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仲の良い家族関係は自死から守る事情になると同時に、自死を促進してしまう事情にもなる。知らない人が自死者の家族を非難することが犯罪的な理由。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




自死が起きると、
特に子どもが自死すると
ネットなどの書き込みに訳知り顔で
親が放置していたのだろう等と書き込みをする人がいる。

「自死の理由は一つではない」とか言って
親子関係にも問題があったはずだなどということは
余りにも愚かしく、自分の無知をさらすだけだ。
自死のメカニズムが複雑なことを説明しないで、
「自死の理由は複数ある」と断言することは
このような危険性がある。

一口に自死の理由と言っても
自死を考えるまで追い込まれた理由と
そこから自死の考えを無くすために機能しなかった理由では
意味合いがまるっきり違う。
説明を抜きに自死の理由は複数あるなんて言う説明は、
その人を追い込んだ理由を薄めてしまう。

自死の原因を家族に求める安直な人たちは、おそらく、
「自死する場合は、その直前に
これから自死しますよというなんらかのサインが出ていて
家族ならそれに気が付くはずなのに
それを見逃したから自死を止められなかった。」
なんて馬鹿なことを考えているのだろう。

だから、自死のサインを見逃さないように
何がそのサインなのかわかるように一生懸命勉強するのだろう。
こんなことに血眼をあげているから
自死予防を困難にさせる原因になっている。

自死のサインなんて死んでからしかわからない。
それもこじつけのような話であることが多い。

自分は関係がないのに、しかも自死について知らないのに
自死遺族を非難するのは実は理由がある。
自分を守るためだ。

自死の事実があったことを知ると、
大抵の人は事の大きさ、深刻さを精神的に持て余してしまう。
病気で死ぬことはある程度納得することができる。
しかし、病気でもないのに死んでしまうことは
それは誰しも脅威である。

脅威、危険を感じてしまうと、人間は、
とにかく自分や自分の家族に自死が起きないようにという
防衛意識を無意識のうちに抱いてしまう。

自死のメカニズムや、その人の具体的な悩みなんてものは
残された人はなかなかわからない。
説明してもすぐには理解できない。
そうなると、同じことが自分や家族に起きないということを
どうにか納得して安心したくなる。
誰かに落ち度があることを声に出して言い聞かせて
自分はそうではないと安心しようとしている行為のようだ。

遺族を苦しめて、
自分が安心したいという行為なわけだ。

そうでなければ
自分がその人を自死に追い込んだと自覚している者が
別に原因があると他者を責めて、
自分が責められないようにして
ムキになっているかどっちかのことが多いようだ。

親子関係については、
自殺対策の専門家の方々でも
誤解をしている向きがあるように感じてならない。

現在専門家が自殺対策を考える場合、
「自死の「保護因子」を増やし、強化し、
自死への「危険因子」を減らす」
という一件もっともな考え方が示されることが多い。
医学的用語がまだまだ頻繁に用いられている。
あたかもがんの保護因子を増やし危険因子を減らす
という文脈のごとしである。

この二者択一的な考え方の最大の問題点は
評価を誤りやすく
逆方向の働きかけをしてしまう危険がある
ということだ。

ある局面においては保護因子になるが
ある局面においては危険因子になるものがある。

だから局面を間違えると、
支援者たちが自死を促進させてしまっていることがありうる。
例えば良好な親子関係である。

つまり、仲の良い親子関係は
自死を防ぐ場合もあるが
自死を後押ししてしまう場合もある。

どちらかというと自死を後押しすることが多い
と感じる。

逆に、仲の悪い人間の顔(例えば姑)を思い出して
自分が死んだらあいつを喜ばせるということに気が付き、
自死を思いとどまったという例もある。
本当に直前、ギリギリのところで命拾いをした実例である。

なぜ、仲の良い家族の存在が
自死を後押ししてしまうか。

おさらいとして自死のメカニズムを確認する。

主として対人関係の危険となる事情を認識
  ↓
危険と感じ、不安が募る
  ↓
不安を解消したいという要求が生まれる
  ↓
不安解消するための行動を行う
  ↓
不安解消をする行動が見つからない
  → 絶望感、孤立感
  ↓
不安解消要求の著しい肥大化
  ↓
不安さえ解消できれば死んでも良い
  ↓
死ぬことが「希望」となる
  ↓
自分は死ななければならない

という過程をたどる。

不安を解消する行動を探すとき
家族に相談ができれば
確かに自死を実行することが少なくなるだろう。

しかし、追い込まれた人は
家族に相談することができない。

原因はいくつもある。

1 家族に心配をかけたくない
2 追いつめられたものの心理としての孤立感が
  他者へ頼る発想を奪う
  (追いつめられると、自ら孤立していってしまう。)
3 同様に相談しても無駄だという悲観的な思考を産む
4 自分受けている辱めを家族に伝えることが
  家族に申し訳がない。
  自分が情けない人間であることが
  家族に申し訳ない。
5 家族から励まされることを想像してしまうと
  とても耐えられない
6 家族に、これまで通り普通に接してもらえなくなる

