。
ルールを破るという本人だけが
もしかしたら不利益を受けるかもしれないくらいです。

どうもルールを破ることから
正義に反する行為だということになり、
それ自体が怒りを産んでいるように感じられます。

そしてこの怒りは、
仲間の誰かに言われなき不利益を与えた場合と
同じような容赦のないものになっているようです。

なぜ怒るのか。

当たり前ではないかという人もいるかもしれません。
ルールを破った人に対して怒りを覚えるのは理屈じゃない
とイライラしている方もいらっしゃるでしょう。

しかし、
感情というシステムは、特に怒りという感情のシステムは、
人間が生きていくために必要だから
あるわけです。
怒りの感情は攻撃によって危険を除去する場合の心の状態ですし、
恐怖の感情は逃走によって危険を除去する場合の心の状態です。

そう考えるとルールを破ったことによる怒りも
自分に対する危機や
仲間に対する危機を感じているのでしょうか。

一つの考えとしては、
進化の過程で正義が破られるとき
怒りの感情を持つようになった
という説明があり得ると思います。

進化心理学は、人間の心理は、
約200万年前の狩猟採集時代に形成された
と考えています。
この時代から脳があまり変わっていないからです。

200万年前は
原則として死ぬまで同じ群れで生活していましたし、
仲間の人数もそれほど多くなく30人から150人程度といわれており、
このくらいの人数なら、言葉が無くても
誰がどんな性格をしていて、どういう行動傾向にあるかわかるので、
感情移入がしやすい状態だったでしょう。
また、交換のできない運命共同体ですから、
仲間を大切にしたと思います。
それが結果として自分を守っていたわけです。
ルールというものを作らなくても
仲間を出し抜いたら、
仲間がかわいそうだという意識を持ち、
秩序も公平も保つことができたと思います。

多少感情移入する能力が足りない個体が生まれても、
教育の中で是正していったと思います。

しかし、どういう拍子かに
他人に感情移入することのできない個体が生まれ、
教育がうまくいっても心がついてこなかったため、
自分の利益のために仲間のもの
例えば食料を自分で食べてしまうことが
多々あるような個体が生まれた可能性があります。

これが続き、被害が重大になれば、
他の仲間は、不利益を受ける仲間を救うために
感情移入できない個体に怒りを感じます。
こうなると、当時であろうとも、
感情移入できない個体には
仲間というチャンネルが閉ざされますから、
仲間だと思わず、
人間に襲い掛かるクマや虎のような扱いとなり、
容赦なく攻撃を加えて群れから排除をしたでしょう。

しかし
この行動原理は正義を破る、ルールを破るところから来るのではなく、
不利益を受けた仲間の危険を除去する
という古典的な怒りのパターンだったはずです。

時を下って
農業が起ころうかという頃になると、
人口も増え、集落も大きくなり、
集落間の協力やいざこざも勃発しますから、
一生涯で出会う人数もどんどん多くなって行ったでしょう。
こうなると、感情移入や共鳴、共感だけでは
秩序は成り立たなくなるはずです。

集落の中に派閥みたいなものができたり、
集落間の争いになれば、
自分のグループを守るために
隣のグループを攻撃するという
きっかけが生まれてしまうからです。

仲間を守る
ということだけでは
解決がつかなくなるわけです。

そこで、大集団を規律する決まり事が生まれるわけです。
共存のためのルールということになります。
最初は、殺すなとか盗むなとかいう
共鳴、共感プラスアルファみたいなところから始まったでしょう。
自然の感情でルールを守る必要があるのだなあとか
感じていたことでしょう。
ルールは、自分や仲間を無用な争いから守るもので
ルールを破ることは
自分や仲間を危険にすることだということは
理解しやすかったと思います。

それから、もしかすると農業の黎明期ですから
ルールに従って土地を耕し
種をまき、世話をすることで
収穫が約束されるとなると
ルールはとても役に立つ
という感覚にもなったことでしょう。

これらのルールは破ると
自分や仲間の誰かが被害を受ける
ということが実感としてわかりますから、
ルールを守らない者に対して
自然と怒りを持つ関係になっていたでしょう。

しかし、人数が多くなり
利益集団の関係が複雑になるにつれ、
一般の個体にはよくわからないけれど、
ルールだから守らなければならない
というルールが作られ始めたと思います。

自然に必要だと理解できるルールと
ルールという点では同じですから、
これらのどうしてそのルールがあるかわからないルールも
破る者に対して、
自分や仲間が不利益や危険を与えられるような感覚になり、
怒りを抱くようになった。

というのが進化論的に獲得した感情の説明に
なるはずです。

ここまで苦労して説明方法考えて
文字を入力したのですが、
どうも私はこの説明に懐疑的です。

懐疑的だという理由は、
自分や仲間の具体的な不利益もないし
誰にもそれほど迷惑がかかるわけでもないのに
ルールを守らなかっただけで
相手の人格を否定するほどの
怒りを持つということがありうるのか
ということが納得できないからです。

おそらくもっと分析的に検討する必要がありそうです。
ルールを破ったことに対してすぐに怒りを持ったのか
ということを検討するべきだと思います。

この時、数学の補助線みたいに有用な思考ツールは
現代社会の怒りの大部分は八つ当たりだという仮説です。
怒りは危険を攻撃によって除去しようとするときの感情だと言いました。

