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なぜ「人権派弁護士」は誤りを犯すか。福岡殺人教師事件、長野殺人告訴事件、吉田ますみ氏のルポを題材として  共感チャンネル理論1 [進化心理学、生理学、対人関係学]

現在、版を重ねて事件後の追録を載せて、
吉田ますみ氏の新潮文庫「でっちあげ」が
平積みで売り出されています。
この事件は、福岡市の中学校の教師が
生徒を差別して自殺教唆をした
全国の初の教師の生徒に対するいじめ事案ということで、
マスコミでセンセーショナルに扱われ、
裁判にもなっています。

しかし後に、そのほとんどが虚偽事実に基づく
ものであることが明らかになったのですが、
数百人の弁護士が虚偽の事実に基づいて
教師を攻撃した保護者の代理人に名を連ねた事件です。

長野県の事件は、高等学校の事件で、
不幸にも生徒さんは自死をして亡くなっています。
テレビドラマ「明日の約束」のモデルになったと言われている事件です。
吉田氏の「モンスターマザー」新潮社で
詳細なルポルタージュを読むことができます。

この事件でも、民事訴訟が提起されているのですが、
1審判決で生徒の自死の原因は学校にはないとされ、
控訴が取り下げられるという経過をたどっています。

いずれも弁護士がかかわっている事件です。
それも「人権派弁護士」と言われるまじめな弁護士が
虚偽の事実に基づいて
結果的には罪のない人を追い込みました。

なぜこのようなことが起きたのか、
考える必要があると感じました。

ところで、唐突ですが、
私は人権派弁護士とは呼ばれたくありません。
弁護士は人権擁護と社会正義の実現のための職業ですから、
「人権派弁護士」というと、冷たい氷とか、飛ぶ飛行機のように
屋上屋を重ねた表現になってしまいます。

ことさら何かを強調したいけれどはっきり言わない
そんなもどかしい違和感もあります。

ただし、
半世紀前の偉人とも呼べる弁護士が
人権派弁護士だと言われていたことは理解できます。

当時は、(半世紀前)
人権を侵害する主役は国家であるということが
強いコンセンサスがあった時代です。

冤罪事件を典型として、
人権侵害をする国家権力と
人権侵害をされる少数派の個人
という風に図式化できたようです。
戦前の思想弾圧等の残像が強かったという事情もあるでしょう。

ポイントとしては
加害者対被害者という二項対立の図式の中で
弱者保護のために徹底した反撃をする
これらができることが正義だったということになると思います。

時を下っていくと、
このような図式が曖昧になってきます。
人権侵害をするのが巨大企業だったり、マスコミだったり
国家や自治体によって、人権救済ないし
人権の普及啓発活動が不可欠なものとして行われるようになっています。

また、一般の人同士が
インターネットによって第三者を巻き込むことによって
加害者と被害者が入れ替わることがおきることもある時代です。

単純な二項対立による事案の理解と行動では
紛争が拡大していくだけで、
罪もない人たちが損害を受けるということも
多くなっています。

例えば学校で、
二つの事件のように
教師がした行為に見合わない
苛烈な制裁を受けるということは
私も現場で目撃をしています。

例えば家庭の中で、
暴力も脅迫もないのに
精神的DVを受けたということで、
夫が公権力によって
いわれのない不利益を受けるということも
また多く目撃しています。

この私の記事の内容は、
そういういわれのない加害行為に関与する
弁護士を批判する結果となってしまうのですが、

ルポに出てきた弁護士や
人権派弁護士を批判することが目的なのではありません。

むしろ、吉田氏のルポに登場する弁護士の中には
人格や仕事ぶりにおいて、今なお敬愛する先輩もいらっしゃいます。

私自身、弁護士になりたてのころは
他者から見れば人権派弁護士に映っていたこともあったでしょう。

だから自分への自戒を込めた考察であり、
自分たちすべての弁護士に起こりうる事柄として
エラーを防止するという目的の元考えたことを述べるものです。

ちなみに、ウィキベディアの人権派の項目については
早急に修正が必要であるということもついでに述べておきます。

さて、二つの事件は、共通の要素があります。
先ず、
ほとんど(全く)落ち度がない教師が、保護者から攻撃される。
攻撃は虚偽の事実を作出して行われる。
マスコミがそれを取り上げる。
保護者に弁護士がつく。
裁判になる。
保護者の主張の大部分は裁判によって否定される。
ということが根幹です。