もともとそれほど仲の良くない家族関係であれば、
「自分が今苦しんでいるのはお前のせいだ」
と責任転嫁することができる。
自罰意識をそらすことができることは大きい。

仲の良い家族の場合
こういう責任転嫁の言葉を吐くことによって
家族を傷つけることを恐れてしまう。
もともとそういう発想にはならない。

家族が大切だからこそ
自分が苦しんでいることが重荷になって行く。


その他にも苦しんでいることを
家族が気が付かない理由はいっぱいある
長時間労働や単身赴任で
そもそも家族と顔を会わせない。

家族の元にいる時は安心しているので、
不安な様子を見せない。
不安な様子があっても務めて家族の前では
平気なそぶりをしたり、笑い顔を作ったりする。

これはとてつもなく精神的エネルギーが必要で
家族の前でごまかすと
その後の大半は寝て過ごしたくなるくらい
消耗しきっているとのことだ。

当然、きちんと考えることも
正当に評価することもできなくなり、
こらえる力も無くなり
自死が促進されていく要因になる。

しかし、まだ訳知り顔でいう人が出てくるだろう

「家族の仲が良いならば
学校や職場で嫌なことがあっても
家に逃げ込めばよいのだから
転校や退職をすればよいのだから
死のうとはしないのではないか」

これを説明するのが対人関係学の理論だが、
結論だけを述べるにとどめる。

現代の人間はいくつかの集団に所属して生活している
家族、学校、職場、職場の中でも派閥、その他
それらの集団は、相対的なものであって
本来は離脱することが可能な人間関係である。
しかし、人間の脳の理解力は
それを正しく認識することができず、
一つの相対的な集団からの離脱の危険があると
本能的に離脱を回避しようという
要求(意思)を持ってしまい、
回避のための行動を探してしまう。
こういう動物なのだということである。

簡単に退学すればいい、転校すればよいというけれど
実際にそれを検討したり決意するという精神活動は
人間が最も苦手としているのである。
追い込まれれば追い込まれるほどしがみついてしまう。
人間はそういう生き物であるようだ。

もう一言いうと、
認知心理学の定説だが、
人間の心はおよそ200万年前にできた。
この時の人間は生まれてから死ぬまで
一つの群れで生活していた。

人間の心はこの時からそれほど進化していないのに
環境が複数の群れで生活するよう劇的に変化してしまった。
人間の心、脳と環境のミスマッチが起きているので苦しい
ということになる。

このように自死予防は
実はとても難しい。
合理的に考えれば自死は防げるのだが、
合理的に考えることができない状況に追い込まれるから
自死が起きてしまう。

この理解をしないで、追い込まれている人に対して、
家族の優しい圧力
良好な人間関係力を浴びせて
自我消耗させてしまうことは
文字通り致命的な誤りになる。


自分にとって精神的に負担な出来事が起きても
深く考えることなくそれを誰かのせいにするということは
とにかくやめた方がよい。

自死者の遺書を見ると
自死者がいかに家族を大切に考えていたかがよくわかる
そして家族の具体的な状況を
事細かに知っていることが分かる。
子どもの学校行事や部活動の大会など
事細かく心配している。

しかし合理的な思考ができない状態になっているので、
「だから生き抜こう」
という結論にはならない。

自死遺族の大部分は良好な人間関係であった家族を自死で亡くしている。
自死をなかったことにしたいという不可能を願っている
自死を受け止めることのできない第三者から攻撃を受ければ
絶対的な孤立が訪れてしまう。
考えもなく遺族に責任を求める言動は
極めて危険なことであることは
落ち着いて考えてみれば当たり前のことだと
理解していただけることだと思われる。



文中で自死のサインを探すことでは
自死を防ぐことはできないと述べています。
ではどうするかということですが、
自死が、ほぼ無意識の領域で決意されることからも、
本人の苦しさを基準に考えてはならないということを
提案しているところです。

ややメンタルの弱い人を基準に、
その人の置かれている状況を客観的に判断し、
不可能を強いられている
孤立感が起きる可能性のある状態だ
と第三者が判断したら、
その環境からその人を離脱させる
環境を改善するか、集団から文字通り脱退させる
そして、安全な集団に一時避難をさせる
安全な集団もどのようにその人に接するか
きっちりレクチャーされた集団で、
外部の人間が随時修正ができる状態
にして、回復を待つ
大雑把に言えばそういう政策に重点を置くべきだ
と考えています。

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