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「自己有用感」の概念整理とメリット、いじめ防止概念としてのデメリット [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


1 「自己有用感」の概念

  現在いじめ防止について、各自治体で取り組みを強めている。
  その中で、いじめ防止に有用な概念だということで「自己有用感」というタームが使われることがある。このタームの仕様については、有益である側面を認めつつも、デメリットもあるのではないかということで取り上げる。
  「自己有用感」とは、日本の文部科学省管轄の中で、一部有力に唱えられている概念であり、ごく一部では労務管理理論の中でも取り入れられている。その定義は「他の人の役に立てたことによる満足感や自信」等とされる。
  この概念は、「日本型ピアサポート」という教育実践理論の中において、育てられてきた概念である。やや回りくどくなるが、説明をする。
「ピアサポート」とは、一般には、同じ困難な課題を抱えた者同士が、仲間を作り、助け合い、支え合う活動を言う。遺族の会とか被害者の会とかはピアサポートと言えるだろう。教育現場においては、これとは異なる意味で使われている。「ピア」(peer)を文字どおり「仲間」という概念で使用し、「子ども同士によって」とか、「教師や保護者を抜きに子どもだけで」という意味あいで使用している。イギリスの、ピアカウンセリングという活動から始まっていると思われる。イギリスのピアカウンセリングとは、選ばれた生徒がある程度のカウンセリング技術を習得し、下級生などのカウンセリングを行うもので、いじめ防止などの効果等を期待されるという。日本型ピアサポートの論者によると、ピアカウンセリングは、イギリスという上級生下級生の形を作りやすい伝統に適合するものであり、日本の6,3,3制の学校制度にはなじまないこと、カウンセリング技術の習得が困難であること、一部の優秀な生徒だけが恩恵を受けるということ等から取り入れられないと批判している。そして、カウンセリングではなく、共同活動の中で自己有用感を獲得することを目指した、日本型ピアサポートという活動を行うこととした。ここでの共同活動とは、異年齢交流、職場体験、地域交流等とされている。
  自己有用感の周辺概念は、自己肯定感、自己効力感がある。これらの概念との違いを述べる必要がある。
  自己肯定感とは、自己否定の対義語で、自己の存在等を肯定する概念である。現状に対する満足、安心感、生まれてきたことの喜び等が含まれる。自己肯定感と自己有用感の違いは、自己有用感とは他者とのかかわりの中で獲得したものであり、他者から与えられたものではなく自分で獲得した感覚であるというところにある。概念的には、自己有用感は、自己肯定感を獲得するための一つの手段と位置付けられるべきであると考える。
  自己効力感との違いも簡単に触れる。自己効力感は何らかの課題、目標を立てて、それを実現することによって得られる感覚であるとされる。違いは、自己有用感は他者とのかかわりの中で獲得するというところにある。
  自己有用感という概念は、教育上一定のメリットのある概念であると思われるが、極めて狭い範囲でのみ流通している概念である。

2 「自己有用感」のメリット

  人間の安定した精神状態が、他者との特に仲間の中での自分の存在の状況を反映しているということに着目している点は卓見だと感じる。このような自己有用感を獲得することによって、精神的安定の獲得に資することは間違いない。また、知識を詰め込む方法ではなく、体験を通じて獲得するという点にも魅力を感じる。
  また、自死リスクに関するこれまでの議論とも整合する。「役割意識の喪失」が起こると自死リスクが高まるという議論がある。例えば、勤労による収入で家族を支えていたという自負のある者が、リストラにあったり、会社が倒産したり、自らが健康を害したりして失職をすることによって、役割意識が失われ、自死リスクが高まるというような形で使われる。自己有用感は、役割意識の喪失の対義語的な概念だとすれば、これまでの議論に整合する。