その他に、
保護者の加害行為の論拠として
資格のある医師の診断書が提出される。
その診断書の信用性は裁判によって否定される。
保護者側でかかわった人たちの反省の有無や内容は不明
ということも共通しているようです。

なぜ人権派弁護士、マスコミ、医師は、
攻撃者の虚偽の主張に加担したのでしょうか。

間違いをした3者に共通の要素があります。
それは正義感であり、弱者保護の意識です。
これを増強した要素はそれぞれの職業によって異なります。

マスコミは、
弱者保護を名目として強者を攻撃すること
しかもこの図式を分かりやすく提示することで
国民受けが良いこと、部数や視聴率を増やすことを
よく知っています。

私の依頼者に対する報道などを見ていると
この図式を鮮明にするために
実際の細かい事実関係は削ぎ落して
容疑者に不利な部分を強調して報道するし、
独自に裏をとることなく一方の主張(警察発表)を報道する
ということがあるように感じています。

医師は、職業柄
目の前に来ている患者の保護が職務内容です。
診断基準に適合しない診断書を作成することによって、
第三者が傷つき、損害を被っても
その傷つく表情を想定することができません。
だから、医学的知見に基づいていない診断書の作成については、
それによって傷つく第三者が制御因子にはならないようです。

医師に関して、二つの事件に共通することは、
いじめられたとする少年本人の話ではなく、
母親の話をもとに診断しているということにあります。
医師は他人の話を信用しやすいという
育ちの良さも要因にあるのかもしれません。

問題は弁護士です。
およそ人権派弁護士が、
依頼者を増やそうとして無理筋の事件を
記者会見までやってやろうということは実際はありません。
また仕事柄、依頼者と対立する相手方の存在は
容易に想定できます。
紛争解決のためには細やかな想定をしなければなりません。
弁護士にはマスコミや医師の弱点がないはずなのに
どうして、事案を誤るのでしょうか。
ここが一番のテーマです。

それは、半世紀前は正義であったところの
二項対立、つまり世の中には加害者と被害者がいるという世界観
保護のための徹底攻撃
という人権派弁護士の美徳が災いしているのだということが
私の結論です。

説明のための補助線としてある理論を紹介します。
共感チャンネル理論というものが
現在構築されています。
簡単に説明すると
人間が他者の心情に共感できる能力は
極めて限定的であること。
対立する一方に共感してしまうと
対立する相手に対する共感チャンネルが閉じてしまい
あくまでも敵対する者だという認識が固定してしまうこと。
共感する対象を保護することを第一と考えてしまい、
保護対象の弱点は見ないようにし、
見てしまっても都合よく解釈しなおしてしまうこと。
敵対する相手に関してはその者の利点は見ないようにし、
弱点の情報だけを集めてしまうこと。
そして、敵か味方かという根本的態度決定は
非論理的に直感によって、一瞬で決められてしまうこと。

概要このようなものです。

そして共感ということは、最近の脳科学の成果を踏まえると、
対象者の感情を理解することというよりも
対象者と同じ感情を抱くということらしいです。
もっと厳密にいうと、
対象者が置かれている環境、
特に感情を動かす要因となる環境に
自分も置かれているように感じ、
同じような反応をすること
ということになるようです。

普通の人間は、
自分が窮地に立たされた場合、
何か言い訳を探したり、
窮地に追い込んだ相手に反撃して
窮地を脱しようとします。

おそらく人権派弁護士は、
自分が窮地に立った場合なら
言い訳したり逆切れしたりしないで
正々堂々と謝罪するなどして対処するのだと思います。

しかし、自分の依頼者が保護するべき弱者だと認識してしまうと、
保護すべき弱者の環境を共有してしまい、
自分の窮地の場合はしなかった
言い訳を探したり、逆切れして反撃してしまう
こういう現象が起きてしまうのだと思います。

その前提として、どうしても正義感が発動する時は、
二項対立の世界観が前提となってしまい、
弱者に対する保護感情を抱いてしまうと、
自動的に弱者を追い込んだものを探してしまい、
その者を加害者として敵対感情が募ってしまうようです。

あとは、共感してしまった弱者に都合の悪い事情は薄く、
加害者の都合の良い事情も薄く、
弱者の都合の良い事情は過度に濃く、
加害者の都合の悪いところも過度に濃く
評価してしまう図式にはまり込んでしまうようです。

