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なぜ、自死を考えている人に「死んだら負け」と言ってはいけないか。励ますことの危険性を知らなくてはならない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

似たような言葉に
「死ぬことを考えれば何でもできる」とか
「親が悲しむから死ぬな」とか

善意なのでしょうが、
これは人を苦しめるだけの言葉です。

苦しむのは
今死にたいと考えている人、
自死した人の遺族、
そして自死した本人です。

考えてもみてください。
今自死を考えている人に
「死んだら負けだよ」と言って
「ああそうだ、そのとおりだ
 死なないで頑張ろう。」
となることをイメージできますか。

ただ、例外的にどんな言葉でも力になることがあります。
同じ目線に立って、一緒に苦しさを共有している人です。
自分を理解してくれる人の言葉は
言葉の内容を超えた力があります。

そうではない通りすがりの人が
「頑張れよ」ということは
悩んでいる人に大変つらい気持ちを浴びせて
こらえる気持ちを消耗させることになります。

自分が理解されていないという絶望感と孤立感を
強烈に与えられてしまいます。
「こんなにギリギリ頑張っているのに、
もっと頑張れと言うのか
自分はもうこれ以上頑張れないのに」
ということになるわけです。

自死したい人たちの気持ちは
命を無くすということが目的ではないのです。

目の前に解決できない問題があり、
それをどうやって解決しようかと思い悩むわけです。
解決できないことを考えると心配になります。
どうしても解決しなければならないという気持ちが徐々に
今いる場所から助けてほしいという気持ちになります。

ところが、今いる状態から抜けられる方法がないと
「何とか、この不安から解放されたい」
という要求が大きくなります。
そして、その方法がないと絶望していきます。

「誰も自分の味方はいない」と考えていくのですが、
それは真実ではなく
悲観的なものの見方に病的に支配されているからです。

実際の事件を見ると
手を差し伸べている人はいるのですが、
助けだとは感じなくなっていることが多いようです。

そもそも生きるために危険を回避しようとするわけです。
これは、危険情報を理解し、その危険を回避しようとするわけです。
例えば、刃物を持った人がうろうろしているのを見たら
その人に見つからないように別のところに逃げる
できるだけ遠ざかるという行動をします。

刃物を持った人がいることを視覚的に確認する
  ↓
危険だと判断する
  ↓
危険回避行動(別の道に逃げる)

という理解が一般的なようです。

しかし、実際はどうやら
刃物を持った人がいることを視覚的に確認する
  ↓
危険だと判断する
  ↓
危険を回避したい(不安を解消したい)  ↓
危険回避行動(別の道に逃げる)

という
「不安を解消したいという意識・意欲が生まれて
それで初めて危険回避行動に出ることができる」
と考えるべきであるようです。

いずれにしても命を守り
生き抜くためのシステムです。

生き続けるために不安を解消したいのです。
これは通常では、つまり
人間が生きていくために通常想定された範囲では
危険を回避するとても優れたシステムです。

ところが、不安を解消したくても
その方法がないということになると、

「何もできなくなる=凍りつく」という現象を起こします。
それでも、不安解消要求は高まります。
生きていたいからです。

不安解消行動が高まるのに
その方法が見つからない
これを絶望感と呼びます。

そうすると、人や状況によって異なるのですが、
とにかく何でもよいから不安を解消することだけ
それだけが最大かつ唯一のテーマになってしまいがちになります。

本当は生きるためのシステムであるのに、
生き続けたいという要求よりも
不安を解消したいという要求が
大きく前面に出てくるわけです。
要するに、
「不安が解消できるならば死んでもよいや」
という気持ちになるということです。
本末転倒なのですが、
そこまで追い込まれているということです。

だから自死を考える人は
「死ねばこの不安から解放される」
と思うので、自死という手段を思いつくと
仄かに明るい気持ちになるそうです。
追いつめられるということはそういうことのようです。

そうして、追いつめられつづけて精神的に破たんしてきたり、
(病的な精神状態になったり)
睡眠不足や向精神薬の影響で
冷静な判断をする力が奪われていくと、

死ねば楽なるという気持ちではなく、
「自分は死ななければならない」
という強迫観念にとらわれるようになることがあります。

自死をする人は
第1希望は生き続けたいわけです。
そのために不安を解消したいという要求が生まれ、
それがいびつなほど大きくなりすぎて
本末転倒になるわけですから、

通常想定された追い込まれ方ではない
極めて異常な追い込まれ方をしている
という言い方ができるでしょう。

自死を考えている人たちは
死にたいのではなく、強く生きていきたいという要求がある
それなのに、生きていくための
不安解消方法が見つからない

他人から頑張れと言われなくたって
本人は頑張って頑張って、それでも答えがでない
という状態に追い込まれないと
死にたいとは思わないわけです。

この状態になった人に
抽象的に「頑張れ」と言っても
「死ぬくらいなら何でもできる」と言ったって
「もっと頑張れ」としか聞こえないし
それは、
「もっと苦しめ、もっと不安になれ」
ということと同じなのです。

さらには、
「お前はダメな奴だ」
という強烈なメッセージになってしまいます。
それは「生きる資格がない」ということと同じです。

一方で立ち直る力を消耗させるとともに
死ぬことを怖くなくする効果が生まれてくるのです。

逆療法、ショック療法は極めて危険です。
叱咤激励は危険なのです。

善意だからと言って容認することはできません。
マスコミも無責任に発言を増幅させてはいけません。
発言者を責める気持ちではなく、
止めていただきたいという気持ちです。