しかし、現代社会の危険は
なかなか攻撃によって除去できないものばかりです。
生命身体に対する攻撃というものは
それほど多く想定できません。
むしろ日常的な不安は対人関係上のもので
学校や職場から排除されるとか、
失敗して低く見られるとか
定年退職まで収入があるような職場がないとか
就職できるだろうかという危機感が
むしろ多いと思います。
そのために家庭でねじを巻かれるという危機感もあるでしょう。

そうすると、相手が大きすぎたり
対処の方法がないということで
危機感を解消したいのだけれど解消できない
というアイドリング状態が続いていると思います。

大人も会社の上司から攻撃されても
おいそれと反撃できませんから
やはり危機感を解消したいアイドリング状態が続きます。

一言でいえば
勝てると思う相手、仲間のために勝たなくてはならないという相手
に対してだけ
攻撃によって危機感を解消する行動に出ません。
職場の上司や社会や国に対して
勝てると思う人はいませんから
危機感解消欲求ばかりが強くなっているのが
現代社会なのだと思います。

だから、「勝てると思う相手」に攻撃が向かうわけです。
ただ、何の関係もない、何の落ち度もない相手に
やみくもに怒りだすということもなかなかできないようです。
そこで、
些細な落ち度をきっかけに、
社会や会社や学校という相手に関係の無いところで起きた
危機感を弱い者にぶつける
これが現代型怒りだと思います。

上司から叱責されてイライラしていて
家に帰って子どもが反抗的な態度をした
ということで怒りをぶつけるパターンがこれですね。

逆に夫婦喧嘩をして機嫌が悪く
部下の言動が自分に失礼だと言いがかりをつけて目くじらをたてたり、
自分の上司から営業所の売り上げが低いと嫌味を言われて
部下に当たり散らすとか
そういう八つ当たりです。

些細な危機感を与えた相手に
自分が抱いている大きな危機感解欲求をぶつけるわけです。

但し何らかの危機感を抱かさせなければならない。
これが、ルールを破るということではないでしょうか。

つまり、
慢性的に危機感解消欲求を抱いていると
早くこの欲求を充足したいという
焦燥感に似たイライラを抱えている状態になるのでしょう。
こうなると、
自分が勝てる相手を探しているようなものです。

はっきり言って何でもよかったのです。
最初は,部活動をさぼるのは良くないよというか
冷静に部活動に出てこなかった理由は何?
と尋ねるところから始まったのでしょう。
この時点で怒りがあったとしても
それほど大きな怒りではなかったはずです。

(辛い部活動を休みたかったけれど休まないで自分は行ったのに
休んでのほほんとしやがって
ということを感じていたら
怒りも出てくるかもしれません。)

だけど、彼は、部活動に出なければならないというルールを破った
ということが
ラインという文字で確認されました。

彼は、ルールを破った人間という認定をされました。
ここがきっかけだったのだと思います。

ルールを守らなければならない
という形での非難をしなくてはならない
あるいは非難をしても良いのだ
という意識が生まれたのだと思います。

これがラインを通じて集団的に形成されていったのでしょう。

そうしてルールを破ったことを非難していたはずが、
非難という攻撃行動をしているのですから
いつしか怒りに転じていった
あるいは怒りが大きくなって行った。
そうすれば、集団の相手に対する共鳴共感のチャンネルは
固く閉ざされてしまいます。

また、ラインというツールの特徴ですが、
相手の顔を見て行動しているわけではないということ、
相手の悲しんでいたり、怖がっていたりという
感情を見ることができません。
相手に対しするチャンネルは全く開かれなくなります。

集団対一人という図式は
勝てるという意識を嫌がおうにも盛り上げます。
怒りを止める事情が無くなるのです。
それは攻撃を止めないことを意味します。

相手の有効な抵抗がなければ
さらに怒りは大きくなります。
怒りは危険がなくなるまで
つまり、相手が倒れるまで追いつめるためのツールです。
また、相手の顔が見えなければ
相手が苦しんでいるという想像力も機能しません。
相手の感情に共鳴するチャンネルは固く閉ざされたままです。

怒りが共有された場合の人間の攻撃は
極めて過酷になります。

やがて、攻撃しても良い相手だという
意識付けがなされます。
怒りの共有化とはこういうことです。
仲間全体に対する危険をもたらすもの
みたいな扱い、
それは、狩猟採集時代の
他人に感情移入ができないがゆえに仲間から排除された個体と同じく
人間として扱われず、
群れを襲うクマや虎のような扱われ方に
なっているということになります。

そのきっかけになったことが
攻撃された対象者がルールを破ったことにあります。
ルールを破ったことをもって
攻撃されてもよい人間
という扱いを受けてしまったようです。

誰かが理性的に止めなければ
対象の相手の神経がすっかり消耗してしまうまで
攻撃する方法があるうちは攻撃をする
これが人間の行動原理ということになります。

人間の脳は、少人数で単一のグループで生活することに
適応しているのですが、
大人数複数の群れと共存する生活には
対応しきれていないということかもしれません。

ルールや約束を守るべきだという
規範意識、道徳意識が
現代の中学生などの子どもには、
いじめに転化する可能性があるということなのだと思います。

それだけ常に心理的に圧迫されているのが
現代の中学生の実態なのでしょう。

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