この事件は正義のための事件だとか
社会的に意義がある事件だとか言って
報酬をもらわないとか、
報酬をごく少なくして事件を引き受ける場合が
人権派弁護士にはありがちですが、
そういう事件こそ要注意な事件になるわけです。
共感が強くなりすぎてしまい、
依頼者の不正に加担している可能性がある事件類型だ
ということになります。

吉田氏のルポでは、弁護士が
不利な証拠を事前に見ないままで事を起こしたような記述もあります。
事案をよく知らないで多くの弁護士が代理人になった
ということも紹介されています。
うっかりすると私の名前もあるかもしれないし、
私の知り合いの名前は多数あるでしょう。

全く見なかったかどうかはともかく、(それはないと思う)
十分な検討ができていなかったことは事後的にはよくわかります。

私も大先輩から(この方は押しも押されもせぬ人権派弁護士ですが
おそらく誤りをしないタイプのスーパーマンです。
半世紀前の人権派弁護士はこういうタイプが多く
現代の人権派弁護士とは少しタイプが違います。)

依頼者が困った困ったと
盛んに窮状を訴える事件は注意するようにとか
逆に感情移入できないからといって事件を選ぶなとか
結論としては、共感チャンネル理論に基づいたような
アドバイスを受けたことを思い出しました。

冷酒とオヤジの説教は後から効いてくる
とはよく言ったものです。

感情移入による誤りを防ぐための方策をまとめます。

1 二項対立の図式で人間関係を見ない

一般の人同士の対立の場合は特にそうなのですが、
正義と悪、加害者と被害者
という図式ではみてはならないのでしょう。

学校悪、生徒善という図式が本件ではできてしまったのですが、
それは結果としてそうなるかもしれませんが、
慎重な評価を踏まえなければならないでしょう。

もっと複雑なことはDVや虐待です。

例えば夫をDV加害者にしたり
親を虐待親だと決めつけることは
実際の出来事をリアルに見ることを不可能にしてしまいます。

一番の問題点は
結局誰も救われなかったということになることです。
目黒事件については、
多くの善良な人たちが、
虐待死を防ぐためだと言って
家庭の中に警察や役所の介入の余地を広げることを
どさくさに紛れて推進してしまいました。

そのことのデメリットなど
何の検討もしていないのです。

2 敵だと思う人間に共感チャンネルを開く

当初は、自分の依頼者に対する共感チャンネルを
絞って狭くするということを考えていたのですが、
なかなかそれは難しいことです。

むしろ相手に対する共感チャンネルを開くことが
実務的な対処方法だと思います。

どうしてあの人はこういうことをしたのだろうか
あの人なりの合理性とは何か
ということを考えることです。

これは、しかし、
勝負事一般の鉄則だと思います。
相手の立場に立って、相手が何を考えているのか
ということを推測することによって、
相手の弱点を打つということですから、
勝利にとって必須の思考でしょう。

対人関係的には勝ち負けは入りませんが、
解決に向けての王道になることも間違いないと思います。

敢えて敵に共感してみるということです。

これは、その時の勝負だけでなく
トラブル予防にも大きな効果が期待できます。
相手に賛成することは必要ではありません。
「ああ、そういうことを考えてしまうことも
 あるのかもしれないな。」とすることが理解です。

これは通常の弁護士ならば経験があることです。
刑事弁護がまさにこれです。
罪を犯した人がなぜ罪を犯したのか
これが理解できなければ刑事弁護は始まらないかも知れません。

この二つが当面の戦略です。

余談ですが、
福岡の事件の場合、弁護士が謝った原因の
大きな要因が、
クレームに対する校長や教育委員会の対応のまずさです。

事実関係を曖昧にしたまま
とにかく激しいクレームを抑えようと
いい加減な事実認定をして謝罪をさせています。

この結果傷ついたのが
当の生徒本人であり、
その一部始終を見ていた同級生たちでした。

教育委員会の不十分な事実認定は
判決にも影響を及ぼしています

私もクレーマー対処法などの講演をするのですが、
毅然とした対応は
クレーマーに対する共感チャンネルを開いたところから
始まるものです。
自己防衛が最初に来てしまうことは
判断を誤ります。


このお話はいずれまた。

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