人間も生き物です。
本能的に生き続けていたいのです。
それを放棄するということは
よほどの精神的状態であることを
十分理解していただかなければなりません。



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10分で話す家庭の中の子どもの人権 子育てで最優先するべき一つのこと [家事]

こういう事態は避けるべきなのですが、
事情があって10分で家庭の中の子どもの人権を
語らなければならないことになりました。

とは言っても、
時間をとって、くどくどと説明したから
相手に伝わるかと言えばそうでもなく、
どんなに話しても心に残るのは
それほど多くないとは思うので、
一つの修行だと思って準備をするわけです。

この記事がそれなのですが、
今担当している事件の主張文にもつながるので
前向きに頑張っています。

先ず、人権を語るということは外せません。
ただ、これをくどくどと説明すると1年講義でも終わりません。
ここでは結論だけ。

「人間が長い時間をかけて作ってきた
 共同生活をするための工夫」
という程度にとどめておきましょう。

人権が侵害されると、
人間は、他人の中で生活することが苦しくなるわけです。
そういうものが人権とも言えますね。

家庭の中の子どもの人権、
特に家庭の中の人権ということは
概念的にとても面白いのですが、
国家権力概念をどのように反映させるかとか
この辺は全て省略しましょう。

ただ、子どもが家庭の中で健全に成長する
「健やかに育つ」の方がよいでしょうかね。
そのために親がやるべきことは何か
ということでよいかもしれません。

ここで「港の理論」に行きたいのですが
なにせ10分ですからつながりを気にしていてはいけません。
強引に話を進めることになります。

幼児が歩き始めて、
歩く距離をどんどん伸ばしていくわけです。
これは、親から離れていくことにもつながるわけですが、
最初は、親に背を向けて歩き出すだけで不安になります。
直ぐに振り返って親がいることを確認して、
また歩き出します。
振り返って「もと来た道を戻れば必ず親がいる
という安心感」があるからこそ、
思い切って遠くまで歩いていくことができるわけです。

これは、精神的にも、あるいは社会活動の意味でも同じだということ、
学校や、塾や、地域や、さらには職場と
子どもは成長するにつれていろいろな集団に所属します。

親が自分を受け入れてくれる
あるいは「自分には帰るべき家族がいる
という安心感」があるからこそ
家庭をはなれて、活動をすることができるわけです。

親が子どものためにしなければならないことは
この、
「自分には帰るべき家族がいるという安心感」
を与えてあげることなのだと思います。

どうやったら良いのか?
安心感とはどういうことか?

ここはいろいろと理屈を言えれば説得力があるのですが
やはり結論を示すだけ。

いつまでも仲間として扱われるということです。
仲間はずれにされないということが安心感です。

これと反対なのは、
テストで100点取れなければ家から出て行けとか
スポーツチームのレギュラーになれなければだめだとか
どこの幼稚園に入らなければどうのこうのか
仲間でいるための条件を課せられないということです。
もちろん虐待があったのでは安心できません。
仲間はずれの危険フルスロットになります。

友達といざこざがあっただけで
簡単に天涯孤独を感じるようになってしまいます。

では、仲間として扱うということはどう言うことでしょうか。
「どんなことがあっても見捨てない」ということのアッピールになると思います。
でもその言葉を繰り返しても仕方がありません。

私が提唱しているのは、
「弱点、欠点、不十分点を
 責めない、批判しない、笑わない」
逆に、自分のことのようにフォローするということです。

これは親が赤ん坊にやっていることそのものなのです。
成長に合わせて形を変えて行うということです。

帰るべき家庭があれば
子どもは強くなります。
自己肯定感が出てくるわけです。
いじめにも強くなるし、
成績も上がってきます。

ただ、虐待をしようとしているわけではないし
虐待とまでは言えないけれど
どうしても子どもに八つ当たりをしてしまう。
辛く当たってしまう
という悩みは誰しも持っています。

こういう時、子どものことばかり考えていると
どうしてもそこから抜け出すことはできません。
自分と子どもの関係を
幽体離脱でもしているように天井から見る
ということをお薦めしています。

自分も含めて関係の中で子どもを見るというか

そうして自分の気持ち、子どもの気持ちを考えてみる
ここでは平等に考えてみる。

そうして、自分の行動を修正するべきだと考えるならば
一人で解決しようとしない
多くは、子どもとの時間が長すぎて
他の人と過ごす時間、自分の時間が無くなっていることの焦り
ですから、

子育てを誰かに時間だけ預けてしまうということが有効です。
子どもの父親が先ず考えられますし、
自治体の子育て支援も良いところが多いようです。

実は離婚していて子どもの父親と同居していない
という場合でも、
近くに住んでいるなら子どもを預けてしまう
養育費だけではもったいないということですね。

急な延長保育も無料で(喜んで)対応してもらえるし、
娯楽の提供を受けたり、ご飯も食べさせてもらえるし
お土産までついてただ
シングルマザーこそ賢く生活しましょう。

相手に子どもを会わせるのは嫌だって言っている
余裕のある人はそれほどいないというのが実感です。

子育てをなるべく一人で行わない
これが人間が他の動物と一番違うことです。

この内容を詰め込んで10分
それ以上は話さないという決意が必要かもしれません。

質問があれば
かわいそうと思う心が育つということも
お話ししたいのですが
いかんいかん
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