3 「自己有用感」獲得過程への疑問

  自己有用感発生の活動として、異年齢交流、地域交流、職場体験が指摘されているが、教育関係の議論がよくわからないためか、私には理解が難しい。
異年齢交流は、昭和の高度成長期のあたりには普通に見られた、地域での異年齢の子どもたちの集団的な遊びのことを言うと思われる。確かに年長者は、年少者の面倒を見て、秩序をもって遊んでいたことは私も体験している。しかし、その中で、本当に自己有用感を獲得できていたのかについては疑問もある。通常みられる異年齢集団は、小学校低学年以下の小集団であると思われるが、この時期の年齢差は、力の違いに顕著にあらわれ、力の強い者に力の弱い者が従うという秩序も一方であった。また、面倒を見ている年長者は、同年齢の者たちと対等に付き合えない者が自分より低年齢で、言うことを聞く者たちを束ねていたという側面もあった。下の子どもたちは、年齢の上の子と遊ぶ楽しさ、実年齢よりも上の自分を体験した充実感もあったが、理不尽な扱いに我慢を強いられたということもあったと思う。必ずしも、積極面だけがあったわけではない。
  異年齢交流によって、仮に自己有用感が得られたとしても、それによって同年代の子どもたちのコミュニティーに有益な効果があったかということについて得心は行かない。小学校のいじめ事件で、低学年の児童に対して面倒見の良かった高学年の児童がいじめにあったという事件もあった。低学年との交流の中で自己有用感を獲得していたとしても、それがどこまで効果が持続するのかも疑問だ。いじめの加害、被害の中でそのようにして獲得した自己有用感が何かの役に立つということについて、もう少し丁寧な説明が必要だと感じる。異年齢交流よりもむしろ自己有用感論者が指摘する、昔の子どもたちが、親の手伝いをして、家庭の中で役割を果たしていた、そこで自己有用感を持ったという主張の方がよく理解できる。
  職場体験や、地域交流が自己有用感を獲得することに有効であるということは、自分の子どもたちの職場体験や地域行事への参加の様子を見てもよく理解できないところである。職場体験などは、特にその職場によって体験内容が異なる。地域の大人たちへの尊敬や、実際の職場の理解については有益な体験だと実感できたが、自己有用感と結びつくということは感じられない。地域交流について、夏祭りなどの参加をもって自己有用感を獲得するとする主張があるが、これは全く理解できない。地域交流の中で、低学年の児童を高学年の児童がお世話をするという体験を通じて、自分よりも弱い者に対していたわるとか、支えるという体験は貴重だと思うが、自己有用感という概念が必要だということは理解できない。
  また、自己有用感概念はピアサポートの議論を前提として論じられているため、ピアサポートの形態が自己有用感の概念にも影響を与えている。ピアサポート論者は、自己有用感は、大人が与えてはいけない感覚であると主張する傾向にある。
  例えば、論者は、褒め育てとの違いを強調する。褒め育てで獲得した自己肯定感は脆弱であると主張する。私は、この点は、大人が子どもの何をほめることが有効かという議論に置き換わらないものかと考えている。つまり、無条件の自己肯定感に対応をするようなほめ方、つまり根拠のない褒め方で獲得した自己肯定感は脆いところがあるかもしれない。しかし、子どもが何かできた時に、その行為と結果、あるいは行為ないし努力に対して肯定的な評価をすること、特に他者とのかかわりにおいて役割を発揮したことに対する大人の肯定的評価は、子どもの自己有用感も育むのではないかと感じている。要するにピアサポートの場面以外においても、本来自己有用感は獲得できるのだと思う。大人たちの関与失くして自己有用感を獲得できるのかについては極めて懐疑的である。
付言すると、子どもたちが家庭の中で役割を与えられないということは、このような役割に対する親の肯定評価を受ける機会が少なくなっているということかもしれない。
まとめると、論者の言うように、自己有用感は、理屈通り獲得できる物なのかということに疑問がある。特に自己有用感を普及しようとする論者が直接子どもを指導する場合を想定することはできず、自己有用感プログラムは実際の教師が実践するということを考慮した場合を想定しなければならない。また、地域交流などにおいては、教師が関与しないことも想定しなければならない。自己有用感の追求は、果たして時間や労力という費用に見合うものなのかを検討する必要があるように感じられる。

4 「自己有用感」概念をいじめ防止のツールとすることの危険性

  自己有用感の概念は、危険性をはらんでいる。自己有用感概念は、自己肯定感を獲得する方法としては意義があると思う。但し、自己肯定感についても、自己有用感の追求抜きにも獲得することもできる。たとえそれが脆い物であっても、繰り返し自分が尊重されているという体験を通じて、自己肯定感を獲得し得る。家族など基盤となるコミュニティーにおいて自己肯定感を獲得することは、家族をはなれた他者とのコミュニケーションにとっても有効に働く。
  このような自己有用感の獲得の中で、特に自己有用感を優先させて実践することについては、以下の危険性ないしデメリットを考えなければならないはずだ。
  問題点の第一は、自己有用感を獲得する条件として「誰かの役に立たなければならない」という思考、あるいは「有用なものだけが精神的安定の獲得が許される」という思考に陥る危険があるということだ。
  これは、子ども人権や子どもが学校という公的な人間関係の中で自分が尊重されていると感じる条件として、他者との中で有用でなければならない、他者の中で評価される行動をしなければならないというものを競ってしがちになる危険があるということだ。
現在、政権与党の議員から、例えば憲法を改正して、生まれながらに権利を有する天賦人権説を排斥しようとか、義務を履行した者が権利を行使できるとか、個人よりも国家が尊重されるべきだなどという発信がなされて物議をかもしている。これらの考えは、世界標準の人権概念と相いれない。日本国憲法にも反する内容である。法律家とすれば、驚愕する内容であり、良識を疑う主張であると感じる。
これらの考えは、権利や安心を獲得するためには、バーターとして他者の役に立つことをしなければならないという考え方に親和してしまうのではないかという不安が半ばを過ぎる。
このような懸念は国立教育政策研究所のリーフの記載内容によってより高まる。リーフにおいて「自尊感情」よりも「自己有用感」の育成を目指す方が適当だと明示している。この根拠のひとつとして、自己有用感の育成過程において規範意識の重要性を組みこんで育成を行うことができるという趣旨が記載されているからだ。
  ここでいう規範意識の内容や規範意識を持つための方法論などデリケートな問題がある。規範は多義的な性質をもつ内容があるからだ。例えば、「人を傷つけてはいけない」というものも規範である。これは、自然な感情と合致する規範である。しかし、行政法規、例えば建築基準法上の建物の高さを守らなければならないという高さは、きちんと法律の知識を獲得しなければ得ることができない。このように規範には自然規範というべき規範と法定規範とでも言うべき規範がある。私は、児童生徒の段階では、学校生活のルールを守るということについては、ルールである以上守らなければならないという規範意識(最小限の規範遵守の意識)を持つことは、学校運営の実務上必要なことであると思っている。しかし、いじめを防止するための規範意識を育む教育が、このように自分の感情から離れた規範、あるいは感情が追い付かない規範を無条件に守るという行動を要請するものであっては、あまり効力を期待できないと感じている。禁止事項を増やせばいじめが無くなるというものではない。必要な教育は、自然規範がなぜあるのかという規範や道徳の心とも言うべき点であり、これが相手に対する思いやりであり、相手の苦しい気持ち、怖い気持ち、寂しい気持ちなどに対する共鳴、共感の心を育むことであると私は思う。リーフレットが言う規範意識の重要性を組み込んで育成を行うという意味が、社会的に守らなければならないことを守ることを条件としてのみ得られる自己有用感の獲得を追求するということになってしまうと、日本国憲法や教育基本法などの教育主体が律せられる国家規範に反することとになってしまうという懸念が払しょくできない。
  問題点の第2は、自己有用感を獲得できた子どもたちとできないことどもたちの格差を、子どもたちが感じてしまうのではないかという危険があるということだ。
  例えば、実際の中学校の例で、グループに分かれ、それぞれグループの構成員の良いところを3つずつ発表するという指導がなされていた。クラスのリーダー格の生徒は、他者から、役に立つ点を指摘され、誇らしい気持ちになった。ところが、いじめを受けていた生徒は、全く評価されないという攻撃を受け、あるいはとるに足らないところを、例えば給食を残さないで食べる等、指摘されるにとどまった。自己有用感の授業が新たないじめの場に使われてしまった。この授業も大きな原因となり、対象となった生徒は長期不登校となった。
  いじめというまで極端な例がなくとも、また、発表しあうということをしなくても、大人の視点にしろ、子どもの視点にしろ、役に立つ、活躍する子どもと、そうではない子どもの格差が自己有用感獲得のための授業をすることによって際立ってしまうという危険性は常に存在する。これは、自己有用感が他者とのかかわりの中での評価にまつわる感情であることから、不可避的につきまとう危険なのである。
  しかし、自己肯定感の獲得や人権教育の観点からすると、このような格差を子どもたちに共有させることは問題が大きい。無駄に役割喪失感を掘り起こす危険があるからだ。人の役に立たない人間であると子どもなりに評価してしまうことは、いじめの危険も作ってしまう。
  もっとも、自己有用感を主張する論者も、子どもが役割意識を持たなくても自己肯定感を持つことを否定しているわけではないだろう。しかし、現実の実践の場面においては、自己有用感の獲得を追求し、その他の方法での自己肯定感獲得の努力をしなくてもよいのだというようにとられかねないということである。  
5 まとめ
  以上から、「自己有用感」概念は、うまく獲得すれば、自己肯定感、自尊感情獲得に有益である側面がある。しかし、実際の教育現場においての獲得過程においては不透明であり、かつ地域などとの連携には課題が大きすぎるように思われる。また、他者との関係での役割を果たすこととバーターとして獲得できるものだとすると、大いなる取りこぼしが起きるのではないかという不安と、果たした役割の程度の問題によって自尊感情が低下する子どもが生まれたり、いじめの口実になったりする不安が払しょくできない。日本型ピアサポート論者が、イギリスのピアカウンセリングに対する批判(実践のための技術の困難性と、一部の者に対する恩恵)が、結局自己有用感獲得概念にそのまま当てはまるのではないかという疑問がある。現段階においては、少なくともいじめ対策に限定して考えた場合、自己有用感の獲得を基軸とすることは時期尚早ではないかと思われる。

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